見出し画像

第三章 存在と思考 4

 研究棟は超高層タワーの中にあった。事前に調べた階で高速エレベーターを降りて、研究室のドアをノックする。
「どうぞお入りください」
 中から、女性のハスキーな声が聞こえた。
 研究室に入ると、ショートカットの女性が出迎えてくれた。短いがボリュームのある髪は、白と黒の割合が半々といったところか。痩身というほどではないが、締まった身体をしている。年齢は五十代後半くらいだろうか。
「警視庁の古田ヤマトと申します。こちらは……」
「羽川マリアです」
 揃って、目の前の女性に名乗った。
「戸倉カナと申します」
 Kポッドの情報では、宇宙工学を研究しているカナ博士は、十数年前に教授職に就いており、現在は学部長も兼任しているということだった。
 大学教員の定年が七十歳であることを考えると、五十代で学部長に就任するとは、よほどの人格者であり、研究者としても優秀なのだろう。
「刑事さんのお役に立てるといいんだけど。あら、女性の刑事さんもこういう捜査に参加するのね。嬉しいわ。今や活躍する女性の割合は、男性と同じ比率になっているのよね。あらゆる分野で活躍している女性が増えるのは、嬉しいことだわ」
 カナ博士は、女性であるマリアに同志とでも言いたげな視線を送って微笑んだ。
 マリアは「えぇ」と言っただけで、ほとんど表情を変えない。相変わらず愛嬌がない。
「今、ゼミ生が、反転授業のための課題を聞きに来ているところなんです。もうすぐ、終わりますので、少しだけお待ちいただけますか」
 扉の前のパーティションの裏側を覗くと、数人の学生が電子黒板の前に、並んで座り、何やら学習中だった。
「お取込み中でしたか。出直しましょうか?」
ヤマトが聞くと、カナ博士は、それには及ばないというように、空いている椅子を二人にすすめた。
「いえ。大丈夫です。そちらの椅子にかけてお待ちください。課外授業のようなものですから、構いません」
 カナ博士に促されて、二人は椅子に座った。
 幾分、カナ博士は浮き足立っているようだった。事件の概要は伝わっているはずだ。その件で、刑事が話を聞きに来ているのだから、気にならないはずはないだろうと、ヤマトは思った。
 カナ博士は、電子黒板の脇の定位置なのであろう椅子に座った。「では、まとめに入りましょう」、と言って、学生たちを見回した。
「前回、広大な宇宙の、暗黒物質と暗黒エネルギーがあるという解説をしました。そのため、宇宙の膨張速度が速くなっている理由もわかってきましたね。宇宙の膨張が進むと、永遠か消滅か、どちらかの結果になると考えられています。私が学生時代には宇宙は一つだと言われてきました。しかし、皆さんもご存じのとおり、宇宙は一つではありません。マルチバース理論、つまり、多次元宇宙という考え方がされています」
 ゼミ生の顔は真剣そのものだった。メモも取らずに聞いている学生はひとりもいない。カナ教授の言葉を咀嚼しながら、視覚聴覚をフル活用している様子が見て取れた。
「反転授業って聞いたことあるか?」
 ヤマトは小声でマリアに聞いた。
「従来の授業と宿題を反転させたタイプの授業形式のことだと思います。通常は、授業で習ったことを、自学で復習しますが、反対に基礎的な知識を先に習得しておくことで、授業では高度な課題や疑問についての議論など、より発展的な内容に取り組むことができるメリットがあります」
「要するに予習をしっかりしろという事か。多次元宇宙について自学自習で知識を得るなんて、大変だな」
 ゼミ生たちの精悍な顔つきを見ていると、そういう次元の問題ではないことがわかった。彼らの貪欲な知識欲は、自らの知を深化させることに喜びを感じているのだろう。
 ヤマトは、大学では法律を学んでいたので、理系の話はよくわからないが、興味深く聴いていた。隣に座っているマリアは何を専攻していたのだろうか。
「次回は多元宇宙についてやりますので、各自で調べた内容を発表できる準備を進めておいてください」
 ゼミ生へのアナウンスが終わり、学生たちが退室していく。カナ博士に質問したいといった素振りをする学生がいた。だが、ヤマトたちに視線を向けると、諦めたように、タブレットを鞄にしまい、黙って研究室から退室して行った。
「すみません。おまたせしました」
 最後の学生が研究室を出ると、カナ博士が二人の方に近づいてきた。
「正課授業の演習は、週二日なんですが、扱う内容も多岐に渡って複雑ですから、オフィスアワーを利用して、講義の補足をしているんです。私のゼミは厳しいことで有名なんですよ。毎年、熱心な学生だけが残ります」
 なるほど。先ほどの学生たちは、優秀な学生の中でも精鋭揃いということか。向学心の溢れる学生のためにも、早くカナ博士を開放した方がよいのだろう。ヤマトは、雑談もそこそこに、捜査の件を切り出した。
「こちらこそ急遽すみません。特殊な事情を抱えた事件なものでして。忙しいところ、私どもの都合でお時間を作っていただき、申し訳ありません」
 カナ博士は、先ほどまで学生たちが座っていた場所に、テーブルを設えて、二人にテーブルの前に移動するように促した。ヤマトたちがテーブルに着くと、どこから用意してきたのか、二人の前にお茶を出した。
「前もってお伝えしましたとおり、この事件の捜査は警察内部でも極秘捜査の扱いですので、そのつもりでよろしくお願いします。すぐに情報が漏れてマスコミがかぎつける可能性も否めませんので」
 ヤマトが頭を掻く仕草をする。
「非常に残念な事件です」
 カナ博士は、うなずきながら、鎮痛な面持ちで、ヤマトを正面から見た。
「黒岩ジョー博士は大変優秀な研究者だったとお伺いしております」
 マリアが丁寧な口調で言った。
「彼は脳科学の分野で有名だったのよ。まだまだ、脳科学や宇宙工学には解明されていない問題がたくさんありますからね。因みに私の専門は、ご覧のとおり、宇宙工学です」
 カナ博士は、頭上の3Dスクリーンを見上げ、星々の投影角度をぐるりと回転させて見せた。
「人類は火星までは到達したけど、宇宙は果てしなく広いですからね。まだまだこれからです。彼の優秀な頭脳はきっと人類の進歩に役立ったはずだわ」
 瞳を潤ませながら、カナ博士が早口で言った。
「ジョー博士の専門は脳科学ということでしたが、具体的にはどういったものですか?」
 ヤマトは、見聞情報をベースのKポッドに送信するために、ネットワークにアクセスしながら訊ねた。
「彼は脳科学の分野でも特に脳神経について研究していたわ。ジョー博士が若い頃、お母さまが脳卒中で倒れてね。半側無視という状態だったそうよ」
「すみません。半身……。何ですか?」
「ああ、ごめんなさい。あまり聞かないわよね。脳卒中の後遺症で起こるんですって。身体の半分に無関心になる状態なの。例えば、化粧を顔の半分しかしないとか、食べ物も左側半分しか食べないなどね。とにかく不思議な症状よ」
「それがきっかけで、脳科学の道に進まれたのですね」
「ええ。そう聞いているわ」
 カナ博士は、少し言いにくそうに言葉を続けた。
「研究者としての彼は本当に優秀だったわ。研究も順調だった。でも、不幸にも、ジョー博士自身もある日突然、脳の機能障害を患ってしまったの。意思とは関係なく身体が言う事をきかなくなるという珍しい病気ですって」
 先ほど、教務部で入手した診断書の文面を思い出す。
「でも、おかしなことに、症状があるのに、何の病気なのか、なかなかわからなかったのよ。どんなに脳の検査をしても異常がなくてね。とても特殊な症状で、発症してからも原因がわからず、だいぶ悩んでいたそうよ。脳の専門家なのに、自分自身が原因不明の脳疾患を抱えることになるなんて、皮肉な話よね」
「それが今から四年前のことですね」
「そう、もう四年にもなるのね。リハビリも懸命にされていたわ。アンドロイドに手を借りながら、頑張っていたのだけど、やっぱり、体調が思わしくなかったのでしょうね。私はプライベートで少しお会いする程度でしたけど、最近では、一段と痩せてしまっておられましたよ」
「プライベートで、ですか?」
「ええ。私は自宅でホームパーティを開くのが趣味でね。専門分野を問わず、研究者の仲間や教え子たちを呼んで、交流するのよ。手料理でもてなしてね。ジョー博士は、本当に研究熱心な研究者の鏡のような人物だったわ。研究に向ける探求心といったら、彼の右に出る者はいなかったでしょうね。大変な博学で、話をしているとインスピレーションを得られる貴重な相手だったのよ。私も研究に行き詰まりを感じたときには、随分と助けられたわ」
 カナ博士が懐かしむような表情を見せた。学問の学際化は年々進んでいるとはいえ、宇宙工学と脳科学とでは、かなり異なる分野である。それにも関わらず、親交が深かった人物として、捜査上でカナ博士の名が挙がったことに、ようやくヤマトは納得がいった。
「それが、この年度末で大学も退職することに決めたと言っていたわ。これからは、組織のしがらみも気にすることなく、ご自分の健康を第一に過ごせると思って、私も安堵していたのですけどね」
「ジョー博士は辞めることになっていたのか……」
 ヤマトは呟いた。疑問が頭を過る。
「大学側は、そのことは把握していたのでしょうか?」
 先ほど、事務部署を訪ねた様子からすると、黒岩ジョー博士の身分は休職中ということになっていたはずだ。
「いえ。把握していなかったと思いますよ。依願退職の意思表示をすれば、特別な場合を除いて、委員会の審議にかけられます。一月の審議には、上がっていませんでしたから、三月の審議に間に合うように準備されていたのではないかしら」
「大学教員という身分に見切りをつけたのですね」
 四年に及ぶ休職を経ても、元の身体に戻ることができなかったジョー博士の無念さを思うとヤマトはやるせない気持ちになった。すぐに退職という道を選ばなかったのは、研究への執念だったのかもしれない。
「それにしてもなぜこの時期だったのでしょうね」
 ふと、マリアがカナ博士に向き直って聞いた。
「ジョー博士には、まだ定年まで二十六年ほどの猶予があったはずです」
 大学教員が定年になる年齢が七十歳であることも、マリアには織り込む済みのようだった。
 確かに、政府が働き方改革を打ち出してから、傷病を理由にした解雇が不当とされるようになった。有給か無給かの区別は、企業や所属機関に委ねられているものの、ほとんどの雇用者が、雇用者側の裁量で解雇することはできなくなったはずだ。
「制度上は、身分は保持できたはずですから、退職は先延ばしにしてもよかったのではないでしょうか。四年も休職していたのなら、このまま症状が回復するまで大学教員の身分を保って、休職しておけば良かったのではないでしょうか?」
「さあ。私にはわからないわ」
 カナ博士は困ったような顔をした。
 ヤマトは、推測でものを言わないカナ博士を改めて評価した。自身では、ジョー博士が大学教員に戻ることは諦めた結果の退職の判断だろうと心の中で半ば断定していた。
 マリアは、それ以上の回答を求めることもしなかった。わからないというカナ博士の発言を尊重しているのかもしれない。
「私も学内では、よく話をする方だったけど、ジョー博士の気持ちまでは、よくわからないわ。プライベートな相談を個人的に受けるまでの仲ではなかったから」
「どなたか、個人的に付き合いの深かった人物は思い当たりませんか?」
 ヤマトが聞いた。
 捜査本部での報告でも、ジョー博士の交友関係は調査されていたが、研究熱心で家族もいない彼に付き合いの深かった人物は、まだ浮かび上がっていない。
「そうね。優秀な人で、人望もあったから、研究仲間は多かったと思うのだけど。誰かいたかしらね。そういえば、ジョー博士の研究室には、長期のポスドクの学生がいたわね。彼女の進路の相談にも乗っていたから、彼女なら多少はジョー博士の個人的な話も聞いていたかもしれないわ」
 ポスドクというのは、ポストドクターを縮めた言い方だ。博士研究員とも呼ばれる。主に、博士課程を修了した研究者が任期を決めて、大学の研究職に就く人のことをいう。
「彼女ね、とても優秀で、才色兼備を実体化したような女性だったわ。学部時代からジョー博士の研究室に入っていてね。ポスドクになったのも、ジョー博士の肝入りとも噂されていたわね」
「それは誰ですか?」
 気がせくのを抑えて、ヤマトが訊ねた。
「二階堂アスカ博士よ」
 マリアがエアタブレットを起動する気配がした。「二階堂アスカ」という名前を頭の中に思い浮かべて、インプット機能に入力してしる。
「アスカ博士は、脳科学を学ぶ傍ら、人工知能の開発に研究成果を応用するという類まれな頭脳の持ち主であったわ。学問の壁を超えた研究よ。ジョー博士の研究室にいる間は、研究も手伝っていたみたいだし学際的な領域を扱っていたわね」
「ポスドクで所属をされていたということは、二階堂アスカ博士は今もこちらの大学で働いているのですか?」
 ヤマトがさらに訊ねると、カナ博士は少し考えてから首を横に振った。
「そうね。彼女を正規の教員にという声も多かったけど、そうはならなかったわ。ジョー博士が休職に入る少し前に他の研究施設に移ったのよ。確か、博士が休職される前年度だったんじゃなかったかしら」
「アスカ博士もいないのか」
 ヤマトはポスドクがワーキングプアと呼ばれていたことを思いだした。研究者として他に移ったのならば、本人も本望だったのだろう。
「ちょっと待ってくださいね」
 カナ博士は何かを思い出したように、パソコンからデータを読み取り始めた。カナ博士がエアモニターを操作しながら「確か……」とつぶやく。
「あったわ」
カナ博士が空間に手をかざすと、一枚の写真のデータが投影された。
「アスカ博士の送別会の時の写真よ。その時に写真を撮ったのよ。一枚だけ」
 写真には白衣を着た人物が何人かいる。
「真ん中の花束を抱えた女性。彼女がアスカ博士よ。美人でしょう。彼女が他所に移るのを残念がっていた人も多かったんじゃないかしら?隣にいる背の高い男性がジョー博士」
 ヤマトは画像を凝視する。アスカ博士は、カナ博士よりもずっと若い女性だった。アスカ博士がジョー博士の心情に近い人物だと紹介されたせいか、二人の様子が親密そうに映った。隣同士に並んだ姿は、肩を寄せ合っているようにも見える。
 写真は、ジョー博士の近影とは違った印象を与えた。捜査に使用されているジョー博士の写真は、近影といえども四年ほど前で、発病前後に写されたものと見られていた。
 エアモニターで見るジョー博士の姿は、まだ三十代の頃だろう。当時の実年齢よりもかなり若そうに見えた。端正な顔立ちに変わりはなく、面影もある。世の中には、ジョー博士のように頭脳明晰で背も高く、整った顔立ちの恵まれた人間もいるものだなと思った。
 なぜ、そのような人間がアンドロイドに殺されなければならなかったのだろうか。
「彼女は今どこに?」
 マリアがすばやく訊く。
「大学から他に移ったのは、ここより研究に適した場所が見つかったからだと言っていたわ。大学よりも先進的な人工知能の研究ができる研究所が彼女を射止めたのよ。もし必要なら、連絡してみましょうか?」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?