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毛マインダー

僕には一本だけ生える胸毛がある。
身体の中心から少し左、心臓がある辺りに一本だけ生える。
それって胸毛なのか?
「当たり前だろ、おれは胸毛だ」
そう主張するように、やつは何度抜いても生えてくる。
「おう なつだぜ おれは げんきだぜ」
「どきどきするほど ひかってるぜ」
おれはかまきりのかまきりのように、それはそれは堂々と、生えている。

僕は毎日ボディラインをチェックをするような人間ではないので、一本の胸毛に気づくまでにある程度の時間がかかる。
数週間か、数ヶ月かはわからないが、やつは気づかれないように、でも胸毛なんだと誇らしげに生えてくる。
気づいた時には1.5cm程度のそれなりの長さになっている。
色も黒く、立派な毛だ。

前回抜いた時から、どのくらいの時間をかけてその長さに至ったのだろう。
顔は毎日鏡で見るから、髭が伸びてくるのは気付きやすい。
もし仮に髭と同じくらいのスピードで伸びているならば、一ヶ月くらいだろうか。

伸びた一本の胸毛を見てふと考える。
もしかしたらこれは、定期的にやらないといけない忘れがちな何かの、リマインダーとして使えるのではないか。
例えば、換気扇のフィルターを交換するとか、箪笥の湿気とりを交換するとか。

名付けて、毛マインダー。
いや、ス毛ジュールの方がいいかな。
ははは。

そんなくだらないことを考えていたら、なんだか毛についての考察が止まらなくなってしまった。

毛。
進化論が真実ならば、身体を保護するという目的の為に生えている毛が、現代ではほとんどその役割を求められていない。
当たり前のように皆服を着ているし、今では鼻から下の毛は脱毛する時代だ。
現代の人間にとって大して必要なものではないのに、毛が与える影響が大きすぎやしないだろうか。

例えばこんな体験がある。
僕は今口髭をモサモサに生やしているタイプのおじさんなのだが、歯医者に歯のクリーニングに行った時の話だ。

歯科衛生士さんが上の歯の歯石を取るときに、上唇を引っ張ると、あわせて口髭が引っ張られ、鼻の中に入るのだ。
鼻の中で感じる毛の感覚。
目元をタオルで塞がれた僕には、それが本当に口髭なのか、それとも鼻毛が飛び出しているのかわからないのだ。
もし鼻毛だったらどうしよう。
上唇を引っ張られたことによって、鼻腔が横に伸び、不慮の鼻毛が飛び出してくる可能性は十分にある。
もちろん鼻毛は普段から気をつけてはいるが、最後に処理したのはいつだったか...。

毛の与える影響力の中でも、鼻毛の威力は特に恐ろしい。
どんなにイケメンでも、鼻毛が一本飛び出ているだけで、まぬけになる。
それが普通のおじさんなら、もうそれはまぬけどころではなく、お笑いである。
歯科衛生士たちのお昼休みにネタにされるかもしれない。
たった一本、顔に黒い線が増えただけなのに。
恐ろしい。
さらに恐ろしいのは、もし仮に上唇を引っ張られて鼻毛が飛び出したのだとしたら、上唇を戻せば鼻毛もきっと所定の位置に戻り、治療後の僕では観測できないということである。
シュレディンガーの鼻毛。
観測するには歯科衛生士さんに「あの、鼻毛出てませんでしたか...?」と聞くしかないが、そんなことは聞けるはずもない。
鼻で感じた毛の感触が、口髭だったのか、鼻毛だったのかは未確定のまま実験を放棄し、僕は帰るしかない。
たった一本の毛に対して、恐怖と影響が大きすぎる。

しかし、必ずしも一本の毛がマイナスに働かない例もある。
サザエさんに登場する磯野波平だ。
波平は、あの和服姿と禿頭と食卓に座る位置等から、一見ステレオタイプなカミナリおやじのように思えるが、意外とドジっ子で、優しい面もたくさんありチャーミングなのだ。
特に孫のタラオには優しい。
思えば波平のチャーミングさも、あの一本の毛が一役かっているような気がする。
波平がカツオに怒り狂っている時でさえも、あの一本の毛がコント感を演出し、波平をどこか嫌いになれないキャラクターに仕上げている。

つまり不慮な無駄毛は、かっこいい方面にはプラスに働かないが、チャーミング方面には必ずしもマイナスとは限らないということだ。

さて、ここまで毛について空想と持論(偏見)を熱く展開してきたが、この駄文を、定期的に一本だけ胸毛が生えて、いつも歯医者で鼻毛が飛び出しているか不安でたまらないおじさんが一生懸命書いているとしたら、どうだろうか。
なんだかチャーミングに思えてきませんか。

毛マインダーとか言って、一本だけ胸毛が生えて、たまに鼻毛が飛び出していたとしても。
思えてきませんか。
思えてきませんね。
これがメンタリズムです。
毛は、恐ろしい。
無駄毛はちゃんと処理しよう。

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