見出し画像

🍩J Dillaをよりよく知るためのAtoZ

はじめに

 本記事では、J Dilla / ジェイディラや、Jay Dee / ジェイディーなどの呼び名で知られているアメリカ人の音楽家(以降ディラと記す)の生涯と音楽に関連する豆知識的なトピックを25個のアルファベットごとに1つずつ選定し、概説した。Aから順に並べているだけなので、トピックの内容に前後の繋がりは無い。また、順番はバラバラに書いたので、情報の重複や相互参照の欠落には目を瞑ってもらいたい。
 ディラの本名はJames Dewitt Yanceyといい、1974年2月7日にミシガン州デトロイトで生まれ、2006年2月10日に32歳で亡くなった人物である。彼はその短い生涯の間に、主にヒップホップ/R&Bの領域で、プロデューサー、ビートメーカー、時にはラッパーとして活動し、音楽の歴史に対する多大な功績を残した。直接的であれ間接的であれ、今日もはや彼の影響を受けていないポピュラー音楽を見つけるほうが難しいほどである(これは誇張)。
 2月は彼の誕生日と命日の両方を含むため、Dilla Monthとして世界中のファンの間で広く祝われる。私もディラがこの世界に残した音楽を愛好する人間の端くれとしてこの月を記念したく、noteに記事を書いてみた。本記事が、まだディラを知らない方にとっては、彼の生涯に関する学びと彼の音楽を聴くことの入り口の扉を開くきっかけに、既に彼のファンだと自認する方にとってはよりいっそう知識を深めるきっかけになることを望む。
 ディラがプロデューサーやソロアーティストとして稼働していた期間は長いとは言えないが、彼の生涯は濃密でありその音楽的な遺産もまた膨大である。当然、本記事でカバーできている範囲はごく限られている。さらに深く知りたい向きには、昨年の2月に出版されたアメリカの音楽ジャーナリストDan Charnas氏の手になるディラの本格評伝『Dilla Time』(MCD)を勧めたい。4年の歳月と200件以上の関係者インタビューを経て完成したという大部の著で、読者の側にも大変な労力がかかるが、ディラファンはぜひ手に取るべき1冊と考える。本記事の内容も、ほとんどは同書を参照して引いている。

 なおディラはJ Dilla、Jay Dee、Dilladawg、John Doeなど、時期や立場に応じて様々な芸名を用いていた。紛らわしいので、本記事では人物としての彼個人を指す場合は特にこだわりなく「ディラ」とカタカナ表記している。ただし、具体的な活動時期や関与した作中のクレジットを特定する意図で、個別の芸名を書いている箇所もある。

本編 J Dillaをよりよく知るAtoZ

A: Akai MPC3000

1994年発売のドラムマシン/サンプラー。ディラのキャリアと、そのビートメイキングの技術を象徴する機材。4列×4列で配置された16個のパッドは打感と操作性に優れ、それまでのドラムマシンと一線を画すクリエイティビティを操作する者に与えた。ディラの場合はクオンタイズを切ったリアルタイム演奏によるオーガニックな質感の表現が可能になったわけだが、もちろんこれを使ってヒップホップクラシックを作り出していったビートメイカーは彼だけに限らない。発売から30年を数えようとする今も未だに愛用者が多く、リイシューが繰り返されている名機。

ワシントンD.C.の国立アフリカ系アメリカ人歴史博物館に展示されている、
ディラ本人が使用していたMPC3000の実機

B: Beats

音楽にとってビートとは何か?ディラの音楽は私たちに常に問いかける。
通常、2つの音が別のタイミングで鳴った場合、3つ目の音は1つ目と2つ目との間にあるのと同じ時間的間隔をあけて鳴ることが「期待」される。人間の脳が否応なく認識してしまうこの規則性こそがビートの正体なのだが、この期待をある意味で裏切るという機構を持ち込むことで、従前のポピュラー音楽に革命をもたらしたのがディラだった。
彼はパーカッションやドラムをはじめとして、様々な音色の楽器が鳴るタイミングを、「普通ならここで鳴るだろう」と期待される位置の前や後ろにずらした音楽を作った。それは特に、音楽制作においてコンピュータベースの機械の使用が一般化し、その気になれば極めて規則正しいビートを作ることができた90年代の環境下では、控えめに言って異質だった。
しかし歴史を振り返れば、Louis Armstrongにはじまり、多くのジャズミュージシャンたちはリズムの後ろ側にもたれかかるようなメロディの節回しで洒脱さを表現していたし、あるいはゴスペルにおいて、大勢の人間が同じメロディを歌うことで生じる微妙なタイミングのずれは、演奏の重厚さを増す効果を生んだ。
つまり、ヨレやモタリに特異性を指摘されるディラの音楽も、言うなれば北米産ブラックミュージックの伝統の上に定位されるものなのだ。

C: Common

本名Lonnie Rashid Lynn。1972年イリノイ州シカゴ出身のMCで、不世出のリリシスト。Jay Deeの卓越したプロダクションにより制作されたMCA移籍後第一作『Like Water For Chocolate』(2000)はそれまではアンダーグラウンドな存在だった彼が一気にスターダムを駆け上がるきっかけとなり、ヘッズの間では未だに語り草となる伝説的名盤である。同アルバムは、ディラがプロデューサーとして関与した諸作の中でも最高傑作とされることが多い。
ニューヨークのElectric Lady Studioや、デトロイトにあるディラの自宅などでの共同制作を通じて交友を深めた彼らは、ディラの最期の時まで良き友人だった。闘病に入ったディラがロサンゼルスに居を移したのも、演技のキャリアを探求するため先んじて引っ越していたCommonの存在が大きかった。

D: Donuts

2006年の誕生日にリリースされ、遺作となったアルバムのタイトルでもあり、作今でもディラの未公開音源集や関連グッズにはドーナツのモチーフが使われることが多い。ドーナツはもちろんレコードや、翻って録音芸術そのものの隠語でもあるのだが、ディラは実際に食べ物のドーナツが好きだったようだ。母方の叔父であるHerman Hayesが親戚の集まりのたびに持ち込んでいた手作りドーナツは、彼の子供たちにはウケが悪かったが、甥っ子からは熱烈な歓迎を受けた。

E: Electric Lady Studio

ニューヨークのグリニッジ・ビレッジに所在するレコーディングスタジオ。1970年に作られ、元々はJimi Hendrixの所有物だった。開業当初は盛況で、David BowieやStevie Wonder、Led Zeppelinといったビッグな音楽家らが数々の名演を吹き込んだ。しかしコンピュータ化の波や相次ぐ録音技術の刷新なども重なり、いわゆる昔ながらのアナログなスタジオとして、やがて忘れ去られてしまった。
90年代も終わりに差し掛かる頃、若く才能あふれるソウルミュージシャンD’Angeloが、マンハッタンの片隅で埃をかぶっていたこのスタジオに再び息を吹き込む。DはMarvin GayeやDonny Hathawayが作り上げた伝統的なソウルマナーを継ぐ俊英として、1stアルバム『Brown Sugar』(1995)で華々しくデビューし、その後はさらなる温故知新路線の探求を志していた。Dが目指す素朴で生々しい音楽を作り出すためには、アナクロでアナログな録音環境が必要だった。Electric Lady Studioには、Stevie Wonderが実際に弾いたローズピアノをはじめとして、ヴィンテージ機材の宝の山でもあった。古き良きソウルの復権を目指す若きD'Angeloにとっては夢のような場所だ。
こうしてElectric Lady Studioで制作・録音されたのが、ネオソウルの金字塔『Voodoo』(Virgin, 2000)である。発表から20年以上が経過した今でも録音芸術の最高傑作と称されることも多い同作に向けたレコーディングセッションには、Questlove、Pino Palladino、James Poyser、Charlie Hunter、Roy Hargroveら名うての腕利きスタジオミュージシャンに加えて、既にD’AngeloやQuestloveからは神格化に近い尊敬を受けていたヒップホップの革命家Jay Deeが集まった。ディラ含めみずがめ座(Aquarius)の人間が多かったことから、彼らはやがてソウルクエリアンズ/The Soulquariansを自称するようになる。
Electric Lady Studioにおけるソウルクエリアンズのセッションからは、Voodooに加えてErykah Badu『Mama’s Gun』(Motown, 2000)、Common『Like Water For Chololate』(Geffen, 2000) 他、ブラックミュージック史上に燦然と輝く名盤の数々が生み出されることになる。そのすべての中心にいたのが他ならぬディラだった。彼は時にMPCでビートを打ち込み、時にローズピアノでベースラインを手弾きし、自身の中に眠っていた元来のミュージシャンシップを覚醒させていった。そして手練れに囲まれながらも、リズム面においては圧倒的なグルとしてプロダクションをリードした。

ソウルクエリアンズ 2000年9月 伝説のVibe誌のフォトシュートにて。

F: Fantastic

Slum Villageのアルバムタイトル。Slum Villageはディラが地元デトロイトの親友Waajeed、Baatin、T3、Que.Dとともに結成したグループである。2000年代に入り、ディラがビートメイカーとして本格的な商業的成功を収めると袂を分かつことになるが、彼が在籍中に制作された2枚のアルバム『Fantastic Vol.1』(Counterflow, 1997) と『Fantastic Vol.2』(Goodvibe Recordings, 2000) は商業主義化を極めつつあった同時代の主流派ヒップホップとは一線を画す、それぞれのメンバーの創造性に満ち満ちた珠玉の音源集である。
特に『~Vol.2』には”Fall In Love”、”2U4U”他、クラシックと呼ぶべき名トラックが多数収録されており、後発ミュージシャンによるカバーやオマージュは21世紀に入っても後を立たない。あまり注目されることが無いJay Deeのラップもたっぷりと聴くことができる。

G: Grid

ディラの音楽を形容する際にしばしば用いられる”Off grid”という言葉にはふたつの異なる、しかし互いに微妙に関連した意味がある。
ふつうGridは、音楽制作の世界ではDAW上での小節あるいは拍を区切る単位を指す。例えば4拍子の曲であれば1小節は等間隔な4つの区間に仕切られており、この仕切り線のことがグリッドと呼ばれる。グリッドはもちろん16分割、32分割といったように4の等倍で自由に設定可能である。また、クオンタイズ(自動調整)幅を指定することで音源をグリッドの直上、つまり楽曲の律動的にジャストなタイミングで鳴らすことができる。このような精度が高い制御はヒップホップのようなダンスミュージックにとっては本来はメリットである。しかしあえてクオンタイズ機能を切って、機械による完全無欠なコントロールからビートを解き放ったのがディラだった。これが1つ目のOff grid。
もうひとつ、Gridには電力網という意味もある。電力網が象徴するのはそこに接続された機械、つまり音楽を作るコンピューターベースの機材だ。それはドラムマシンであり、サンプラーであり、シーケンサーであり、それらを統合したDAW/Digital Audio Workstationのことでもある。ディラはまずもってマシンで制作を行う音楽家だったが、その短いキャリアを通じ、James PoyserやPino Palladinoといったスタジオミュージシャン、The Rootsの面々、Roy HargroveやKareem Rigginsといったジャズ演奏家たちとのインパクトフルなコラボレーションを次々に行うことで、機械(On grid)の世界に閉じていたヒップホップの世界を人力の演奏に解放していった。

H: House Shoes

本名Michael Buchanan。ヒップホップ不毛の地だった80年代末~90年代初頭のデトロイトにおいて、若きディラに導きの糸を与えたアンダーグラウンドの雄。ヒップホップ中心のイベントを開催したハコとしては草分け的存在だったSt. Andrews HallのレジデントDJであり、後にEminemという稀代のMCをも生み出すポテンシャルを持っていたデトロイトのヒップホップコミュニティにディラを招き入れた。DJ House Shoesの異名は、いつも室内履きのスリッパを着用してDJブースに立っていたことからついた。

I: “It’s A Shame”

黄金期モータウンを代表する4人組The Spinnersが1970年に発表した楽曲。ディラの父であるBeverly Dewitt Yanceyが作曲したようだ(本人談)が作曲者としてクレジットされていないため真偽は正確には不明である。ジャズベーシストでありつつ、音楽一本で生計を立てるには至らなかったBeverlyは、昼間はフォードの自動車工場で働きつつ、時にはモータウン相手にこうしたゴーストライティングで小遣い稼ぎをしていたのだとか。なお”It's A Shame”の作曲に対する報酬は車の現物支給だったという。なんともデトロイトを感じる逸話だが、当時のモータウンの音源大量生産体制を考えると、作曲家として外部にBeverlyのようなスポットで起用できるコントラクターを複数囲っていたとて不思議ではない。

J: Janet Jackson

ジャネットはディラがビートを提供したアーティストの中でも最も一般によく知られた存在だろうが、いわゆる「ジャネット・ジャクソン事件」はディラが今も存命ならば、忌まわしい思い出として記憶していたに違いない。
当時時代の寵児だったR&Bプロデューサーコンビ、Jimmy JamとTerry Lewis(ジャム&ルイス)は1997年のある日、ミネアポリスのローカルラジオで、ディラとQ-Tipが手掛けたThe Brand New Heavies ”Sometimes”のリミックス音源がプレイされているのを耳にして衝撃を受ける。ほどなくしてジャム&ルイスのプロデュースによりJanet Jackson ”Got Til’ It’s Gone”がリリース。大変なヒット曲となり、同曲のMVでジャネットはグラミー賞候補ともなった。
しかしこの曲はあまりにもディラ風味が強かったため、ヒットと並行して巷ではJay Dee(正確にはThe Ummah)がゴーストライティングしたのではないかという噂が立った。しかもQ-Tipがゲストで1バース分ラップを提供までしているのだ。事実は異なり、ジャム&ルイスがディラの影響を受けて制作したトラックではあるのだが、ディラはこの時の騒動を記憶しており、後になって「リベンジミックス」と通称される同曲のリミックスをThe Ummah名義でリリースする。
これは、超売れっ子で既に自分たちの芸風を確立していたジャム&ルイスでさえ即座に模倣してしまうほど、Jay Dee(とQ-Tip)のプロダクションスタイルが斬新でありなおかつ、強度が高かったことを伝えるとともに、亡くなってもなお続くディラフォロワー大量発生の幕開けを象徴する事件でもあった。

K: Kareem Riggins

ジャズドラマーでありヒップホッププロデューサー/ビートメイカー。ドラマーとしてRoy Hargroveのツアーを回っていた際にCommonと出会い、ほどなくしてディラとの交流が始まる。同郷だったこともあり、一時期はデトロイトのディラの自宅スタジオで共同作業に明け暮れた。ディラの死後もその遺志を継ぐかのように、ジャズとヒップホップを架橋する創作活動を続けている。

L: Lo-Fi

2010年代後半以降に、Lo-Fi HiphopやChill Hopの名称でもてはやされるようになったヒップホップのサブジャンルの原型はJ Dillaが作ったと言われている。しかしここにはいくつかの問題がある。
ひとつには、ヒップホップ全体がLo-Fiなのであって、Lo-Fi Hiphopという名称は同義語反復的であることだ。記憶領域が限定された旧型のサンプラーに、早回ししたソース音源を取り込み、サンプラー内で再度引き延ばす過程で音質の劣化が起こり、Low fidelty / ローファイな状態になる。この工程の存在が草創期のヒップホップのサウンドテクスチャーを定義したのだ。もちろん莫大な記憶領域が確保されている現代においてこのようなサンプリングトリックは必要ない。しかしあえて機械的にローファイな音を再現する制作者が多いのは、常にオリジナルに敬意を払うヒップホップ的価値観の発露だろうか。
もうひとつの問題としては、現在Lo-Fi系と呼ばれる、流麗で耳なじみの良い楽曲群(しばしば勉強用、作業用として消費される)と、聞く者の予期を裏切り続けるカッティングエッジなDillaの音楽は本当はかけ離れているという事実がある。ジャジーなネタ使いや落ち着いたテンポ感は確かにディラとも共通するが、所謂Lo-Fiの直系の先祖は、少なくとも聴感上であればディラと同じ生年月日を持つジャパニーズトラックメーカー、nujabesに見だすほうがより自然だろう。
nujabesはピアノやストリングスを多用したメロディアスな楽曲を多く世に送り出したが、その真髄は恐らく数秒間のループにすべてを込めるというミニマルな心意気にある。この精神性においてディラ(特にJ Dilla時代のソロ作諸作)とnujabesは深く繋がっている。なおこの2人は生年月日が同じだけでなく、ディラが亡くなった2006年2月のちょうど4年後の2010年2月に、後を追うようにnujabesも亡くなっている。
ディラは晩年に近づくにつれ自作曲を1分~2分の断章的なものにしていき、よりミニマリズムを強く感じさせる方向に作風を変化させていった。それを素材として延々とループし引き延ばすと、24時間流しっぱなしの作業BGMとして機能することを発見した点に、Lo-Fiのビートメーカーたちの画期があったのかもしれない。しかしながらそのルーツははるか昔にあったし、決してBGMとして使われる音楽として発明されたのではない(むしろJ Dillaは多くの人にとって作業の邪魔になるはずだ)ことに思いを馳せたい。いずれにせよ、現代の音楽消費者としてコアとなる世代にとって新しく聴こえれば、それは「新しい」という定義になるという抗いがたい現実もある。商業音楽の宿命である。

通称ローファイガール。一般にチル系作業BGMはスローに一定のテンポで流れることに特徴が
あり、J Dillaの音楽とはある意味で対極に位置する。

M: Madlib

別名Quasimoto、別名Yesterdays New Quintet。本名Otis Jackson Jr.。1973年カリフォルニア州オークランド出身。J Dillaと並び称されるほどの独創性を持ちつつ、一味違った方向性でヒップホップの前衛を切り開き続ける鬼才ビートメーカー。
元よりジャズに傾倒し、オーガニックなグルーヴを重視するなど音楽性が近かったMadlibとディラは、2003年にはJaylib名義で共作アルバム『Champion Sound』をドロップし、さらにディラがLAに移住した後には一緒に全米をツアーを行って交友関係を深めた。事実、J Dillaの最晩年に制作されたトラック群は明らかにMadlibの影響を受けている。
しかしながら、2人の天才を決定的に隔てていたのが演奏技術の巧拙だ。ディラはドラムマシンをはじめとして色々な楽器が巧い。達人である。Madlibは言ってしまえばヘタクソだ。良くも悪くも洗練されていないというか、時には耳を疑いたくなるほどのモタリ、ヨレ、転び、つんのめりが含まれた、極めてエッジが立った演奏内容である。それでいてなお、ギリギリ「音楽」と呼べるバランスが成立している…この危うさこそがMadlibの売りなのだ。
さてディラは、ドラムマシンやシーケンサーのクオンタイズ機能を切った、あえて人力演奏のヨレを強調したビートで有名になった。このことから、ディラとMadlibと同じような芸風のビートメイカーと捉えているヘッズも多い。大ゲサに言えば、「Madlibは西海岸版のJ Dillaだ」という具合に・・・。しかしこうした認識と異なり、2022年に刊行されたDan Charnas『Dilla Time』(MCD)が伝えるところによると、ディラは自身のサウンドシグネチャーのひとつであるヨレたビートを徹底的に計算ずくで作っていたらしい。いわば作りこまれたヨレだ。驚異的に細かなリズムの解像度でMPCを手打ちし、5拍子、7拍子のメトリックモジュレーションを巧みに織り交ぜながら従前のブーンバップビートの中に微細なズレを生み出していく。あるいは、一度クオンタイズした状態で打ち込んだビートのタイミングをシーケンサー上で微妙にズラす編集を加えることで、これぞディラというフィーリングを作り出していた。
「細かいことは考えず、全てクオンタイズオフで手打ち」という制作工程はJ Dillaについては都市伝説だったのだ。だが、Madlibは・・・?

N: Native Tongue

1980年代後半から1990年代前半に活動していた、ポジティブかつ社会・政治問題に対してコンシャスな歌詞を特徴とする一群のヒップホップグループを集合的に指す。マッチョで暴力的な歌詞ばかりのギャングスタラップが支配的になった当時のシーンに対する応答として出現しており、ニュー・スクールとも呼ばれることがある。
A Tribe Called Quest、De La Soul、The Jungle Brothersなどが代表的アーティストで、より後年になって活躍するCommonやMos Defも広い意味ではこの文脈からキャリアを開始している。サウンド面ではジャズやファンクのネタを大々的に取り入れていることに特色があり、Jay Deeも他のプロデューサーたちと並んで多大な影響を受けた。

O: おんがくこうろん

星野源がホストを務める日本放送協会の音楽教養番組。各回ごとに異なる音楽家がフィーチャーされるのだが、2022年2月11日(ディラの命日の翌日。Whitney Houstonの命日)の記念すべき第1回の放送で特集されたのはJ Dillaであった。ポンニチなディラビートを採用した星野源の楽曲”Dust”の紹介で番組が閉じられていたのは少し残念だったが、いずれにしても日本の地上波の番組でディラが大々的に取り上げられた例は歴史上はじめてだったのではないだろうか(未確認情報)。Questloveの言葉を借りると”musician’s musician’s musician”であるディラの知名度もこの番組の影響で少しは上がったと思われる。


P: Pete Rock

本名Peter O. Philips。1970年ニューヨーク州ブロンクス出身。90年代ニューヨークヒップホップの隆盛を担ったレジェンドであり、歴代最高のビートメイカーの1人に数えられる。メロウなジャズネタの流用とノイジーで荒々しいテクスチャーを自在に織り交ぜて使いこなし、サンプルソースがわからなくなるほど細分化して曲中に散りばめる「チョップ&フリップ」の達人でもある。そのスタイルからは駆け出し時代のディラが最大のインスピレーションを受けており、後にPeteがデトロイトのディラ宅を訪れた時は、彼も元ヒップホップオタク少年としての喜びを隠さなかったという。

Q: Questlove

1971年、ペンシルバニア州フィラデルフィア出身のドラマー。本名Ahmir Khalib Thompson。「ドクター」の異名を取り、今や米国のポップカルチャーを代表する賢人・ご意見番でありセレブリティとなっているが、キャリア初期は自身のバンドであるThe Rootsの「人力ヒップホップ」というコンセプト含め、半ばマニアックでカルトな存在で、控えめに言っても迷走していた。マーケットは既に機械で作られたループの心地よさを知っている中で、どう生演奏の価値を出せばよいのか?その時点で若きQuestloveが出した答えは「機械のように精確なビートを叩く」という曲芸的な方向性だった。
マシンライクな人力演奏の呪縛から彼を開放したのが、他でもないディラとの出会い、より正確には、MPCの手打ちによるオーガニックビートを大々的に取り入れた初期Slum Villageの音源群との出会いだった。
Jay Deeの才能に惚れ込んだQuestloveは、The Rootsの1999年作『Things Fall Apart』(MCA)の全面プロデュースを依頼。シングルカットもされた収録曲”Dynamite!"に明らかなように、同アルバムでは明らかにそれまでのThe Rootsには無いリズムコンセプトが導入されている。なおかつ当時彼らの売りでもあったジャズ的な演奏は背景に退き、代わりにヒップホップ成分がゴリっと増したサウンドはThe RootsとQuestloveにとって転換点になった。また、Erykah Baduをフィーチャーした”You Got Me”はその後のソウルクエリアンズでの協働を予感させるに十分な出色の出来である。
機械には出せないモタリやヨレをあえて残したり、あるいは一聴してシンプルに反復されているループの中にサブリミナル的な変化を散りばめていくというディラ的手法をドラミングに取り入れることで、Questloveは人力演奏が作るグルーヴの持つ価値を改めて世界に知らしめた。Chris DaveやCleon Edwardsといった後進の貢献もあり、今やディラビートやドランクビートと呼ばれるタメが効いた叩き方は、ブラックミュージック方面のドラマーにとって必須科目というレベルまで普及したが、Questloveこそがオリジネイターだったのだ。
ちなみにQuestoはBoyzⅡMenやジャズベーシストのChristian McBrideとは高校時代の同級生。フィリーは音楽家の層が厚いことこのうえなし。

R: “Runnin’”

”Runnin’”はロサンゼルスのヒップホップクルー、The Pharcydeの2枚目のアルバム『Labcabincalifornia』(1995年、Delicious Vinyl)に収録された楽曲。シングルカットされた際はビルボードの総合チャート55位、R&Bチャート35位を獲得し、Jay Deeが制作に参画した作品の中で実質上初めての全米ヒットとなった。
1stアルバムの成功後、2ndアルバムでは新機軸を模索していたThe Pharcydeは、ウェッサイのグループでありながらもNative Tongue風味の東海岸マナーを取り入れようと試みた。そこで、当初はQ-Tipにプロデューサーとしての起用をオファーしたのだが、売れっ子Q-Tipが多忙で仕事を受けられなかったため、事実上の代役としてJay Deeに白羽の矢が立ったのだ。
さて同曲には、Run DMC ”Rock Box”、Stan Getz ”Saudade Vem Correndo”と、渋くもキャッチーなサンプリングソースが採用されており、ジャズに深い造詣を持ちつつもそれだけにとどまらないディラならではのセンスが光る。そしてまた、MPC3000で打ち込まれたドラムビートもディラ印と言えるものだ。特に、一聴するとランダムなのだろうかと疑うほど細かい譜割の中に分散して配置されたキックドラムは、The Pharcydeのメンバー間でも殴り合いの喧嘩に発展するほどの論争を呼んだという。バラバラとした細かなキックを含むオリジナルのドラムトラックはメンバーの指示で一度削除され、フラットな「普通」のブーンバップビートが採用されかけたが、グループ内での討議後、そのビートも再度削除され、Jay Deeには元通りのテイストのビートを打ち込み直すことが要求されることになる。
「ディラは出世作となったRunnin’のビートを好きではなかった」という都市伝説がヘッズの間ではしばしば語られるが、恐らく制作過程がこうした紆余曲折を経た結果生じた飛語なのだろう。

S: Straight & Swing

ブルースやジャズなどに特徴的ないわゆるハネたリズム=スイングの概念は元来、”新”大陸を含む西欧世界には存在しなかった。そのルーツは、奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられたアフリカの人々が、奇数拍子を含む故郷の音楽を支配者たちの見守る前では堂々と演奏できなかった都合から、いわば身内同士だけで通じる暗号として、3拍子系と4拍子系のポリリズムとして西洋音楽の中に「隠した」ことにあるとする説があるようだ。
なんにせよ、ハネていないリズム=ストレート(=イーブンとも)は西欧的で理性的でシステマチックで機械的、逆にハネたリズム=スイングは非西欧的で情熱的でランダムでオーガニック、という二項対立的なイメージで語られることが多い。もちろん、この二項対立は厳密ではない。ブルースやジャズをルーツに持つファンクやヒップホップといった音楽でも、ストレートなノリの曲は存在するし、そもそもスイングの強度にも幅がある。また、どんなに高い技術を持ったドラマーであっても、数学的な意味で完全にストレートな演奏はできず、聴感上はほぼわからないが、ごく僅かなハネが生じることが知られている。人類が完璧にストレートな演奏を耳にするには、ドラムマシンの発明を待たなければならなかった。
こうしたストレートとスイングという二項対立的なフレーム自体が実に西欧的で不完全なのだが、それを知ってか知らずか、ディラはストレートでもなくスイングでもない第3の道を切り開き続けた。ディラはそもそもファンク御大James Brownの専属ドラマー、Clive Stubblefieldのタイトな演奏の中に出現する微妙な揺らぎに着目し、自身のビート制作の際のドラムブレイク素材として活用するほか、MPC上で同様のグルーヴ感を再現することを繰り返し試みていた。ディラの中で完全なストレートや完全なスイングといった概念は存在せず、あらゆるビートはハネ具合のスペクトラムを持って、両者の間に位置する。問題はどのハネ具体が、楽曲にとって気持ちよいかということなのだ。
また、ディラのシグネチャーの1つである、ジャストより微妙につんのめったスネアやハンドクラップの置き方も、ストレートとスイングの対比に疑義をもたらす。小節の2拍目と4拍目で発音されるスネアがジャストよりほんの少しだけ早い(例えばシーケンサー上ではより微細な調整が可能だが、人力でドラムを演奏する場合は「7連符1つ分早く叩く」と意識するのが有効だそうな)と、8分音符で刻まれるハイハットシンバルが、実際にはストレートでもスイングして聴こえるという耳の錯覚が生じる。この効果を動員したディラ特有のフィールを、Dan Charnasは著書『Dilla Time』(前掲)の中で、書名の通りDilla Timeと呼ぶ。これは西欧と非西欧、論理と感性、機械と人力といった一見固定的な二分律を脱構築するポスト近代の運動でもあった。

T: Time

音楽は鑑賞するうえで必ず時間の経過を伴う芸術形態である。革新的ビートメイク技術により、聴感上の一拍の長さ、つまるところ時間の流れる速さをコントロールする術を手に入れたディラは、真の意味で音楽家であったと言えるだろう。

U: Ummah, The

Q-Tip(ex. A Tribe Called Quest)はディラにとってニューヨークのヒップホップ界隈の水先案内人となった重要人物だ。ジャジーでアブストラクトなQ-Tipのスタイルは若き日のディラが憧れていたものであり、逆にTipの側もディラが持つリズミックなセンスと革新的なサンプリング手法に魅せられていた。
そんなTipとディラが、ATCQの別メンバーAli Shaheed Muhammadを加えた3人で90年代に組んでいたプロダクションチームがThe Ummahである。アラブ語で「共同体」を意味する言葉を名前に持つこのトリオは、Q-Tipの価値観を大いに反映した活動方針を取りながら、様々なアーティストの楽曲のプロデュースやリミックスを手掛けた。
The Ummahの活動方針の中で特徴的だったのはやはり徹底した報酬の割り勘と共同クレジット制だろう。例えば、それがディラが実質1人で仕上げた曲だろうが、逆にほとんど関与しなかろうが、The Ummahとして携わった楽曲が生み出すお金のうち手元に残るギャランティは、ディラと他の2人との間で全く同じなのである。また、楽曲にどれだけ貢献していてもクレジットはあくまでThe Ummahであり、Jay Deeという個人の名前が出ることは無い。これに対してまだまだ名前を売りたい若手時代のディラは慢性的に不満を抱えており、次第に世間様からも「Jay Deeは虎の威を借る狐だ」、または逆に「Q-TipはJay Deeの若い才能を搾取している」といった陰口が聞こえるようになった。しかしこのメンバー間での平等な分配システムは、シンプルに経済的な成功を修めたり名誉を手に入れることよりも何よりも、ブラザーフッドこそを重視したQ-Tipの人生哲学そのものだったのであり、覆すことは難しかった。
ディラは結局、兄貴分だったQ-Tipの価値観を受け入れることができず、The Ummahは解散することになる。ディラにとっては実質的な独り立ちの瞬間である。しかしながら2人の友情が消滅したわけではなく、ATCQをも脱退したTipがソロデビューするにあたり、全面的な支援を提供したのがディラその人だった。The Ummah解散後、2人は兄貴分と弟分としてでなく、自立した音楽家同士として新しい関係性の構築に向かったのだ。
なおThe Ummahは音楽的には多くの素晴らしいレガシーを残している。有名どころだとThe Brand New Heavies ”Sometimes” のリミックスで、これぞJay Deeと言うべき、ダンサブルでありつつもリラクシンなビートを聴くことができる。より渋いところだと、Chris Daveも在籍したR&Bバンド、Mint Conditionの珠玉のバラッド曲”Let Me Be The One”のリミックスも、思わず唸ってしまうような仕事ぶりだ。

V: Vernon Chapel

ディラの幼少期、Yancey一家が通っていたデトロイトの教会。アフリカンメソジスト(AME)系。合衆国に住むアフリカ系のコミュニティにおいて、キリスト教会が音楽教育に果たす役割は大きい。幼き日のディラも例に漏れず、聖歌隊で歌っていた父母に連れられ教会に出入りする中で、様々な楽器の演奏スキルを習得していった。なかでもドラムの腕は際立っていたという。

ディラやSlum Villageの面々が生まれ育ったConant Gardens地区のど真ん中に位置する。

W: Whitlow (Monica and Ja’mya)

ディラは誰とも法的な婚姻関係にはならなかったが、認知しているだけで2名の女性との間にそれぞれ1人ずつ娘を授かっている。そのうち1組がMonica Whitlow(母)とJa’mya Whitlow(娘)である。Monicaとは、もう1人の娘の母親であるJoylette Hunterと破局し同棲を解消した直後に出会った。ディラとの関係の中では必ずしも子供を持つことを望んでいなかったのかもしれないが、10代にして既に妊娠しづらい体質であると医師の診断を受けていたMonicaにとってJa’myaはまさに奇跡の子供だった。

X: Transfusion

ディラは32歳の誕生日を迎えた3日後の2006年2月10日に亡くなる。直接の死因となったのは「血栓性血小板減少性紫斑病(TTP)」という希少な難病であり、亡くなる2年前頃から本格的に症状が重篤化、入退院を繰り返すようになっていた。TTPは血中に血小板が凝集した血栓がたくさんできて多臓器不全を引き起こす病気であり、発症後は定期的に血漿の輸注 / transfusionを行って病態の悪化を抑える必要がある。様々な副作用を伴う治療過程のため、拘束時間の問題とともにディラの闘病生活で最も負荷がかかる要因のひとつであった。

Y: Yancey Family

ディラがともに育った家族構成を以下に記す。

Beverly Dewitt…父。自動車工場勤務。ジャズベーシスト・作編曲家(パートタイム)。1932年生まれの比較的ベタな昭和親父。2012年9月に永眠。
Maureen…母。旧姓はHayes。ディラのファンや関係者の間ではMa Dukesで通っている。介護施設やホテルの給仕などの仕事を転々としつつ、夜はラウンジ歌手をしていた。ディラの死後James Dewitt Yancey Foundationを設立し、既発音源からの収益管理や未発表音源の資産管理を行っている。
Martha、Earl、John…兄弟たち。ディラは長男だったため全員年下である。中でも干支一周分歳が離れたJohn YanceyはIlla Jの名前でラッパー/プロデューサーとして活動するほか、Ma Dukesとともに ディラが生前残した音源の保護や流通に携わる。

Z: Zapp

池袋のソウルバー。『Voodoo』や『Mama’s Gun』といったJay Dee関連諸作のヴァイナルを聴くことができる(確か)。


おわりに

ここまで読み通した方はよほどの暇人かディラヘッズのどちらかだろう。
お楽しみいただけた場合は是非Podcast『野暮な昼電波』のディラ特集回(「#21 作曲AIはMPC3000の夢を見るか?コンテンツ自動生産時代の闇夜が迫る今振り返るJ Dillaのレガシー🍩」2月7日頃公開予定)もお聴きいただきたい。ここまで深くディラについて掘り下げた日本語の音声メディアは他にないと確信しているという可能性が示唆される。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?