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[古い日記] 2013年米国債の危機に思う

※この文章は2013年10月から12月にかけての記録と雑考である。

2013年10月13日

上下院のねじれ状態を原因として、債務上限引き上げの法案がなかなか成立しない米国では、数十時間以内にも国債デフォルトの危機が迫っているといわれる。

予算の成立を待たずに政府の会計年度が始まったため、10月頭から政府機関の一部は封鎖されている。
先日職場に来ていたNSF(National Science Foundation、アメリカ国立科学財団)の某役人にきいたところ、アメリカの公務員は一部、文字通り自宅警備員をやっているという。彼の場合は渡航費を日本の某大学が出していたからたまたま来られた。
また、米国の政府予算が凍結となった10月1日以来、.gov系のアドレスに送るメールがすべて弾かれるという珍現象が発生している。
これは心穏やかではいられない。


エコノミストのマイケル・ハドソンによれば、過去数十年間にわたる世界経済の変遷は、米国の債務創出の歴史にほかならない。
米国は金本位制を廃止して以来、連邦政府が発行する国債を国際的な通貨価値の基準としてきた。これは世界中のあらゆる銀行に対して程度の差こそあれ何らかのコミットメントを強いる、米国のパワーの象徴であった。
1971年以前は,石油・ドル・金の三本柱が米国政府の国際収支を決定する基準であり、他国の中央銀行はいつでも、ドルの剰余分を金に換えることができた。しかし金が本位貨幣でなくなってからは貨幣価値の基準はすべてドルが決定するようになった。

ドルを金に換えることができなくなった金融機関には,米国債を買い上げる以外に選択肢はない。換言すれば,ドルが余っている国は総じて,米国政府に対する貸し付けをすることを余儀なくされる。

この継続的な貸し付けこそが世界経済に決定的な構造変化をもたらした。
ハドソンの言葉を借りると「返済義務のない無限のロールオーバー拠出」が作り出されるということになる。

ウォーラーステインの盟友でもあった社会学者のジョヴァンニ・アリギは、こうした傾向が生み出された背景として,1979年から1982年にかけたマネタリズムの台頭をあげる。
レーガンが金利政策を導入した際、グローバルな財のフローが再びドルと米国市場に流入した。このムーヴメントこそが90年代における米国経済の復興を支え、政府による多額の公共事業投資(含科学技術R&D)を可能にした。

つまり米国の覇権は、パラドキシカルな基盤のうえに再生されたといえる。
第二次大戦後に支配的な債権国となった国が、今や世界最大の債務国として資本市場を膨張させている。継続的な外資流入により、国際収支は赤字にとどまったままだ。

このプロセスを通じて、米国は債務を「世界史においても先例がない」(byアリギ)レベルにまで膨張させた。こうして米国は、徐々に債務の「帝国」を作っていった。。

不思議なことに、この帝国には植民地を運営するための有形資産や担保が存在しない。常に更新されていく借り入れの利率を決定しているのは、ただの「信用」である。

債務がグローバルに展開したとき、マネーの世界に何が起きたか?
世界最大の覇権国家が資金源を絶え間ない借入に頼りつづけたとき、国際秩序になにがおこったか、それは2008年の9月以降、歴史が目撃した通りだ。

マルクスによれば、借入による金融価値の創出は、資本主義的倒錯の最も深刻な形式である。この倒錯のもとでは、政府が価格安定策を講じなくても、資本が価値を自己産出するという幻想が産み出される。
米国の債務帝国主義の原理主義的なロジックはこの倒錯に支えられている。


2013年12月12日

10月の米国債の危機について日記を書いた直後に、米上院の超党派が提示した債務上限引き上げ案と暫定予算が可決され、デフォルトは回避された。
ほっとしたという人も多かろう。

とはいえ課題は山積みである。暫定予算(政府機関の稼働)は2014年1月15日までで、米債務上限引き上げは2月7日までであり、近日中のデフォルトリスクが去ったとはまだ言えない
年末にかけ、FOMCの緩和継続がどこまできいてくるのか。

しかし、このようなその場しのぎ的立法をしていけばどんどん国債を発行していけるという事態こそまさに、債務帝国アメリカの病理のわかりやすい症候であろう。歴史的に、米国債は時間と空間の制約を超えた信用のスパイラルを創出してきている。

継続的な借入による金融価値の創出が、深刻な資本主義的倒錯の表象であるとマルクスは述べた。
21世紀のエコノミストであるマイケル・ハドソンも、米国の債務帝国主義が生産する倒錯状態が、論理的な極値に到達しつつあることを指摘している。
曰く、国際的通貨基準となった米国国債は、貨幣というものが資産から借入へと、その形態を進化させたことの象徴である。資本主義が孕む狂気が、歴史上前例のない形で表出したのだ。

マルクスはまた、富の一般的な形式は、自らに課せられる制約を乗り越えようとする無限の慣性力を持つ、とも論じていた。
米国の債務創出に対しては今回の危機からもわかるとおり、さまざまな制度上のバリアが存在するにも関わらず、債務を担保するルール(つまりここでは連邦政府予算に関する法律)は、空間や時間の媒介から自らを解き放つ方向へと進化し続けている。
もはや単に米国の覇権が依って立つ論理的パラドクスだけを問題にすることはできない。
債務創出による価値の生産は、生命圏と非生命圏の境界=地球環境を乗り越えて進みつつある。

要は実体経済とマネーの額面の極端な不一致、というよく指摘されるアレを言い換えたい。とにかく、世界の通貨価値の基準となっている米国債がデフォルトする(しかける)という事態は考えてみれば、経済学のタームで語られる経済的現象の範疇を超え出ている。米国の債務帝国主義は、むしろ生態学的な発想で語られるべきかもしれない。これは環境経済学者たちが試みていることではあると理解している。

さまざまな政治経済の評論家が展開している議論を一気にパラフレーズしてしまえば、とりあえず米国債の信用担保は地上には存在しない、ということになろう。少なくとも現在の自然科学が認識できる次元には無い。

かつては米国や日本といった経済大国による世界経済の席巻は、ひとつには石油に代表される地下資源の収奪と結びつけて語られることも多かった。
しかしすでに、地上の富が(金でも石油でもシェールガスでもなんでもいいが)、なんらかの物質と結びついている、というようなナイーヴな信念が通用する時代は終わった。債務帝国主義による価値の自己再生産は、このような地球の物質的限界を完全に突破してしまっている。

シェー ルガス革命により、米国の債務創出スパイラルが地球の石油俯存量を削り取ることで成り立っているというあからさまさが表面上薄れているのも一因だろう。しかしなにより、この明らかに不安定な状況に油を注いでいるのは、信用を担保している資本主義の倒錯(by マルクス)である。純粋な「信用」の世界において資本が地球のキャパシティの限界 を超えて自己再生産することが可能なのはこの倒錯のおかげとしか言いようが無い。

国債の借り換えが投機的な慣性力を持つことは自明だが、それは事態の一面でしかないだろう。
小切手にせよクレジットカードにせよ米国債にせよ、債務の将来的な返済が約束されていることを証明するためには、なんらかの形での物質との繋がりを示していく必要がある。
したがって債務帝国の倒錯は投機的かつ逃避的であるだけでなく、ある意味で極めて唯物的でもある。換言すれば、繰り返される借入は、物質化の慣性も内在させているということだ。
米国債含め、長期的には、あらゆる債務は地球上にある物質に帰属し、返済される「ことになっている」。
こうした、地球上の物質を参照することにより、自律的に物価が安定化されていくプロセスは、一種のオートポイエーシスのようでもある。

われわれは130年以上前にマルクスが予言した、資本主義の倒錯が生み出す幻想を目撃しているのではないだろうか??

[完]

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