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例えば「甲子園に出たことがある」は経験なのか

今回は経験の見つけ方についての考えを書きます。

キャリアに興味のある方。自分自身のことで悩んでいる方。
ぜひご覧ください。

追記
この話を書きながら思いましたが、今度「甲子園球児のキャリア」ってタイトルで何か書いてみようと思いました。研究します。

前置き(始まる前の無駄話)

サラリーマン時代はとにかく前に進んでいた。
過去を振り返らず、「売って売って売りまくれ!」、「働け働け、残業せずに!」前を見ることが美徳とされていた。

少なくとも僕にはそんな風に見えていた。

もちろん過去を振り返ることもある。

営業の分析だとか、自己の仕事の棚卸だとか、
昇給昇進の評価のための「振り返り」はきちんと
時間がとられていた。

僕も15年間の会社員生活でことあるごとに
「振り返り」をまじめにしていた。

しかし、その主な目的は会社の中での立ち位置を決める評価のためだ。


僕の性格だからか、この自己評価が本当に面白くなかった。

年々その感情は大きくなり、理由は上記の通り
「会社の中での立ち位置を会社に決めてもらう」
ことに30歳を超えたあたりから徐々に反抗的になってしまった。

(我ながらどうかと思う・・・。)

会社ではなく、お客や社会のために働いて結果的に自分のためになればいい。そう思うようにする。

思うだけではなく、実際に誰かの役に立つためには、というよりも、「自分は誰のために何ができるんだろう?」という疑問が大きくなってきた。

前置き長くなったけど、今回も経験の話がしたい。
自分を振り返ることで誰にでもある「今の自分を作り出している」経験。

「個」の時代

僕はキャリアコンサルタントだ。それは人がもつ経験を大切にし、そこから個人の可能性を発見をすることができる仕事。

個人の時代と言われている現代。令和の時代は「個」と「会社・組織」がいかに融合して良い社会を築き上げられるか興味深くなる。

一方でその「個」をいかに生かすか殺すかはその個人の自由であり、力量が試されるところ。
幸いなことに我々はSNSなどを通じて社会と簡単にどこでも、いつでも繋がることができるので、たとえ「個」を見出すことができなくてもどこかに属しながら生きていくことはできる。
特段問題なく生きていける。だけど、いつか必ず思う時が来る。

「自分って何だろう?」

簡単に誰かと繋がり、どこかのコミュニティに属すことはできるけど、自分自身は一体何がしたいのか、迷い戸惑ったときには、そこから抜け出すのは意外と難しい。

そんな時、「自分は〇〇な人間。」「私は●●を大切にして生きている。だから今この仕事に就き、将来は〇〇を目指している!」なんてカッコよく言い切りたい。

「私は30年、これといってパッとした人生でなかった。」
「私は15年野球ばっかりで、それだけしかしていない。ほかには何もない」

誰だって、自信を失ったり、将来に不安に思う時はある。あるいは自信満々の人でもさらにその自信を確かなものにしたい。

自分に自信をつけるのは自分しかいない。

自分が自分の歴史の中にある「個」を確かめることで
・今の自分の存在意義を認識できる
・これからの展望を発見できる

自分を知ることは時に恐ろしく、何もないんじゃないかと不安になることもある。期待過剰よりも、何があるのかな?と探検者になったつもりで、自分を振り返るほうが逆に見つけやすい。
自分の「個」はなんなのか、見つけにいこうと思う。

振り返れば経験、やっただけは体験

前回書いたnoteに

体験は体験したことそのもの(自分がやってみたこと)を指し、経験は体験した中で学び得たことがある状態が経験というように定義する。

上記のように僕は説明した。

人それぞれ、例えば20年生きてたとしたら、約7300日分の体験を毎日何かしら行っている。
その体験が初めてなのか、複数回目なのか、それとも毎日のルーティンなのかはおいておく。

その中には重要な体験、例えば、
・病気をして入院した
・難関高校を受験して合格した
・初めての恋人ができた
・部活に所属してインターハイに出場した
・大学受験失敗して現在浪人中

などが思い浮かぶかもしれない。
ただ、いい思い出として覚えているだけであれば僕はこれを体験だと考えている。

自己理解ができた状態にするためにはその体験を経験へと昇華させたい。

経験はその体験から学びを得た状態。であれば自分にとって重要な体験をやはり振り返ることから始めたい。

今の自分は過去の自分の行動の結果

タイムマシンでもああれば振り返りは簡単だけど、ドラ〇もんがまだ存在しない21世紀では道具ではなく自分自身のマインドに頼らなければならない。

振り返り思い出し、そのとき何があったのか、強烈な出来事は何なのか。

ここから先、自問自答する。

野球部で甲子園目指してがんばったことでも、彼女を作るためにファッションセンス磨いたことでもいい。

質問は基本的にYes or Noで答える質問や5W1H。

「いつ、どこで、誰が、何を、どうして、どのように」

そして、テーマ設定となる質問。学生であれば、

「人生一番良かった思い出」
「一番努力したこと、苦労したこと」など

こういった質問の繰り返し。

だた繰り返すのは同じ内容を繰り返して永遠にループさせる必要はない。

「螺旋階段」状に次元を高めていく。というか掘り下げていく。

以下は僕の妄想が作り出した話。参考にしてほしい。

・今までで一番がんばったことは?⇒野球
・いつから野球始めた?⇒小学校4年生から
・どこでやってたの?⇒小学校のスポーツ少年団
・どうして野球を一番頑張ったと言えるの?⇒甲子園まで行ったから

・甲子園に行くために何を努力していた?⇒毎日朝練習は欠かさず行った
・その朝練習はいつから続けてた?⇒小学校からずっと高校まで
・誰と練習してた?⇒父親と。
・どうやって練習してた?⇒ジョギングやバッティング練習をしていた
・どうして続けることができた?
⇒小学校からずっと甲子園に憧れていて、絶対に出たいと思って。練習をしなければライバルが多いことも知っていた

・甲子園に出場できて何が良かった?
⇒幼いころからの夢が叶い達成感を味わえた。
・誰か喜んでくれた人はいる?⇒家族みんな。特に父親。
・お父さんが喜んでくれる姿を見てどう思った?
⇒ほんとに嬉しかった。一緒にずっとやってきたからだと思うけど、父は自分のことのように喜んでくれてるんだと思った。

・それからのあなたはまだ野球をしているの?
⇒もうしていない。甲子園も初戦敗退でそのあと引退した。
今は趣味として野球をしているだけ。
・野球を将来仕事にするの?⇒いえ。そんな実力がないのはわかってる。けど、野球の何かに関わりたい。
・何ができそう?
⇒野球の楽しさを伝えたい。

野球の楽しさを伝える仕事が何なのかは置いといて。
たとえ話でしかないけれど、この話の主人公でいくと、単に
「野球ばかりしていて、甲子園まで出場したから野球が好き。

だから野球の楽しさを伝えたい」と結論づいていいるが、本質はもっと深くある。

・父がともに練習を付き合ってくれて、まるで自分のことのように喜んでくれる姿に心が動いてた。
・自分の長年の夢を叶えることができた喜びを知っている
・厳しいトレーニングを継続的に行うことができている。

という面が見えている。これが経験。

甲子園に出たことは体験。
出ただけとは言わない。甲子園出場経験は大学受験の履歴書にも書ける立派な経験。

けれど社会に出ても使えるのか。その後野球と切り離された人生の中でも使える経験なのか?と問われると、やはり僕が考えるにこれは体験。

決して高校球児を否定しているわけではない。
正直甲子園に出ることは大変で、並大抵の努力ではないだろう。

しかしながらそこから先にプロ野球、あるいは大学野球、実業団野球などそこから先の生活も実践での野球を通して生活をする人は絞られてしまう。さらに言えば全49校、出場するスタメンだけで考えても441名。控え選手も含めると軽く500名は超える。

何が言いたいかというと、甲子園に出場した話は、確かに素晴らしいものだが、オリジナリティさにはそれだけでは欠けてしまう。


つまり自分自身を表すのにはそれだけでは不十分。ましてや将来につながる経験なのかというとそれだけでは曖昧で、折れやすい。


折れやすいというのは、
「甲子園まで出たのに。甲子園まで行ったけど、その後何もない」
などかつて立派な成績を残したとしても、それだけを武器にしていては、折れてしまう。次に何をすればいいのか見えてこない。

ひとつの体験。甲子園にでたことがある。その裏側に何があるのかを探り、自分自身をもっと知ることで、本当の何を得たのかという中身のある「経験」に変わる。

僕は体験が経験に昇華すると考えている。
この経験が一貫性をもってあつまったものを「キャリア」と呼ぶ。

これが僕の考えるキャリア。

この野球青年(妄想上の)は人の夢を一緒に応援することができる。それは今は野球だけかもしれないけれど将来的にサッカーでもなんでも子供でも大人でも応援できる。
それも声をかける応援ではなく、一緒に寄り添いながら何かをやり遂げる手伝いができるはず。

それがこの野球青年の経験から見えるネクスト・キャリア。

終わりに

振り返りは当たり前だけど、当たり前にできない。
それは性格的な面や時間的な面、あるいは深堀するのが苦手など要因は様々。

せっかく大きな体験をしても、そこから何も振り返らなければ体験は経験に昇華しない。

経験として自分自身が理解しておかなければ、いわゆる「かつての栄光」にとどまる。

一定期間、あるいは一定のコミュニティの中では受け入れられることでも、広く社会一般ではたとえ甲子園に出場経験があるといった立派なことでさえ、無残に跳ねのけてしまう。社会はそういう怖い一面もある。

振り返りをしよう。いつの時代でもがんばったやつはいくらでもいる。その頑張りをその時だけにしないでほしい。

がんばった体験は、将来社会で役立つ経験。

振り返りましょう。キャリアコンサルタントを頼ってみてください。

あなたの良きインタビュアーになれると思います。

                                                                                     NORIYUKI.H

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