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日本で大活躍する海外リーダーインタビュー企画「よぎ氏」のCareerFlyとは-前編

日本で活躍する外国籍リーダーへ今後の飛躍(Career Fly)を訊く!
異国の地日本に拠点を持ち、区議という立場で江戸川区をリードするよぎ氏のCareer Flyとは何か。インド人街と言われる「西葛西」からリーダーシップを発揮するよぎ氏のモチベーションの源泉とは何かを伺い、日本生活や働くことを目指す方々へ有用な情報をお届けする。

東京都江戸川区議 プラニク・ヨゲンドラ(よぎ)氏
インド州立大学国際経済学修士号。国費留学生として2度来日。インド国立ビジネススクールで国際経営管理を勉学。日系大手銀行にて、国内外の業務改善や新店舗出店等に貢献。大手IT企業で15年以上勤務する。システムエンジニア、プロジェクトマネージャの職を経て、グローバルIT企業の日本支社長に就任。ライフワークとして日本初の本格インド家庭料理店を西葛西に出店。名店として、多くのテレビ・雑誌・新聞に取り上げられ、全国トップの印度料理店に。2017年、東葛西に江戸川印度文化センターを設立し、印度と日本の文化交流に貢献している。2019年江戸川区議選に出馬し見事当選。区議として精力的に活動する。


「言語の才能あり」の一言から始まった日本への興味

CareerFly大野(以下大野): ご当選おめでとうございました。

よぎ氏(以下よぎ氏):有難うございます!

大野:今日は区議の立場であるよぎさんのお話も伺いたいのですが、日本で大活躍する外国籍リーダーとして今後どのようなキャリアを歩むかお聞かせください。

よぎ氏:私、話が長くなるけど大丈夫ですか?(笑)

大野:区切るのでご安心ください。(笑)
さて、色んな方から聞かれると思いますが、「日本に来たきっかけ」はなんだったのでしょうか?

よぎ氏:父親の一言です。高校を卒業した15-6歳のころ、「言語の才能がある」と言われました。それを自分でわかっているのかと問われたのです。そこで、それまでに学んだ言葉と丸ごと違う日本語を勉強することに決めました。日本との繋がりとなる第一歩でした。

大野:ちなみに当時操っていた言語は?

よぎ氏:マラティー、ヒンディー、英語、サンスクリット、そしてベーシックなスペイン語です。

大野:そこにプラスして日本語!ですね。語学習得の才能があるというのも頷けます。

よぎ氏:プラスドイツ語も。(笑)大学時代、メインで選択していましたが、日本語に夢中になり、一年後にはドイツ語習得は一旦辞めました。勉強というよりか、趣味として楽しく学ぶという感覚でした。本当に学ぶことが楽しかったです。

大野:何が一番楽しかったですか?

よぎ氏:できること!(笑)

大野:成績優秀で大学トップですもんね!(笑)やればやるほど結果として反映されるからやる気でますね。

よぎ氏:私の成績には新記録も多い!
当時日本語を教えてくれた先生と同級生に恵まれていました。そのお陰で日本語を楽しく学ぶことができ今へと繋がっています。

10代からIT企業でキャリアをスタート

大野:社会人デビューはいつ頃から?

よぎ氏:在学中19歳の時です。インドIT企業から内定をもらい、仕事していました。3年半ITの分野で勤め、日本へ行った時期などもありましたが、2000年ご縁がありインド日系企業に就職しました。同社社長が日本人の方で、いわゆる社長秘書のように右腕左腕となり職務遂行しました。

その出会いは特別でした。本当に素晴らしい上司であり、ビジネスパーソンでした。学校の先生などから学ぶことのできない、「モノの考え方」「仕事に対する姿勢」を彼から学ぶことができました。

大野:彼からの学びで一番印象に残っていることは?

よぎ氏「まず紙に書く」という教えです。
自分の頭を信用してはいけない、とにかくなんでも書いて考えることが大事。多方面に興味があり常に複数の事を考えている私の傾向を見抜いてそう助言してくれたかもしれません。
そもそも人は想像力豊かなので、紙に書かないと実際の言動へ移すことはできない。もともと、紙にまとめるのは苦手だったのですが、この助言のお陰でドキュメントをまとめる(文章を書く)ことが得意になりました。銀行時代にとても褒められた能力の一つです。

大野:文章力は誰もが持ち合わせているものではないですよね。

よぎ氏:しばらくは、上述した会社に大変お世話になりました。その後、インド大手Infosysに入社して、研修後すぐ日本へ転勤となりました。

大野:日本語ご堪能ですもんね!そこからずっと日本での生活ですね。来日当時(2003年)と今現在の日本の違いを教えてください。

よぎ氏:状況はかなり変化したと思います。
現在は「多様性、多文化共生」と言われ、政府主導で物事が進んでいます。来日当初はこのような言葉を聞くことがなかった。差別レベルも高かったというのが正直なところです。

生活という視点でみると、2000年前後は「言葉の壁」「ビザ」の問題がありました。当時、インドでの出産を考えるのもそれらの理由からです。病院での言語対応が全て日本語だととても不安です。英語も通じない。日本語能力試験のN1を取得していたと言え、医療言語に対しては多少不安がありました。両親を呼び寄せるとなった時にビザがでないという理由もあり、インドで子どもを産むという選択肢しかなかった。

大野:産後サポートする両親を連れてこれないとなると、自分たちが里帰りするしかないですもんね。

よぎ氏:現在は、外国籍専用多言語対応する病院もありますし、子供を日本で産むとなると半年〜1年程度親(祖父母の立場となる)に対してビザが出ます。大きな変化です。

中編へ続く.....

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