見出し画像

「疑わしきは、罰せず」を貫いた法廷~広島・家族3人放火殺人事件~

2001年1月17日未明

広島市西区己斐大迫1丁目の住宅街に、火の手が上がっていた。
二階建てのさほど大きくはないその家は炎に包まれ、二階部分も赤く火の手が迫っていた。
驚いて飛び起きた近隣住民の耳に、ふと子供の声が聞こえた。
「おねーちゃーん!おねーちゃーん!」
この住宅には、中村小夜子さん(当時53歳)と長女が暮らし、そして小夜子さんの孫である彩華ちゃん(当時8歳)と、妹のありすちゃん(当時6歳)の姉妹が良く泊まりに来ていた。

住民らの脳裏に幼い姉妹の姿がよぎった。

間一髪逃げ出せた長女は助かったものの、焼け跡から小夜子さんと幼い姉妹の遺体が見つかった。

検視解剖の結果、彩華ちゃんとありすちゃんは焼死と断定されるも、小夜子さんは首を絞められるなどして火にまかれる以前に死亡していたことが判明、事態は放火殺人の様相を呈してきた。
しかし、犯人の手掛かりはなく、5年経ってもその事件は解決を見ていなかった。

2006年、詐欺容疑で逮捕起訴されていた男性が、その取り調べの過程でこの2001年の事件への関与を認めているとして、広島県警は殺人と現住建造物等放火の疑いでその男性を逮捕した。
男性は、亡くなった小夜子さんの息子で、同じく亡くなった姉妹の父親であった。


男性のそれまで

男性は、1度目の結婚の際にもうけた彩華ちゃんとありすちゃんを引き取り1995年に離婚している。
その後、1997年ころA子さんという女性と再婚したが、A子さんにも連れ子がいた。
当初はお互いの連れ子を含めて生活していたものの、再婚相手のA子さんはどうやらこの彩華ちゃんとありすちゃんとうまくいかなかったようだ。
2000年の4月ころからは、彩華ちゃんらと同居することは無理だとA子さんは訴え、男性は彩華ちゃんとありすちゃんを連れ、家を出た。
5月12日には男性とA子さんの離婚も成立し、男性はその間、実母である小夜子さんが経営する喫茶店を生活の拠点としていたようだ。
A子さんは、離婚した月と同じくして、児童手当を得るための現況届を提出している。これは、子どものいる方ならご存じだろうが、収入に関係なくどの家庭にも送られるもので、その時点での家庭の状況や、収入の状況などを記入し、提出する。
収入、子どもの年齢や数によって額に差はあるが、現況届を提出すれば最低5,000円の給付がある。
これとは別に、児童扶養手当、というものも存在する。これは、父母が離婚した児童、父または母が死亡した児童、父または母が一定の障害状態にある児童などの養育者に支給されるもので、先述した児童手当と併せて受給可能なものである。
A子さんは、すでに離婚が成立していたため、5月29日に広島市内の区役所においてこの児童扶養手当の申請を行っていた。

しかし、離婚したとはいえ男性とA子さんの付き合いは継続していたとみられ、6月に男性が購入したパジェロのローン保証人にはA子さんが「妻」として自書した。
生活面においても、男性はA子さんの子供を連れて遊びに出かけたり、食事を用意したり、同居はしていないものの、A子さん方を頻繁に訪れていた。
当然ながら、A子さんとの間に性的な関係も継続していた。
離婚が成立した後、各々の給料や各種手当などはそれぞれの名義で管理しており、生計は別個となっていたが、男性には借金があったとみられる。
男性は年収がおよそ300万円程度であったが、月の借金返済額は20万円を超えており、実母である小夜子さんとも親子の仲が円満であったとは言えなかった。
小夜子さんが仕事で喫茶店に来ているときは実家で、小夜子さんと妹が実家にいるときは男性は喫茶店に行くというような、なるべく顔を合わせないような生活になっていたようだ。
妹ともうまくいっておらず、小夜子さんが喫茶店にいて、妹が実家にいるというような状況では、男性はどちらにも行けず自分の車で寝泊まりするなどしていた。

12月ごろ、男性とA子さんとの間に諍いがあった。そのことで、男性はA子さんとはもう終わってしまうのかと考えたという。
しかし、その数日後には性的関係を再び持ったことで、またA子さんとやり直そうと考えた。
実母に預けっぱなしの彩華ちゃんとありすちゃんが気になりつつも、A子さんのもとに残した自分の実子を含めた子らとの生活も諦めきれなかった。

そんな優柔不断な男性の事を、小夜子さんや妹は快く思っていなかったと見える。
いつまでも放っておかれる彩華ちゃん姉妹を、自分の籍に入れようかとまで小夜子さんは考えていた。妹にしても、兄である男性が事あるごとに借金を作り、その返済のために自身が母親の喫茶店で働いて得た給料が減らされるということもあった。
A子さんと離婚しているにもかかわらず、A子さん方へ通う男性に対し、その状態で児童扶養手当を受け取っているのは不正ではないのかとも思っていた。

そして、1月17日が訪れた。

別件逮捕からの自白

小夜子さん方の事件からおよそ5年後の2006年5月22日。
広島県警は、詐欺の疑いで男性と元妻であるA子さんを逮捕した。2000年8月から翌年8月までのおよそ1年間に、子ども4人分の児童扶養手当を不正に請求し、約75万円を騙し取ったとしたのだ。
不正受給と断定したのは、離婚後も男性が継続的にA子さん方を訪れ、A子さんと暮らす実子を含めた子供らの面倒をみていたことなどから、ふたりの離婚は偽装であると判断したからだ。

しかし、その後の流れを見ていくと、どうやら県警はこの逮捕は別件で、当初から男性が小夜子さん方への放火と殺人に深く関与していると見ていたと思われる。

A子さんは当初は容疑を否認していたものの、後半途中から容疑を認め、のちに有罪が確定した(内容については不明、おそらく執行猶予と思われる)。
男性は6月9日の起訴後も拘留が続いていたが、6月12日になって小夜子さん方への放火と殺人について自白、23日には放火殺人で再逮捕となった。
男性は事件当初から任意の取り調べを受けてはいたが、警察によるポリグラフ検査を拒否、車と、2か月後に提出された事件当夜着用していた衣類などから灯油の反応などが全くでなかったことからそれ以上の追及は及んでいなかった。
しかし、警察としてはこの男性こそが放火殺人で最大の利益を得ている事を把握しており、先の児童扶養手当に関する詐欺行為を突破口に、男性から自白を引き出した。
男性は、詐欺事件の拘置理由開示公判において、「極刑を覚悟で自白した」などと述べ、自白調書にもサインしていた。

いわば執念の捜査であった。
閑静な住宅街で深夜にあがった火の手は、密集する近隣住宅の住民を恐怖のどん底に叩きつけたのみならず、仕事に精を出し、常連客らからも慕われた小夜子さんと、その幼い孫二人の人生を奪った。
当初はヘビースモーカーであった小夜子さんの寝たばこが失火の原因とも思われたが、小夜子さんが出火以前に殺害されていたこと、普段あった場所からファンヒーターの位置が大きく変わっていたことなどから、何者かが失火を装って小夜子さんを殺害したと推測。
そして、数々の状況証拠から、男性以外に犯人は考えられないとかなり早い段階から断定していたと思われる。

その状況証拠は、おそらく一般常識と照らし合わせた場合、多くの人間が同じ印象を抱くであろう程、激しく真っ黒であった。
加えて、男性は「極刑をも覚悟のうえで自白」し、接見した妹に対してもその自白を裏付ける告白を涙ながらに行った。
これ以上ないほどに、揃いに揃った証拠の積み上げに思えた。
検察は死刑を求刑。

しかし。

広島地裁は男性に無罪を言い渡した。しかも、児童扶養手当に関する詐欺事件に関しても、そもそも成立していないとして無罪とした。
法廷はどよめいたという。
検察は当然怒りの控訴となったが、なんと高裁でも無罪。そして、事件から10年以上が経過した2012年2月。最高裁は一審、二審の無罪判決を不服とした検察の上告を棄却。
男性は無罪が確定した。

自白からの一転否認

男性の自白は以下の通りである。
2000年ころから離婚したA子さん方で再び同居するようになっていたものの、12月に入って些細なことで仲たがいをした。
そこで自身の経済状況などを併せて考えたとき、これではもうA子さんやA子さんとの間に生まれた子供らと一緒に暮らすことは出来ないと考え、自殺しようかと考えるようになった。
しかし、自殺には踏み切れず、それならばいっそ事件を起こして死刑にでもなろうと考えるようになったという。
そうなると、実母である小夜子さんを悲しませてしまうから、小夜子さんを殺害し、さらには放火の罪を重ねることで死刑になろうと考えた、というのだ。いわば、小夜子さんのためを思い、かつ、死刑になるという願望まで達成しようとした、というわけだ。
しかし、事件の1週間前である10日頃まではそれを迷い、実行に移せずにいたところ、12日から14日頃、A子さんと性的交渉を持つ機会があったため、これはやり直せるかもしれないと考えるようになった。
しかし、自身の経済的な不安は厳然たる事実として残っており、それを解消しなければまた同じことの繰り返しになるとも考えていた。
そこで、方針を転換し、小夜子さんを失火に見せかけて殺害すれば小夜子さんの保険金が手に入ると考え、さらには放火することで同居する妹や彩華ちゃん、ありすちゃん姉妹がたとえ死亡することになったとしてもいたし方ないと判断し、1月17日未明に決行した、というのが趣旨である。

犯行の様子については、17日の午前2時半頃、西区の小夜子さん方へ自身の車である三菱パジェロで乗り付け、家人が寝静まっている自宅1階の居間に侵入、そこで寝ていた小夜子さんの首を絞めて殺害した。
その際、小夜子さんは「約束は…」と呟き、なにかボタボタと水がこぼれるような音が聞こえたために、小夜子さんが失禁して死亡したと思ったという。
その後、偽装するために台所にあった小夜子さん愛用のたばこや灰皿を居間へ移動させ、あたかも寝たばこをしていたかのように見せた。
同じく台所にあったファンヒーターも移動させ、ファンヒーター内の灯油と、台所の掃き出し窓の下にあった予備のポリタンク入り灯油を小夜子さんの頭部付近および周辺のタンスなどにぶちまけ、空になった容器はそれぞれ元の場所へと戻し、灰皿内のたばこに小夜子さんのライターで火をつけた。
一瞬にして大きな炎が立ち上がったことに驚き、なぜか一度は2階への階段を駆け上がろうとするも止め、玄関から出てパジェロに乗って逃走した、というのが犯行の一部始終であるとした。

6月14日には、接見に来た妹に対し、涙ながらに「1月17日の火災は、あれは事故ではありません、僕がやりました。」と告白し、その後の複数回にわたる妹との手紙のやり取りにおいても、以下のような文章を書いている。

”今の私は全てをあった事はあったように,正直に話すという事を心掛けていますし、そうする事がお母や彩華、ありすへの償いの第一歩だと思っています。どんな事をしても許される事ではないですし,私がどんな罰を受けても〇〇(妹)たちがこれから受ける苦難が取り払われる事はありません。(中略)私のやった事を考えればどんな扱いをされても仕方ないのに(以下略)。
7月25日付けの手紙
”今の私の本音はやはり私は「極刑」になると思っています。過去の判例からみても、これだけの事をやって極刑じゃないってことはほとんどありません。”
8月4日付けの手紙
”正直まだ「心から手を合わせられる」とは言えません。口では「償い「反省 「謝罪」等なんとでも言えるけど「 心から手を合わす 」とはどういうことなのか」というものが自分なりにあって「そういう心境になれているとは言えない」というのが本音なのです。
おそらく刑が確定するまではそういう心境にはなれないでしょう。でも1日も早くそういう心境になれるようにしたいと思っていますし、そういう気持ちだけは毎日持っています。
それとお母は多分私が自白した事を責めたり悲しんだりしないと思うし、全部知ってると思う。まあそれよりも私がやった事自体を悲しんだり怒ったり責任を感じたりはしてると思うけど。多分、今私がこういう状況になってる事は仕方無いと思ってると思うよ。” (以上広島高裁判決文より引用

男性は当初、このように自白していた。
国選ではあるものの、弁護士がついており、しかも毎回1時間を超える接見を行っていたなどかなり手厚い弁護を受けていた。
その上での自白であったため、検察側としてもその自白に基づいて自信たっぷりに男性を起訴したわけだが、公判で男性は突如否認に転じた。

男性は、自白以前の取り調べの段階で、児童扶養手当に関する詐欺で逮捕されていたA子さんを「再逮捕」する可能性があるとほのめかされたという。
なんとしてでもA子さんを子供たちのもとに返したかった男性は、自分が放火殺人の罪を告白すれば、A子さんが再逮捕されることはないと考えたというのだ。
そこで、内容など特に気にもせずに、供述調書を言われるまま署名捺印したというのだ。
また、担当の刑事が、「お前がしゃべららなくてもA子にも口はある」などと、ことさらA子さんを持ち出したり、詐欺容疑の取り調べであるにもかかわらず放火殺人についての取り調べであるかのような言動があったことを男性は不満に感じていた。
しかし、机をたたく、怒鳴る、そしてA子さんになにか不利益が及ぶのではないかという不安から、やっていないけれども放火殺人について警察の主張に沿う形の自白をしたというわけだ。

では妹に対してのあの涙の告白は何だったのか。
男性によれば、接見は突如設定されたものだという。しかも、部屋の片隅に警察官がおり、二人の会話を、というか、男性が何を言うかを監視されているような状態であった。
涙を流したのは、後悔や反省の涙ではなく、悔し涙だったという。
自分の意思に反して、このようにして警察にコントロールされていくのか、という諦め的な気持ちもあったようだ。
そして、妹に対して出した手紙の内容については、妹から「ちゃんと反省して」という趣旨の手紙をもらっていて、それに対する返信であるため、反省しているとか、そういう内容を書かざるを得なかったというのだ。ここら辺ちょっと理解不能。

いずれにせよ、公判では男性は無罪を主張、証人として男性の父親、そして彩華ちゃん姉妹の母親である元妻まで登場することとなった。

事件が男性にもたらした「利益」

そもそも男性がここまで疑われたのは理由があった。
男性は先にも述べたとおり、経済的に非常に困窮する人生を送っていた。職に関する面もあったと思われるが、証言台に立った妹によれば、以前から「だらしなさと狡猾」な一面を持っていたという。
妹は自分の名前で借金を作られていた。そればかりか、兄である男性の借金の尻拭いのために、実家の喫茶店で働いて得るはずの給料が全額貰えないこともあったという。
さらに、男性は事故も何度か起こしており、そのたびに母親にその後始末を押し付けたり、金をせびりに来ることもあったという。
A子さんと離婚して児童扶養手当をもらうという話が母親の小夜子さんの耳に入ったときは、小夜子さんはうんざりしたような顔をしていた。
夜も眠れず、ハルシオンを服用することもあったそうだ。

また、彩華ちゃんとありすちゃん姉妹に手を挙げることもあった。そのため、姉妹は父親である男性に対し、怖がっている様子が見受けられたとも証言する。A子さんに疎まれ、さらには実父である男性にまで放棄された姉妹の心を思うと本当にやるせない。
だからこそ、小夜子さんは自分の籍に入れられないものかと考えていたのだろう。
当然、孫娘を邪険に扱うA子さんに対して、連れ子と継母との関係性に理解を示していても、やはり快く思わなかったのかもしれないし、そうであったとしても無理からぬことである。

男性の経済状態はもはや破産状態であった。
にもかかわらず、車(三菱パジェロ)をローンで購入し、その保証人に離婚したA子さんを「妻」として立てている。もちろんこれにA子さんが同意していた点をみれば、おそらく「二人で利用する」意思があったのは間違いないだろう。
離婚していながらA子さん宅に足繁く通い、自身の子供は他人に任せっきりでA子さんの子らにばかり重きを置いていた男性。しかも、世話をさせている実母や妹に顔を合わせまいとするような生活スタイルであった。

しかし、男性が疑われた大きな理由は経済的な事情だけではなかった。
男性は、なんとしてでもA子さんとの生活を取り戻したかったと見える。
事件後、小夜子さんと娘二人の保険金が手に入った男性は、なんとその保険金で広島市内に家を購入。その家で、A子さんと再婚しその子供らとともに新生活をスタートさせたのだ。
いや、いいよ、誰が誰と結婚してどう生活しようがいいよ。でもこの状況で「よく出来るよな」というのが普通の感覚ではないか。
A子さんとの生活を小夜子さんらは快く思っていなかったろうし、そもそも彩華ちゃんとありすちゃん姉妹を「ないがしろ」にしたうえでの生活であったはずだ。
その彩華ちゃんらの世話をし、苦労を掛けていた小夜子さんと、A子さんが嫌った子どもの命と引き換えに得た保険金を、その人たちに快く思われていなかったA子さんのために使えるその神経が凄すぎる。
男性は自身の借金を返済するとともに、A子さんが使用するための自動車も購入していた。

保険金自体は総額7,300万円。うち、全国生活協同組合連合会で娘にかけていた生命保険の受取金額は799万円。これを、事件の1週間後には生命保険会社に確認を取っていた。
一方、母親小夜子さんの生命保険金は、男性の妹が当初確認したところ、男性が受取人になっていたことから男性が手続きをし、住友生命よりおよそ4120万円強の保険金が支払われた。それ以外に、車両保険110万円と、火災保険や損害保険など合わせて2300万円が男性の口座へ振り込まれた。
もちろん、全てが男性のものになったわけではなく、妹や親族らと分配はしたという。しかし、公判では、妹が本来受け取る部分についても、男性は「小細工」をしてかすめ取ろうとしたという証言もあった(真偽不明)。

警察でなくとも、この絵にかいたような男性の変化に対しては、訝る人がいてもおかしくはないだろう。
そもそも、小夜子さんが殺害された事件の現場も、犯人は通り魔や偶然の物盗りとは異なることを教えていた。

焼けなかった通帳と印鑑

小夜子さんは、通帳や印鑑などの貴重品はいつも袋に入れて肌身離さず持っていたという。就寝する際も、必ず手元に置いていた。
しかし事件当夜、その日に限ってなぜかその袋が車のダッシュボード内から発見された。
小夜子さんの娘は当然不審に思ったと裁判でも証言した。
一方で、小夜子さんの元夫である男性によれば、通帳などが車のダッシュボード内にあったと聞いたとき、「覚悟の上の自殺ではないか」と思ったそうだ。息子からの金の無心などで精神が疲弊していたからだ、と元夫は証言したが、それでも息子は殺人などが出来るような男ではないと証言もした。

小夜子さんは喫茶店を経営していたが、怨恨などのトラブルは裁判の過程でも出てきていなかった。むしろ、一番の悩みの種は息子である男性の事であった。
しかし、たとえ頭痛の種の息子であったとして、借金を抱えていたとして、事件後大きな利益を男性が得たからといって、それだけで男性が疑われたわけではなかった。

事件のあった小夜子さん方は、決して大きな家ではなかった。2階建ての住宅に子供二人を含めて4人が暮らし、家の中には荷物も多かった。
間取りも多くはなく、玄関を入ってすぐの廊下があり、その南側に小夜子さんが使用していた6畳間、奥には台所があり、その2つはアコーディオンカーテンで仕切られてはいたものの、行き来が可能であった。
1階にはその他、浴室とトイレがあり、二階は6畳が二間であった。
台所には掃き出し窓があり、その下に、予備の灯油を入れたポリタンクがあったという。
小夜子さんは事件当夜、その6畳間で就寝中に殺害された。
深夜とはいえ、そう広くはない家の中で、火が出るまでの間成人女性である妹にも気づかれず犯行を行ったことを考えると、よほど手慣れた印象を受ける。あるいは、家の中の事を細部にわたって把握していた人間によるもの。
小夜子さん方の廊下には、テーブルなどが置かれ、部屋への入り口付近にはマッサージ機なども置かれていた。家人であれば暗闇であってもある程度の目安をつけて移動することは可能だろうが、たとえば通りすがりの物盗りなどが侵入したとして、物音も立てずに素早く殺害から放火までの行動がとれるものだろうか。

また、物盗りが目的であったとした場合、金目のものが全く盗まれていないこと、小夜子さんが起きだして犯人を見つけるなどし、犯人が犯行の発覚を恐れて小夜子さんともみ合った末の殺害とも言えないこと、そしてなにより、自身が逃げおおせることよりも、時間をかけて失火であるかのような偽装工作をしている点から、強盗などではなく被害者らを死亡させることが目的であったと思わざるを得なかった。
そこで注目されたのが、生命保険金の存在だった。
付き合いの多かった小夜子さんは、当然、生命保険にはしっかりと加入していた。自身の保険のみならず、息子である男性の保険についても自身と同じ生命保険会社で男性を被保険者として保険を契約し、保険料も小夜子さんが支払っていた。
事件後、小夜子さんの娘が保険会社へ問い合わせたところ、小夜子さんの保険金受取人は、息子である男性の名前になっていた。そのため、男性に問い合わせるよう伝え、男性が保険会社に問い合わせをしたところ、小夜子さんの生命保険金はなんと4,000万円になることがわかった。
このこと(保険金の受取人が自分であること)は男性は知らなかったし、当然ながら、その額が4,000万円という高額であることも知らなかったという。
額を聞かされた男性は、「そんなになるんですか?」と驚いていたという。
しかし、実際に男性は支払われた保険金のうちの半分以上を受け取り、先に述べた通りA子さんと再婚、マイホームも手に入れた。
A子さんが疎ましく思っていた彩華ちゃん、ありすちゃんの存在も、もうなかった。


検出されなかった灯油

警察の執念の捜査が実を結んだかに見えたこの事件は、衝撃の展開をたどったのは冒頭でお伝えした通り。
当初から男性が自白し、警察以外の第三者(妹)に対しても同様の告白をし、さらには動機と事件後に得た莫大な利益を考えれば、男性の有罪は確実と思えた。
検察は、当初の児童扶養手当に関する詐欺容疑に加え、男性を放火殺人でも起訴、併せて保険金に対する詐欺でも起訴した。

求刑は死刑。
重罪である放火殺人であり、さらには実の母親と娘二人の、合わせて3人の命を奪い、保険金を不正に受け取ったとしてこの求刑も当然と言えば当然であった。

しかし、広島地裁で下された判決は、児童扶養手当に関する詐欺、放火殺人、そして保険金詐欺についても全て無罪であった。
ただし、裁判官はこう付け加えた。
「裁判所はあなたがシロではない、灰色かもしれないと思いながら、クロと断定することはできませんでした」

そう、要は、自白以外の決定的な証拠が一つもなかったから、無罪にせざるを得なかったのだ。

放火殺人について、男性が犯人であると推認するに疑う余地はないかに思われていた。
①小夜子さん方の家の間取りに詳しい人物であること
②小夜子さんに喫煙の習慣があることを知っていた人物であること
③小夜子さんらが死亡することで利益を得る人物であること
犯人である条件は特に①が非常に重要であった。そうでなければ、この犯行は難しいという点は、裁判所も認めるところである。
また、男性の動機および自白についても、その信用性は地裁、高裁では信用できないとされたものの、最高裁では「信用に足る」と認定された。
暗く視界が利かない家の中を、物音立てずに動き回ることや、短時間に台所にあったファンヒーターを移動させ、さらには予備のポリタンクのありかまで知っているというのは、家の中に詳しくなければできないことであった。
また、寝たばこからの失火を装ったのは明らかであり、小夜子さんがタバコを吸うことを知らない人間にはできないことだ。
自白と併せて考えてみても、その後男性が得た利益を考えても、男性が犯人である可能性は高かった。

しかし。
ファンヒーターのカートリッジ内の灯油を撒いているにもかかわらず、男性の衣類や車内、手からは灯油の反応が出なかった。
本人も、灯油をまいて手に臭いがついたのが気になって2回ほど手を洗ったと供述していた。実況見分でも、というかそれをするまでもなく、普通バシャバシャと液体を撒き散らせば、少しは自身に飛沫がかかるのが普通だ。
経験のある人ならわかるだろうが、灯油の臭いはなかなか取れるものではない。一度車に少量をこぼしたことがあるが、何日も臭いが取れなかった。
しかし、事件直後に警察に赴いた男性の車を任意で調べた警察官の誰一人として、灯油の臭いに気づいた者はいなかったのだ。

臭いがついて気になったと本人が自供したはずの手で握ったハンドルからも、灯油の成分は出なかった。

検察としても、当然灯油の跳ね返りがないことの不自然さはわかっていたし、裁判所としても、男性が「衣服を処分したくなかったため、細心の注意を払って灯油をまいた」と供述していることなどから、灯油の成分が出ないのはおかしいとは言い切れない、としている。
しかし、それらはあくまで「そういうこともあるかもしれない」という話の域を超えないのであるから、その点が明らかになっていない以上、犯人と断定するのは出来ないということなのだ。
となれば、灯油を撒いたという男性の供述自体の信用性が揺らぐことになり、自白以外に犯罪の証明がない以上、無罪とせざるを得ないというのが裁判所の判断であった。

それ以外にも、保険金目的の犯行であったとして、小夜子さんがどこにいくら保険金をかけていたとか、死亡した際はどの程度降りるのかなどを男性が把握していなかったことも、保険金目的であるならば一番重要なその額に無頓着なまま犯行を行うのは飛躍している、と判断された。
2012年。
最高裁は上告棄却、男性は無罪が確定した。金築誠志裁判長の、「被告が犯人である疑いは濃い」という言葉は広島県警、検察にとって相当なダメージであったろう。

児童扶養手当と夫婦のかたち

そもそも男性が逮捕されたのは、児童扶養手当に関する詐欺容疑だった。
裁判ではこの件については、完全無罪とされた。
私たちの周りでも、よく耳にするのが手当て欲しさに法律上離婚しておいて、実際には夫婦の関係を保ついわゆる偽装離婚というものがある。母子家庭となって、手当てを受けながら、離婚したはずの夫が家にくる、といったアレだ。このサイトでも紹介した、日立市の一家6人殺害事件でも似た話があった。
私自身、この事件で児童扶養手当を受けられる要件について、間違った解釈をしていたことに気づかされた。
男性とA子さんは正式に離婚した5月以降、連絡を取り、頻繁にA子さん宅に男性は通い、先に述べた通り自動車ローンの保証人を妻としてA子さんは引き受けている。
その実態が、児童扶養手当をもらう資格に当てはまっていない、として、さらには最初から児童扶養手当を得るための離婚であり、それは行政の担当者を欺く意図があったとされた。私もそう解釈していた。

ここで児童扶養手当の受給要件を見てみよう。

①父母が離婚した
②父又は母が死亡した
③父又は母が一定程度の障害の状態にある

2000年当時と現在とではいろいろと変わってきているようだが、2000年当時はこの3つが重要な要件となっており裁判でもこの点が取り上げられた。
A子さんの子供らは、法的に両親が離婚しており、①に該当する。
しかし、以下の要件に当てはまる場合は、受給資格はないとされている。

①日本国内に住所がない
②父や母の死亡に伴う年金・労災などを受給できるとき
③父又は母の年金の加算対象になっているとき
④里親に委託されているとき
⑤請求者ではない、父又は母と生計を同じくしているとき(父又は母が障害の場合を除く)
そして、⑥父または母が再婚し、その連れ子として父または母の配偶者に養育されているとき。
なお、児童扶養手当で言う結婚には、法律上の届を出さずに、実態として婚姻同様の生活を行なっている場合(いわゆる事実婚)を含む。

男性とA子さんは、この事実婚とみなされたのだ。さらに、自動車ローンや、A子さんの子供らの食事などを男性が与える機会があったことなどから、「生計を同じくしている」ともみなされた。
ごく当たり前の判断に見えたこの逮捕だったが、裁判所の見解は全く違っていたのだ。

行政の担当者は、国に対してこの男性とA子さんの生活実態を報告したうえで、これは事実婚ではないのかと質問した。その質問に対する国からの返答は、「事実婚とみなして差し支えない」というものであった。
検察もそれを主張したわけだが、実は国のこの返答の前に、国としての指針と最高裁判例が立ちはだかった。
児童扶養手当は、「父と生計を同じくしていない児童が育成される家庭(母子家庭)の生活の安定と自立の促進に寄与するため」ものであり、たとえ父親が離婚後頻繁に母子のもとを訪れたとしても、その父親に経済力がないのであれば、一概に事実婚とみなすことは出来ない、と判断されたのだ。
よくよく、感情を抜きにして考えれば確かにそのとおりである。世の中には様々なケースがあって、たとえば父親と婚姻状態ではあるものの、その父親が重い病気で職に就ける状態ではない家庭もあるだろうし、失踪して連絡が取れないというケースもあろう。法律も、そういったケースは想定しており、「父母に障害がある場合」はたとえ生計を同一にしている場合でも例外はある、としている。
男性の場合、当時破産状態とみられ、そもそも妻子を養う能力はなかった。そして、法的に離婚し、住所もわけ、各自の給与なども別名義の口座で別個に管理されていた。男性は先にも述べたとおり、基本的には実家である小夜子さん宅や、小夜子さん経営の喫茶店で寝泊まりしていた。
それでも生計を同一にしているというのならば、他のケースにおいても婚姻関係に一度もなっていない男女が頻繁に会っているというだけで、子供に食事をさせただけで、事実婚だとみなされかねない。もっと言えば、彼氏がいる、というだけで事実婚にされかねない。

さらに、男性とA子さんが児童扶養手当を不正に受け取ることを目的に離婚したのかどうかについても、そもそものきっかけがA子さんが彩華ちゃんとありすちゃんとの同居を拒んだことにあり、また、男性自身もA子さんと再び同居し、家庭を再構築することを心のよりどころにしていたと検察官すら認めている点などを考えると、当初から詐欺行為をはたらくための離婚だとは言えない、とした。
A子さんが自動車ローンの保証人欄に「妻」と記載した点も、もし詐欺を働く意図があったならば、そのような記載をすることは危険であるとして、理由には当たらないとした。

ただ、A子さんについては、自身の裁判においては大筋を認めているため、検察もその点を持ち出すなどしたが、結局、法律上離婚が成立した元夫婦が、愛情自体は継続していたために頻繁に会っていたというだけで事実婚とみなすのは、恋愛関係にある男女のデートとなんら変わりないわけであり、とうていその主張は採用できないとされた。

よって、離婚は問題なく成立していること、受給資格がないとは言い切れないこと、さらには、たとえ離婚中に再びA子さんが妊娠していようとも、事件後A子さん母子と一緒に暮らし、A子さんらのために家や車をその保険金で買い与えたとしても、それは受給資格の問題とは全く関係ない話であるとして、詐欺罪自体が成立しないと認定した。

闇の中

男性は再び裁かれることはない。どんなに「犯人の可能性が高い」と言われようが、彼は無罪である。
しかし、そうなると誰が小夜子さんを殺害し、小夜子さん宅に火を放ったのか。放火は証拠を燃やしてしまうため、しかも男性が犯人だろうという強い推測の下で行われた捜査であるため、もはや真犯人にたどり着くことは不可能なのかもしれない。

この事件では、自白だけに頼った公判維持の最悪のケースと言えるだろう。ほかにも被告が無罪を主張しているケースはあるが、どれも客観的な証拠というものが存在しており、この広島の放火殺人とは違う。
まぁ、灯油を5リットルもぶちまけて、灯油の反応がどこからも出てないのはさすがに奇跡に近いよなぁと思う。

地裁で無罪判決が出たとき、法廷内はどよめいた。しかし、被告人である男性の表情は変わらなかったという。
逮捕後、間一髪助かった妹にあてた手紙の中で、非常に気になる部分があった。
それは、

”お母は多分私が自白した事を責めたり悲しんだりしないと思うし,全部知ってると思う。まあそれよりも私がやった事自体を悲しんだり怒ったり責任を感じたりはして
ると思うけど。多分,今私がこういう状況になってる事は仕方無いと思ってると思うよ。”

この部分である。
男性は、小夜子さんが責めたり悲しんだりしないと思うと言ったが、それは男性が犯したとする罪ではなく、「男性が自白したこと」を指している。男性の自白が真実なら、なぜ小夜子さんが責めたり悲しんだりするのだろうか?そして、全部知っていると思うよ、と、この言葉が意味することは何なのだろうか。
そしてその上で、今自分が極刑に処される可能性が高い状況になっていることは、母親も仕方ないと思っているだろうというこのくだりは、なにかこう、引っかかるものを感じるし、ここに真実が隠されているように感じる。
男性が本当に無実であるならば。

小夜子さんは頭部付近にファンヒーターを置かれたため、発見時は頭部がほぼ白骨化していた。
首を絞められ、火を放たれ、おそらく二階で寝ていた娘や孫を案じながら絶命したであろう小夜子さんの無念は、晴らされることはないのだろうか。

誰かの高笑いが聞こえる気がした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?