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青春を美化させない、大人を拒みつづける——櫻坂46『何歳の頃に戻りたいのか?』

無限の「私」の可能性を選択する

赤い衣装を身に纏いバーカウンターに突っ伏した山崎がおもむろに跳ね上がり、赤い液体を一気に飲み干す。飲む液体の色と衣装の色は連動している。ドリンクメニューはひとつの選択であり、選んだ色が自分の「カラー」になる。
走り出す山﨑の衣装は言葉通り千変万化する。人生において選択する場面は無数にある。選択とは、いくつかの選択肢からひとつ(1色)だけ選ぶものだと思ってしまうが、実際はあれもこれも選んでいいし、後から変えてもいい。または、別の色を選んだ「私」が生きる並行世界が存在して、無限の「私」の可能性を考えてみてもいい。ひとつだけなんて誰が決めた? 私の意志を抑え込もうとうすものは何か?

あんたを見てると腹が立つ 一瞬 殺意さえ浮かぶ

『何歳の頃に戻りたいのか?』

『Start over!』『承認欲求』に見られる主人公の怒りの源泉がここにもある。

オープンカフェには、不機嫌そうな黒い制服の給仕(バックスメンバー)と、同じく不機嫌そうな黒と花柄の衣装を纏った客たち(フロントメンバー)がいる(歌詞が野球メタファーなのは、球児=給仕なのか、康よ)。彼女たちは、世の中舐めてる奴らに対して殺意を抱きつつ、自分がどこで選択を間違えたのか後悔を繰り返している。その歪んだルサンチマン(怨恨)は、給仕たちは客たちへ、客たちは給仕たちへ、矛先を向けている。

間に合う 間に合わないは 生きる答えじゃなく 僕のイノセンス

『何歳の頃に戻りたいのか?』


『何歳の頃に戻りたいのか?』1'06"あたり

そんな一触即発の場面で、よくいえばイノセンスなクソガキの笑み(かわいい)を浮かべた山﨑が、せっかく掃除して集めた枯れ葉をぶちまける。挑発された給仕たちは怒る。客たちも呼応して、立ち上がり、双方の感情が動き始める。ここは、バックスの方からアクションがはじまる珍しいパターンかも。

場面変わってディナー風景。ウエイター姿になった山﨑が客と給仕の一人を舞台の前に引っ張り出す。ここで選ばれたのが、フォーメーションで明確に差をつけられた村井と中嶋というのが辛辣ですらある。最初は睨み合う二人だが、ダンスを通じて次第に笑みがあふれてくる。給仕と客の立場は、互いに妬む存在ではない。むしろ、彼女たちは同じである。自分が「今・ここ」は、自分の選択の結果というより、自分以外のものに選択・選別された結果に大きく左右されている。私たちに必要なのは、自分を、お互いを、認め合うこと。思いを共有すること。

どこかを走る列車の汽笛を運んで
行き先がどこかなんて 今はどうでもいい
微かなリグレット

『何歳の頃に戻りたいのか?』

あの頃だって、遠く聞こえる汽笛の音に逃避願望を重ねていた。生きるとは「あの時こうしていれば」の選択したこと・選択しなかったことへリグレットの繰り返しだ。後悔は振り返るときに生じる。では、決して過去を顧みない態度をとるとどうなる?

残酷で空虚な祝祭空間としての現実

村井と中嶋の対立が解消されたあと、カメラが転じるとまた山﨑はさらに違う衣装になっており、またシーンが転換されたことが示唆される。山﨑が森田の手を引き抜くと集団がはじけ、『承認欲求』『Start Over!』のダンスシーンが展開される。

思い出の日々は普通だ
目に浮かぶ日々は幻想
美しく見えるだけさ
大人になったその分だけ
青春を美化し続ける

『何歳の頃に戻りたいのか?』

屋内のレストランのシーンが描くのは、過去の繰り返しとしての現在。『承認欲求』『Start Over!』は、彼女たちにとって2023年の成功体験だが、これもいつか美化される過去となる。熱狂的に見えるダンスは、逆説的に「青春を美化し続ける」儀式のように繰り返される。
自分の歴史は選択・選別されてきた歴史でもある。冒頭の歪んだルサンチマン(怨恨)はその表れだ。MV世界では彼女たちは選別されて給仕と客に、グループは選抜とバックスに、他の仕事でも至るところに選別はある。『承認欲求』で選抜制が導入され、本作では選抜の人数は14人とさらに絞られた。でも、選択された者と切り落とされた者に、どのぐらいの違いがあるだろうか。村井と中嶋、または的野と村山に、どんな差があるというのだろう。そんなモヤモヤを一気に昇華させるべく、山﨑をスケープゴートに仕立て上げ、熱狂の祝祭空間を作り上げる。本MVは、随所に過去の楽曲へのオマージュが散りばめらているが、この構造は『風に吹かれても』に似ている。これに限らず、欅坂のいくつかの楽曲において、平手はスケープゴート=王となり、王殺しの悲劇が演じられる。

『何歳の頃に戻りたいのか?』3'17"あたり

トランス状態になり床に倒れ込んだ山﨑は、メンバーたちによって、キリストのごとく祭り上げられる。王殺しが達成した後も、佇む山﨑が存在しないかのように、周囲の熱狂は続く。現実は残酷で空虚だ。
ここのパートは、印象的でありながらネガティブな構造を描き出している。

新しいBuddiesの円環をつくる

再び屋外のシーンへ。山﨑を中心放射場に並ぶ人々が森田のごとく海老反りジャンプすると、再び枯れ葉が舞い上がる。枯葉はこれまでの人生において、選ばなかった・切り捨てたあれこれ。まとめてゴミ袋に入れて、そっとしておいたのに、それを盛大にひっくり返される。前のシーンではキラキラしたラメが舞い散る空間だったのに、ここではその正反対ともいえる枯れ葉が舞う。山﨑を中心にした円環は、似て非なる意味合いをもつ。
過去には戻れない。であれば、決して過去を顧みない態度も肯定されるべきだ。

枯れ葉がひらひら 空から舞い落ちて
鋪道に着地するまで 時間を持て余してた

『風に吹かれても』

今の彼女たちに、時間を持て余すような「大人」の視線はない。青春を美化させない、大人を拒みつづけること。彼女たちが生きるのはいつも「今」なのだ。そこに王殺しの悲劇性はもはやない。

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