当然じゃない当然

自分にとっての常識が、必ずしも世間一般においても常識であるとは限らない。使い古された言い回しではあるけれど、歳を経るごとにいかにもと思う言葉ではある。歯磨きは朝食の前と後のいずれ(あるいは両方)にすべきか。カレーの隠し味に使うジュースはトマトかオレンジか。そんな些細なことひとつでも自分には何がスタンダードなのだかさっぱり見当がつかず、ずいぶんと足場のあやふやな世界で生きている実感を得たのであった。(余談であるが、今宵のドライカレーの隠し味はトマトジュース、それに蜂蜜に醤油に味噌。でも母はオレンジジュース派であった。)

小学校で同級生だったある女の子は、毎年1学期に学級委員をつとめるようなタイプであった。クラス替えの直後、まだ級友同士も顔と名前が一致しないような時期にでも、ばっちり推薦される優等生である。その傍らで、転校生で新しい学校のことを知らない上に、周りに無関心で呑気な性格だったわたしは、その彼女に頻繁に注意を受けた。「明るい色のヘアゴムはだめなんだよ」「(給食の時)牛乳は最初に瓶の青い線のところまで飲まないとだめなんだよ」「校歌は体を揺らして歌っちゃいけないんだよ」彼女がそう言うときの、厳しい(そして「そんなことも知らないの?」と得意げな)まなざしを憶えている。

一応名誉(?)のために付け加えると、転校する前の小学校は私服で校則も厳しくなかったから、女の子はみんな飾りのついたヘアゴムをつけていた。それに、給食の牛乳は紙パックだった(瓶だとこぼす可能性が高いので、先にある程度飲んでしまいなさいということだったのだと思う)。校歌のことはよく憶えていない。しかし、今こうして思い出してみても、たかだかヘアゴムと牛乳と校歌のことなのだが、当時は一事が万事、鬼の首を取ったように子どもたちは指さし、口を尖らせしていた。

けれど、いざ大人になってみても、会社にサークルに保護者会に、ある程度の規模で人寄らば、誰もいわれを知らない「常識」とやらが、あたかも憲法であるかのようにそこに鎮座していることがよくある。むしろ、「成文」憲法であればまだよいのだけれど、不文律として「普段、この金額感だと大体追加で部長決済を通す」とか、「いつも食事は持ち寄りだから、何か適当に作ってきてね」とか。この類の解釈に苦しまずに済んだことがない。判断が面倒だし、部長に全てご高覧いただくか。嗜好が分からないし、ピッツァでもテイクアウトしていくか。そしてどんどん「常識」はふくらんでいくのであった。

とりわけ子育てに関わっていると、家庭によってずいぶんと子どもの躾にかかわる「常識」が異なるということに改めて気づかされる。何にも染められていない真っ白な子どもたちが、家庭や周囲の環境によって身に着けた(まだ数少ない)ものたちは、その地の白さゆえに分かりやすいものだから。家庭単位でも考え方は異なるのだから、その単位が友人、コミュニティ、社会と広がったとき、そこで「常識」とされるものの輪郭がにじんでゆくのはごく当然だろうと思わずにいられない。枕詞に「普通はさ」なんてつけて頑なにならなくとも、誰も死なない程度のことであれば、鷹揚になれないものだろうか。「常識」という名の盾に頼る「楽」さも、分からなくはないけれどさ。

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