生きることと死ぬこと〜時代と倫理観〜
コミュニティ「The Arth」内で持ち上がったこのプロジェクト。
生きることと死ぬことについて、私なりに綴っていきたい。
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ある晴れた日の訪問リハビリテーション。
いつものように近所の遊歩道を利用者さんと屋外歩行をしていた。
ふと、利用者さんの足下を見ると、次の一歩を踏み出そうとした先のその着地点に1匹のアリが動いていた。
(「このまま歩けば、踏みそうだな。」)
「あっ!」
「えっ⁈」
プチッ!
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私たちはその職業がら、人の死というものに遭遇することが多い。
「〇〇さん、今朝亡くなったらしいです。」
このような報告を受けて、心が動かないわけがない。
「お子さんは大きくなった?写真見せて!かわいいな〜」
そんなそれまでの訪問リハビリでの会話の1ページを思い出しながら通夜の席で涙することもある。
人の死というものは、とても儚く、悲しい。
逆に「生きている」って尊いと思う。
**・「生きている」とは **
でもここで改めて考えてみる。
「生きている」ってどういうことか。
人間以外の動物もみな「生きている」。
ミミズだって、おけらだって、アメンボだって〜〜♪
先ほどふんじゃったアリんこもそう。
なのに人間の命だけが尊いのか。
人類も哺乳類のうちの1つで、動物から進化してきたものだ。
最近では海外で動物愛護団体の活動も活発になってきている。
それだけ生き物の生命と言うものに重きを置かれはじめている。
改めて考えてみる。
「生きている」ってどういうことか。
心臓が動いていれば生きているのか。
脳が働いていたら生きているというのか。
実際にはそんな単純なものではないということは、現代の状況が物語っている。
例えば「脳死を人の死と認めるか」という議論は未だ結論の出ない問題である。
何をもって「死」と認めるか。
『北斗の拳』という漫画にて、主人公のケンシロウが悪党と戦って最後に言う決めゼリフ
「おまえはもう、死んでいる」
しかし言われた本人はしばらく会話できており、程なくして破裂する。
これはどういう状態なのであろうか。
それは置いといて・・・
**・技術の進歩と倫理観 **
現代のテクノロジーの進歩は目覚ましく、その加速度たるや、とどまる事を知らない。
人工知能(AI)、ロボットという単語が巷で溢れかえっている。
このような時代になってくると、どこまでが「生きている」のか、という定義も分からなくなってしまう。
例えば義足で歩いている人は、当然生きている。
人工透析を受けているひと、人工心臓のひとはどうか。もちろん、生きていると言える。
では、今後技術が進歩して、人工の脳が丸ごと付け替えられたら⁈
工場で作ったロボットに人間の脳を接続して動いているひとは⁈
このような技術の進歩に倫理観が追いついていないとも言われている。
いま一度、「生きている」と言う概念を今一度定義し直すべき時期に差し掛かっているのではないか。
**・「自分」は1つなのか **
今後技術が発達していくと、「自分」というものが新たに作られることも考えられる。
例えば、iPS細胞から作られたクローン人間などは、もう既に実現可能な領域に来ている。後は倫理的にそれを許すかどうかの判断が迫られている状況とも言える。
もしもこのようなクローン技術によって、新たな「自分」というものが作られたならば、それは本当に自分なのだろうか。
自分の細胞さえ採取していたら、いざという時にでも自分を復活させることができる。
つまり自分の人生をやり直したりすることもできるということか。
しかし残念ながら、「自分」が「自分」としての意識のもとに生まれ変わる事はできないはずである。
その理由は一卵性双生児の例からわかると思う。
一卵性双生児の双子は同じ遺伝子で生まれてくる。これはある意味クローン人間とも言えるが、現代の社会では双子姉妹の2人はそれぞれ別々の人であるといえる。
つまり、同じ遺伝子であっても、それは自分では無い。
では「自分」とは何なのか。
それは「魂」にほかならないのではないか。
急に原始的、そして宗教的に感じるかもしれないが、「意識」というものを「魂」と置き換えることでなんとなく収まりがつくように思われる。
フランスの近代哲学の祖であるデカルトは、その著書『方法序説』にて次のような有名な言葉を残している。
「我思うゆえに我あり」
これは、「周りのことを考えているという意識作用があるという事はそのように意識している自分の存在は疑い得ない」というもの。
「意識している自分の存在」
これが「魂」にほかならず、おそらく人工のものでは作り得ないかけがえのないもの、ということだと思う。
「死生観」について、最近ではクオリティーオブライフ(Quality of Life; QOL)という言葉のほかにクオリティオブデス (Quality of Death; QOD)という言葉が使われ始めている。
生きることと同じ様に死ぬことに対しても価値を求めようとしている。
本人の安心・納得できるような意思を通じた死に方。
死者に対する弔い。
これもやはり何らかの魂に働きかけていると思われる。
私たちは今日も魂を燃やしながら生きているのだ。
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☆ コミュニティ『The Arth』の皆さんも同じテーマで記事を書いています。
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