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「ものの見方」を疑う、を書くことについて

少々古い本を一冊まるまる、ざっと訳していく、という下訳の仕事をしたことがあります。これにかなり苦労したのですね。

専門外の内容とはいえ、軽く下読みした時には「ちょっと調べれば大丈夫だ」くらいの感覚だったのですが、甘かった。いざきちんと訳し始めてみると、いや大変。内容のほとんどが19世紀半ばの私文書の引用の継ぎ接ぎで、しかも意図的に著者の解説がほぼない。ので、独特の比喩やら言い回しやらにいちいち躓く。一見、一般向き歴史書で、実際はものすごく狭く深い専門書。知識不足のせいで、下訳というより調べ物に大半の時間を費やしました。

が、この仕事の細かい内容自体は、ここではさほど重要ではないです。

実は、この仕事をやっていた間、ストレスからかよく考え事をしたのですね。翻訳は基本的に解釈という受動的な作業なので、バランスをとるためでしょうか、能動的な考え事をするのが心身にとって具合がよかった。調べ物が多かったせいもあり、考えるテーマには事欠かなかったこともあるかもしれません。

で、そうこうするうちに、若い頃からなーんとなく疑問に思っていたことに、なーんとなく回答が見えてきたのですなあ。認識や、認識の共有、言語、文化、社会、学問、思想といったことをひっくるめて、「人類共通」の「ものの見方」への疑問です。

大雑把な一連の思考なのですが、それを、なんとかギリギリでも読むに耐えうる文章にまとめておこうと思い続けて、1年近く経ってしまいました。

それを、この7月に毎日1テーマずつまとめていこうと決めました。31日(31章?)あれば、ある程度の形になる気がしますし、何しろ、こうして自分に課さないと、結局まとめることなくいずれ忘れ去ってしまうだろうと。毎朝、8時30分(もしくは前後1時間内!)にアップする予定です。

美しい文章にはならないはずですが、まあ後でちょこちょこ修正すればいいか! とにかく、取り急ぎ始めてみようの精神で。

 J


興味をお持ちいただきありがとうございます。 どこかで何かの役に立っていますように。