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Jay Deeの未発売ビート集『Another Batch』(1998)について

 以前、ジェイ・ディラ/J DillaについてA to Zのエンサイクロペディア方式で紹介した記事を作った。そちらは主に伝記的な内容で埋まってしまったので、今回は彼の音楽的特徴を凝縮した未発売のビート・テープについて紹介してみたいと思う。

 ジェイ・ディラが残した生涯最高傑作は何だろうか?録音芸術としての完成度や、プロデューサーとして関わった楽曲のセールスの観点などから選んでも、いろいろな作品があげられるだろうが、現在に至るまで各所でみられる影響力という点で、1998年、彼がまだジェイ・ディーを名乗っていた頃に制作されたビート・テープである『Another Batch』を推したい。
 この作品集は正式にリリースされたことはなく、今後もリリースされることはないと思われる。収録されたビートにラップや歌は入っていない、純粋なインストゥルメンタル・トラック集である。そしてほとんど全編にわたって原盤権がクリアされていないサンプリングソースが散りばめられている。このテープは1998年当初はジェイ・ディー自身が流通させ、その後何世代ものダビングを経て音楽業界に広まった。
 最初は名前すらなかった。ヘッズたちが後になって『Another Batch』というタイトルを付けたのだ。

 このビート・テープの断片はインターネットのあちこちに落ちているが、一番まとまったボリュームを聴くことができるのはYouTubeにある37曲入りのバージョンだ。


 『Another Batch』に収録されているビートの多くは楽曲として完成されることはなかった。しかし熱心なディラ・ファンであれば、デトロイトのMC、ファット・キャットによる「Microphone Master」と「Don't Nobody Care About Us」で使われたビートが入っているのをイントロで認識できるだろうし、コモンの2000年のヒット曲 「The Light」のアルバム・バージョンの最後に挿入された曲や、コモンがディラの死後に発売されたアルバム『The Shining』でラップした 「E=MC2」の初期バージョンも収録されている。また、ディアンジェロが2000年のアルバム・リリースに間に合わせることができなかった『Voodoo』の先行盤に収録されたトラックも入っている。

 楽曲として完成されなかったトラックの中では、ネット上のファンが 「The Wind」(風) と名付けた不思議なビートが印象的だ。命名の理由は、耳に入ったり入らなかったりする、うっすらとした得体の知れないヴォーカル・サンプルである。ビートの土台として、ディラはエグベルト・ジスモンチの「Frevo」から数秒の静かなピアノフレーズをサンプリングし、スロー再生することで濁った質感を出した。さらに明るいシンセのストリングスを加えて、サンプルの陰鬱なムードとの対照を作った。踊るようなベース・ラインは、ループするピアノがリハーモナイズされる仕掛けを作っている。これは後年ロバート・グラスパーらジャズミュージシャンが称賛することになる、サンプルの和声を編集する技術であり、ディラの音楽理論への造詣の深さを証明する好例だ。
 さらに重要なのは、この曲のドラムトラックが、ディラが前年手に入れたAkai MPC3000を使ったリズムのシグネチャートリックを導入していることだ。 ディラはスネア・ドラムを、彼の評伝『Dilla Time』(2022, MCD)の著者であるダン・チャナスが表現するところの「赤ん坊の髪の毛」のように、ジャスト位置よりもわずかに早くずらしている。結果、現在誰もが知るディラ・ビートが持つ、聴く者に方向感覚を失わせるようなドラッギーな質感が生じている。


『Another Batch』は、『Dilla Time』で詳説されているジェイ・ディラの3つのリズム加工テクニークの集大成といえる。つまり、

・人為的なミスを際立たせるためのサンプルの減速
・ランダム性を加えるためのフリーハンド演奏
・MPCのタイミング機能を使って音をずらす

といった匠の技だ。

 リズム以外のテクニークもすごい。たとえば「The Wind」では、各フレーズの終わりに明るい和声の盛り上がりが加わってメランコリーが和らげられる。シンセ・キーボードのクレッシェンドを軸に、ディラ自身のヴォーカルがちょっぴり加わった陽気な「La La La」、ケブ・モーの1980年のレコード 「Speak Your Mind」に大手術を施した 「Real Fine」など、鼓膜が割れるようなビート群はブーンバップ愛好家のたましいを高揚させてくる。
 フェンダー・ローズやヴィブラフォンによるソフトで丸みのある音色、コモン・トーンの使用による憂鬱の中に指す陽光のような旋律、解読不能な緊張感のあるヴォーカル・ハーモニーのサンプル、不明瞭で抽象的なギターやピアノのリフの抽出と、そのコード進行を自在に組み替えるベース・ライン、スイングしたハイハット、そして、ひび割れたようなスネアの音色といった、「これぞジェイ・ディラ」という意匠がギッシリ詰まっているのが『Another Batch』という菓子折りなのだ。
 
 ここにあげたようなジェイ・ディラのビートの特徴は、やがてポピュラー音楽のいたるところに現れるようになった。そしてそれらを聞くたび、わたしたちは現在でも方向感覚を失いそうになる。

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