ジュゼップ・プラ『灰色のノート:日記』 「1918年3月9日」(1)

カタルーニャの作家、ジュゼップ・プラの代表作、『灰色のノート:日記』の翻訳です。(加藤広和)


3月9日。 ―― こういう類いの本では最初に伝記的な説明が来るものらしい。ぼく個人としては、回想録や思い出、記録といったものを読むのは、たとえ単純で平凡なものであっても面白く思える。もしこの日記が火の手を逃れたら、いつの日かぼくの遠い親戚や、あるいは知りたがりの暇人が目を通すなんてこともあるかもしれない。

ぼくは1897年3月8日、パラフルージェル(アンプルダ・プティ Empordà Petit)にうまれた。ぼくの血はすべてアンプルダのものだ。東にはバグ(Begur)のプチ・ソン・リク(Puig Son Ric)、西にはフィト(Fitor)の山々、南にはフルミガス(Formigues)の島々、そして北には山風の吹き下ろすモングリ(Montgri)、というのがぼくの原風景だ。この地方はとても古く、あらゆる種類の人が通ってきたということをいつも感じてきた。

父はアントニ・プラ・イ・ビラ(Antoni Pla i Vilar)という。プラというのはリュフリウ(Llofriu)にあるプラ荘の名前だ。リュフリウはパラフルージェルにある、どうということもない小さな集落だが、一応ひとつの教区になっている。静かな村で、土地は貧しく乾いている。住人たちは高望みもせず諦めきっていて、自分の殻に閉じこもっている。ビラというのはパラフリュージェルからパラモス(Palamós)に行く途中にあるモンラス(Mont-ras)というところの一族の名前だ。パラモスは小さな村で、声の大きな共和主義者たちがいる。政治的・個人的な諍いの絶えないところだ。父方のほうの先祖はみな農民だった。リョフリウ小教区の記録はトレント公会議の直後から始まっている。この教区でかつて主管だったビルバ(Birba)神父はとても物知りで、トマト畑の草取りよりも古い本を読むほうに熱中しているようなひとだったけれど、ある日、うちの名前がこの記録の最初から載っているということをぼくに教えてくれた。ぼくの先祖は本当に貧しい農民で、もともとはブドウ畑を耕して暮らしていた。

前の世紀の60年台から70年台のころから、モンラスのビラ家はバルセロナに住み始めた。僕の父方の祖母、マリア・ビラ・コルム(Maria Vilar Colom)の兄弟で、大叔父の一人であるビラ博士という人が、ちょうどバルセロネータ(Barcelonneta)のところに診察室を開いたのだ。このビラ博士は政治的に過激な人で、物質主義と無神論の気のある科学主義を公言していた。48年の革命精神を典型的に残していて起伏が激しかったが、とてもいい人でもあった。ロマンチックな蓬髪で顔がとても青白く、身につけていた黒い幅広の絹のネクタイと対照的だった。

祖母のマリエタ・ビラ(Marieta Vilar)は第二次カルリスタ戦争の時、僕の祖父ジュゼップ・プラ・ファブラガス(Josep Pla Fàbregues)と結婚しにバルセロナからやってきた。陸路は危険だったので海をわたってパラモスで下船、そこからは普通の幌付き二輪馬車で家に向かった。季節は秋で、午後遅く出発した。エン・ビトラ(En Bitlla)の橋の手前で馬が怯えて後ずさりを始めた。街道の真ん中に男の死体があったのだ。道の脇の松林では、サバール将軍の騎兵隊が野営をしていて、よく乾いていない薪が白く濃密な煙をあげていた。後に僕の祖母となる女性は、家についたときにはすっかり怯えきって頬は青ざめ、震えていた。家の人はコルセットをゆるめてソファーに横にさせてから、めんどりを一羽絞めて作ったチキンブイヨンをたくさん飲ませて元気づけた。祖母はこの時の恐怖を一生忘れずにいて、ついこの間も、往時の治安の悪さを訴える農夫にこういっていた。

「ほんとうに!誰かがちゃんと国を治めて、なんにも悪いことをしてない人を正気付けるために、数日にいっぺんめんどりを絞めなきゃいけないなんてことがないようにしてもらわないと……」

僕の母はマリア・カザダバィ・イ・リャク(Maria Casadevall i Llach)という。母の父ペーラ・カザダバィ(Pere Casadevall)は鍛冶屋で、パラフルージェルに炉を開いていた。最初の結婚で生まれた子であるアステーバ・カザダバィ・イ・パレーラス(Esteve Casadevall i Pareres)はキューバに移住して、煙草で当時としてはかなりな財産を築いた。この財産の一部(三番目に相続されたもの)は彼の異母妹、つまり僕の母によって相続された。祖父ペーラは若い頃は自由主義者で、エスパルテロ将軍に心酔していた。息子がキューバから帰ってくると、祖父は明らかにより穏当な方向へと移り始めた。衰えが見えてくると、祖父はエル・ブルージ(El Brusi)誌を購読し――炉はもう閉じられていた――平穏で静かな老後を送った。

リャク家はフィト山脈のガバッラ(Gavarra)から来た。この筋の曾祖父はカボルカ(Cavorca)の農場管理人だった。遠く隔絶された農園で、空と森の狭間にあった。そこの家族は元気で、みな長生きした。祖父の世代は七人の子どもたちがいた。男の子がひとりと、女の子が六人。男の子は脱走兵となり、フランスのランスへ行った。そこで結婚し、ガスト(Gastó)という息子をもうけた。その息子はフランスのために戦い、ヴェルダンで死んだ。スペインの脱走兵の父親と、フランスのために死んだ息子! これはよくわからないような気もするが、それほどでもないのかもしれない。女の子のうち二人はカロンジャ(Calonge)のサ・バルディッサ(Sa Bardissa)で結婚し、二人はパラモスで、二人はパラフリュージェルで結婚した。この家族のうちいくつかはのちにフランスに移住した。現在では母方の本いとこのうち二人は戦闘的なアナーキストで、警察から大変危険視されている……彼らは刑務所に出たり入ったりという生活を送っていて、隠れ家を次々に渡り歩いている。アルベラ(Albera)のこちら側にいたと思えばまた向こう、という調子だ。この地方の家族においてはこういうことは珍しくない。金持ちの親戚、あるいは単に楽な生活をしているところはふつうカトリックで因習的であり、貧しい親戚はアナーキストという風に引き裂かれている。一方に富が集まれば集まるほど、もう一方は因習を否定する。

祖父母に関しては、ぼくはマリエタのことしか知らない。祖父のジュゼップ・プラは若くして亡くなった。屋敷の窓から嵐を眺めていたら雷に打たれたのだ。ペーラ・カザダバィはぼくが生まれた時にはもう亡くなっていた。母方の祖母、グラシア・リャク・イ・セッラ(Gràcia Llach i Serra)は、家に残っていたダゲレオタイプを見ると大変穏やかな人で、非の付け所のない額の上で髪を分け、開放的で輪郭のはっきりした顔立ちにはどこか甘いところがある、そういう人だったようだ。

ぼくの印象では、家族のあいだには長年にわたってアステーバ・カザダバィに対する強い尊敬があったように思う。それはキューバからもたらされた財産によるものだ。一度彼が故郷に戻ったときに、名家の出の、敬虔な女性であるベアトリウ・ジルバル(Beatriu Girbal)と結婚した。この夫婦のあいだには子供はいなかった。このベアトリウとその妹で独身のカルマ(Carme)は若いころシャンパーニュやエペルネーでいっしょに暮らしていた。父親がそこでシャンパンのコルク栓の取引をしていたのだ。エペルネーでは普仏戦争の影響からほど近いところで生活し、ドイツの侵攻も間近だった。そして彼女たちはある日、白い馬に乗って、村を横切るビスマルク皇太子を目にすることになる。

そのベアトリウの影響で、カザダバィ氏は少しずつ教会に近づいていった。ある年、バルセロナで有名なイエズス会士のグベルナ(Goberna)神父がやってきて、感動的な説教をし、けっこうな量の回心者を生み出した。カザダバィ氏もその衝撃に捕えられ、戦闘的かつ行動的な、ごりごりのカトリックになった。彼はその神父がまだ伝道している時に早くも公証人のところに行って、40万ペセタの金貨(彼が手にしていた現金資産の三分の二)をジローナの教皇庁に遺贈するという遺言を口述した。彼の改宗の仕方がいかにも付け焼き刃だったので、キューバに行ったらリベラルになって、ことによるとフリーメイソンにでもなるんじゃないか、と当てこする人もいた。この改宗の真相をはっきりさせることはできないが、確かなのは宗教がカザダバィ氏の性格に多大な寄与をしたということだ。当時はピウス9世の治世で、共和派はカザダバィ氏のことを「教皇聖下の大使様」とあだ名した。濃密な厳格さと堅固なバランス感覚を備えた、非常にまじめな人になった。フロックコートにシルクハット、エナメルの靴、そしてビリヤードの玉のような象牙の握りのついたぴかぴかの杖という出で立ちだった。とてもきれいな字を書いた。背は高く、痩せていて、少し猫背だった。

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