アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』序文

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この本で言うところのボヘミアンは、大衆演劇の脚本家が詐欺師や殺し屋の同義語として使っているようなボヘミアンとは、何も関係ない。熊回しや刀呑みといった見世物師、キーホルダー売りや絶対に儲かる方法のプロ、ごろつきの相場師、その他さまざまな得体の知れない実業家、主要産業にはいそうもない、善行以外ならばいつでも何でもしますという者たちの類でもない。

本書の「ボヘミアン」は、こんにち生まれた人種ではなく、いかなる時代いかなる場所にも存在してきた、華々しい来歴を自称できるものだ。この系譜をホメロスより昔へ遡ることはしないが、古代ギリシャには、その日暮らしで、施し物のパンを食べながら豊かなイオニアの田園を渡り歩き、一夜の宿に『ヘレネの恋』や『トロイア陥落』を奏でてきた美しい音色の竪琴を休ませる、有名なボヘミアンがいた。時代の梯子を下れば、藝術や文学の栄えた時代にはいつでも、現代の「ボヘミアン」の先祖がいる。中世には、宮廷詩人や即興詩人といった、悦ばしき知識団〔Gay Saber、1323年トゥールーズで設立された詩人たちの団体。花合戦Jeux Florauxという詩歌のコンテストを開いていた〕の継承者たち、トゥーレーヌの田園を放浪する吟遊詩人たちによって、ホメロス以来の「ボヘミアン」の伝統が受け継がれた。乞食袋と竪琴を背負った流しの詩人たちが、クレマンス・イゾール〔15世紀末に花合戦を再興したとされる女流詩人〕の野バラ〔花合戦の勝者には野バラが贈られた〕の咲き誇っていたであろう美しい平原を、歌いながら旅していたのだ。

騎士の時代からルネサンスの黎明期へと移りゆく時期にも、相変わらず「ボヘミアン」は王国じゅうの道という道を駆け回り、パリの街にも少し入り込んでいた。それが、物乞い好きで断食嫌いのピエール・グランゴワール御大である。人生そのものが長い四旬節であるかのように痩せこけて腹を空かせた男が、街をぶらつき、狩りに出る犬が風に鼻を向けるように、調理場や焼肉屋の匂いを嗅ぎつける。食い意地の張った目は、睨みつけているだけで、豚肉屋の鉤に吊られたハムを削ぎ落とす。それで、頭の中で、悲しいかなポケットの中ではない!銀貨10枚を鳴らす。その金は、パリ裁判所の法廷を舞台に作ったあまりにうやうやしく敬虔な阿呆劇〔『阿呆たちの王と阿呆の母の劇 Le Jeu du prince des sotz et mère Sotte』という裁判形式の阿呆劇のこと〕の代金として、助役の方々が約束してくれたはずのものなのだ。悲しげな憂い顔をしたエスメラルダの夫〔ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』で、グランゴワールはエスメラルダというジプシー娘と夫婦になる〕の他に、「ボヘミアン」年代記は、それほど禁欲的な感じのしない、もっと陽気な顔つきの仲間を見出せる。それは、かつて兜屋小町であった美女〔美しかりしオーミエール〕の恋人、フランソワ・ヴィヨン御大である。ずば抜けた詩人にして放浪者!その詩想は、古代には予言詩人が持っているとされた前知能力によってだろうか、想像力をかき立てられ、ある日ヴィヨンそのひとが王の銀貨の輝きを間近で見ようとしすぎたために麻縄を首に巻かれる、という奇妙な絞首刑の不安に絶えず苛まれていた。当のヴィヨンはと言えば、追いかけてくる近衛兵の息を切らさせたこと数知れず、ピエール・レスコ通りの陋屋の騒がしい主人、エジプト公の屋敷の食客、詩におけるサルヴァトル・ローザ、哀歌を吟じ、いかに心ない者の胸をも打つ悲嘆の情と真摯な調べ、詩神すら泣き濡れている前では、盗賊だ浮浪者だ道楽者だといったことは誰もが忘れてしまう。

さらにフランソワ・ヴィヨンは、フランス文学は「マレルブの来た」日からのみ始まるのではないと思っている者にとってしか馴染のない無名作家たちの中では最も掠奪された者のひとりであり、現代の高踏派の大物たちにさえ掠奪されているという名誉に与っている。貧乏人の畑につめかけ、しがない財産を鋳潰して輝くコインを造るのだ。ボヘミアンの吟遊詩人が寒い日の街角や軒下で書いたバラードや、かつて兜屋小町であった美女が相手を選ばず金箔のベルトを解くような陋屋で即興された愛のスタンツァが、今日では麝香や龍涎香ただよう社交界での口説き文句となって、高貴なクロリスの紋章を押された詩集に収まっている。

さてルネサンスの偉大なる世紀の幕開けだ。ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の足場を昇り、開廊の下絵を抱えてバチカン宮殿の階段を上がる若きラファエロを心配そうに見つめている。ベンヴェヌートはペルセウス像の構想を練り、ギベルティはサン・ジョヴァンニ洗礼堂の門扉に彫刻し、また同時代にドナテッロはアルノ川に架かる橋に大理石の彫像を建てた。メディチ家の都市〔フィレンツェ〕がレオ10世やユリウス2世の都市〔ローマ〕と傑作を張り合っているとき、ティツィアーノとヴェロネーゼは総督の治める都市〔ヴェネツィア〕を彩った。サン・マルコ大聖堂はサン・ピエトロ大聖堂と争った。

突如としてイタリア半島で勃興した感染力のある才能の熱病は、ヨーロッパ中に輝かしく流行した。藝術は神に比肩し、王と対等になった。カール5世はティツィアーノの作品を集めるために頭を下げ、フランソワ1世はエティエンヌ・ドレが『パンタグリュエル物語』のゲラを校正しているであろうあいだ印刷所で面会を待った。

この知性復興の最中にあって、相変わらず「ボヘミアン」は、バルザックの表現に倣えば、粉物と軒下を探し続けていた〔『従妹ベット』〕。クレマン・マロは、ルーヴル宮殿の控えの間の常連となり、王から気に入られるよりも先に、その微笑が3代の御世を彩ったという美しいディアーヌの寵児となった。移り気な詩の女神は、閨房のディアーヌ・ド・ポワチエから閨房のマルグリット・ド・ナヴァルへと代わったが、マルグリットの寵愛はマロを投獄に至らしめる危険なものであった。マロがフランソワ1世の宮廷に入ったように、ほぼ同時代、幼少のころソレントの浜辺で叙事詩の女神から口づけを受けたもうひとりのボヘミアン、タッソーがフェラーラ公の宮廷に仕えていた。しかし『解放されたエルサレム』の著者は、ディアーヌとマルグリットの恋人のように幸運ではなく、エステ家の娘への無謀な恋ゆえに理性と才能を犠牲にすることとなった〔タッソーは『解放されたエルサレム』を書いたあと精神を病んだ〕。

フランスにメディチ家の到来を告げた宗教戦争と政治的混乱も、藝術の発展を止めることはなかった。ペイディアスによる多神教の彫刻を再発見したジャン・グージョンが「イノサンの泉」の土台の上で凶弾に斃れたとき、ロンサールはピンダロスの詩を再発見し、プレイヤッド派の助けもあって、フランス叙情詩の偉大な流派を打ち立てた。この再生の流派のあと、マレルブやその弟子たちによって、先人たちが詩作において母語に取り入れようとした異国の恩恵を全て追放するという反動が起こった。ラブレーは粗野でモンテーニュは晦渋だと言い立てる修辞学者や文法学者の徒党に攻撃された叙情詩の最後の砦のひとつを守ったのが、誰あろうボヘミアンのマチュラン・レニエである。ひねくれ者のレニエは、ホラティウスの諷刺詩集を編み直し、当時の風俗を眺めては憤慨して書きつけた。

信義とは、もはや誰も記念日を祝うことのなくなった昔の聖人である

17世紀の「ボヘミアン」名簿には、ルイ13世およびルイ14世の時代の文学界での名士も載っている。ランブイエ邸に集う知識人の一員として『ジュリーの花飾り』制作に携わった〔ジョルジュ・ド・スキュデリ〕。パレ・カルディナルに出入りし、君主政におけるロベスピエールとでも言うべき詩人宰相〔リシュリュー〕とともに悲劇『マリヤンヌ』を作った〔トリスタン・レルミット〕。マリオン・ドロルムの閨房で叙情詩を振り撒き、パレ・ロワイヤルの木陰でニノン・ド・ランクルに言い寄った。「大食漢」や「王の剣」といった居酒屋で朝食を取り、晩にはジョワイユーズ公の食卓に与り、街灯の下で『ヨブ』〔アイザック・ド・バンスラードの詩〕よりも『ウラニア』〔ヴァンサン・ヴォワチュールの詩〕だといって決闘していた。「ボヘミアン」は恋をし、喧嘩し、駆け引きだってしたのだ。老いて恋にも飽きると、新旧の聖書を詩に詠み、あらゆる権利書に署名し、莫大な聖職禄で肥え太って、司教の座に就いたり、弟子の作った学士会の会員に収まったりする。

16世紀から18世紀にかけて、それぞれの母国が文学を競い合うとき互いに対抗させた偉大な天才ふたりが現われた。モリエールとシェイクスピアである。この有名なボヘミアンたちは、あまりに似通った運命を辿った。

18世紀の文学界で最も知られた名前もまた「ボヘミアン」名簿に見出せる。当時の最も輝かしい人物としては、ジャン=ジャック〔・ルソー〕と、それからノートルダムの門前に捨てられた子であったダランベールを挙げられるし、最も無名の人物としてはマルフィラートルとジルベールを挙げることができよう。とはいえ後者ふたりは過大評価だ。一方の着想はジャン=バティスト・ルソーの冴えない叙情の更に冴えない反映にすぎず、もう一方の着想は自発的で率直だからというのが言い訳にもならないような憎悪が高慢な無能と混ざり合っているだけだ。その憎悪は党派的な怨嗟と憤激の道具として使われているだけなのだ。

様々な時代の「ボヘミアン」を駆足で要約し終えた。あえて冒頭に固有名詞を散りばめた序論を置いたのは、いま生きざまや言葉づかいを辿ってみた種類のひとたちとは区別してやらねばならない人種が長いことボヘミアンと称されてきたので、読者が予めボヘミアンという名詞に出会っていたら起こるであろう誤った結びつきを全て取っ払うためである。

昔も今も、藝術そのもの以外の生業を持たずして藝術に飛び込むのであれば誰でも「ボヘミアン」の道に入らざるを得ない。いま藝術界で最も立派な勲章をつけている者の多くは、かつてボヘミアンであった。揺るぎなく輝かしい栄光に浴しながらも、瑞々しい青春の丘をよじ登り、20歳の太陽の下で、勇気という若者の美徳と希望という貧者の千金の他には何の財産も持っていなかった時代のことを、おそらくは愛惜の念とともに、たびたび思い返しているのだ。

まだ腑に落ちない読者、臆病な小市民、いくら細かく定義を説明されても足りないというひとに対しては、格言の形で繰り返そう。

「ボヘミアン」は藝術的人生の一段階、序章である。末は学士会か施療院か無縁墓か

「ボヘミアン」はパリ以外には存在しないしできないということも附言しておこう。

どのような社会的地位もそうだが、「ボヘミアン」にも濃淡があり、分類するのも無益ではなかろう様々な下位分類がある。

まずは最も数の多い、無名の「ボヘミアン」から始めよう。これは貧しい藝術家の大一座から成り、身元不詳の定めを宿命的に負うている、というのも藝術界に存在すると証だてられるほど世間の目に留まってもいなければ留めることもできず、今の情況からして将来こうなるだろうと示すこともできないからだ。藝術を職業ではなく信仰としている頑固な夢想家といったところだ。直情直感の人間で、傑作を見ただけで熱狂し、美しいものであれば何でも、作家や流派の名を聞かずとも、それを前にすると素直に心が高鳴るのだ。このようなボヘミアンは、将来有望と言われ、また与えられた期待を実現するような若者なのだが、しかし無頓着であったり遠慮がちであったり実生活を知らなかったりするために、作品を完成させたらもう全て言い尽くしたと思って、大衆の称賛と富が押し込み強盗のように自分の元へやってくるのを待つばかりなのだ。いわば社会の余白で、孤立して惰性で生きている。藝術に閉じこもり、学界からの詩人に後光を戴かしめるデュオニソス讃歌〔熱狂的讃辞〕の紋切型を字義どおりに取って、その下で輝くのだと確信し、その讃辞が皆に読まれることを期待する。信じがたいことだが、かつてこの種の奇人たちの一派が存在し、藝術のための藝術の門弟を自称していたのだ。その純朴な一派によると、藝術のための藝術というのはつまり藝術どうしが価値を高めあうことであり、藝術の出来映えとは関係なしの偶然に任せるのではなく、足下に自ずと土台ができるのを期待することだという。

見てのとおり、それは愚かな禁欲主義だ。だが信じてもらうために繰言すれば、哀れみを誘う窮状にいる同じような無名のボヘミアンたちの真ん中に、そのような信念が存在するのだ、ただその哀れみは良識によって撤回されてしまう。今は19世紀なのだ、5フラン銀貨こそ人類の女王であり、空からエナメル靴が降ってくることもない、ということを冷静に見つめてもらおうにも、こちらに背を向けて小市民よばわりしてくるからだ。

もっとも、自分の馬鹿げたヒロイズムに対しては一貫している。不平不満を漏らさず、先の見えない苛酷な運命を耐え忍んでいるばかりなのだ。あえて科学が真の名を附与するまでもない赤貧という病によって、大多数は斃而後已というわけだ。とはいえ、その多くは、本人が望むならば、普通であれば人生が始まったばかりの齢で呆気なく幕切れというような運命の結末を避けることもできる。そのためには、どうしても必要な法則に対して少しばかり譲歩すれば充分、つまり性格を二重化する、自らの内にふたつの実存を持つことだ。天啓の歌声ひびく山頂でいつも夢見ている詩人と、日々のパンを練る術を知っている労働者、このふたつである。この二重性は、よく鍛えられた性格のひとであればほぼ誰もが持っている特質のひとつなのだが、私生児的なプライドのために一切まともな助言を受けつけなくなってしまった若者に見られることはほぼない。それでも、若くして死ぬときに、後世になって世間に称賛される、もっと早く世に出ていれば感嘆されたであろう作品を遺すこともある。

藝術の闘いは戦争のようなものだ、勝利の栄光は全て長の名に帰せられ、部隊は日報の数行を褒章として分かち合う。戦闘で斃れた兵士はその場に葬られ、2万の屍にひとつの墓標で充分なのだ。

大衆のほうも同じで、いつも昇進した者にしか目を向けず、無名戦士の闘う隠れた世界にまで視線を落とそうとはしない。ついに存在を知られぬまま、ときには作品ひとつ作り上げて微笑むという慰めさえ得られず、無関心の経帷子を着せられて世を去る。

無名の「ボヘミアン」の中には別の一団もいる。買いかぶられたり、自らを買いかぶったりする者たちだ。奇抜さを天職と勘違いし、致命的なる必然で、ある者は肥大しつづけるプライドの犠牲となり、またある者は奇矯を崇めながら死ぬ。

ここで少し余談を許してほしい。

藝術の道は、とても混んでいる上に危険なのだが、渋滞や障碍にもかかわらず日々さらに出盛り、そのため「ボヘミアン」は空前の人数となった。

この盛況を引き起こしたであろう原因をあれこれ探ってみれば、以下のことが見えてくるだろう。

多くの若者が、不遇の藝術家や詩人たちに宛てられた美辞麗句を真に受けたのだ。ジルベールやマルフィアートル、チャタートンやモローといった名前が、あまりに頻繁に、あまりに軽率に、そしてとりわけあまりに意味もなく言い放たれる。こうした不幸者たちの墓で説教壇が作られ、壇上から藝術や詩に殉じた者のことが説かれるのだ。

さらば、不毛すぎる大地よ
人間の災禍、凍れる太陽!
孤独な幽霊のように
人知れず、わたしは消えるのだ

まがいものの勝利によって植えつけられたプライドのために窒息したヴィクトル・エスクス〔パリ生まれの劇作家。処女作のみ人気を博したが、続く作品の不評を苦にして自殺した〕の絶望的な歌は一時期、凡人の殉教史に名を連ねることとなる藝術志願者たちにとってのラ・マルセイエーズとなっていた。

こうした陰鬱な神格化、称賛的「レクイエム」のどれもが、弱い心にとっても不遜な虚栄心にとっても、深淵へと引きずり込むあらゆる魅力を持っていたため、その破滅的な魅力に中てられて、天才の大半は不遇なのだと多くの者が考えた。ジルベールの死んだ病院のベッドを夢見て、ジルベールが死の15分前に詩人になったようにして自分も詩人になることを望み、それが名声を得るには不可避の過程なのだと信じていた。

こうした背徳的な嘘、人命を奪う逆説は、いくら非難しても足りないものだ、あまりに多くの者を、上手く行くであろう道から逸らさせ、本当に天職として与えられた者のみが歩むべき道で、そうした者を邪魔しながら、悲惨なままに人生を終えさせた。

そうした危険な説教、死後の無益な熱狂が、理解されない笑い者、いつも目を赤く泣き腫らして髪には櫛も入れない詩の女神に憑かれた泣き言ばかりの詩人、未刊の檻に閉じ込められて詩を継母と呼び藝術を死刑執行人と呼ぶ無能の凡人たちを作り出した。

真に力ある精神は、言うべき言葉を持ち、遅かれ早かれ実際それを述べるものだ。天才や俊才が、予期せぬ偶然で世間に現われることはない。存在理由を持っており、ずっと無名のままに留まることはない。大衆のほうから来なくとも、大衆に届く方法を知っているからだ。天才は太陽だ、誰もが天才を見る。俊才はダイヤモンドだ、長いこと埋もれているかも知れないが、いつも認めているひとはいる。だから、藝術のほうがお呼びでないのに藝術に関わってくる招かれざる無用の輩、「ボヘミアン」のうち怠惰や放蕩や寄生が素行の基底にある奴の愁訴や口癖に同情するのは、間違っている。

格言

無名の「ボヘミアン」は道ではない、袋小路である

実際、そうした生活は何にも繋がらない。愚鈍な貧乏であり、その中にいると知性は真空状態に置かれたランプのように消えてしまう。過度の人間嫌いで心が凝り固まり、最良の性格も最悪に堕してしまう。その袋小路に長く留まりすぎたり深入りしすぎたりする破目になると、もはや出られなくなるか、危険な犠牲を払って出たところで結局また間近のボヘミアンに陥ってしまう。そうした生態は文学の生理学が扱うものとは別物だ。

次に、特殊なボヘミアンを挙げよう、それは素人とでも呼べるものだ。この種のボヘミアンは、さほど奇抜ではない。ボヘミアン生活は誘惑に満ちたもののように映る。毎日夕食を取らない、雨夜にも濡れながら野宿する、12月にも南京木綿を着ている、そうしたことが人間にとって至福の楽園のように思われ、そこに入り込もうと、ある者は家庭を捨て、ある者は確実な結果を得られる勉強から逃避する。偶然による生活という冒険に出るため、それなりの将来というものに勇ましく背を向ける。しかし、いかに丈夫であってもヘラクレスを肺病にするような食事には耐えられないのであって、間もなく勝負から降り、さっさと父親の食卓に引き返すと、帰って従妹と結婚し、人口3万人の町で公証人として身を立てるのだ。晩には暖炉の傍で、虎狩りの話をする旅行者のような仰々しさで、自分の藝術家時代の悲惨さを満足げに語ってみせる。ところが、意地を張って、プライドを賭ける者もいる。そうした者は、ボンボンだったらいつでも見つけられた収入源がひとたび途絶えると、本物のボヘミアンよりもっと不幸になる。本物のボヘミアンは、いかなる収入源も持ったことはないが、少なくとも知性によって収入を得られるものだ。そのような素人ボヘミアンのひとりを知っている、3年間「ボヘミアン」をやったあと家族と仲違いし、いつしか亡くなったのだが、貧者のための霊柩車で共同墓所に運ばれた。年金が1万フランもあったのに!

言うまでもなく、このようなボヘミアンは如何なる意味でも藝術と共通点を持たず、最も知られていない部類の無名の「ボヘミアン」のうちでも最も埋もれている。

ようやく真の「ボヘミアン」にたどり着いた、これが本書の主題だ。間違いなく藝術に招かれた者であり、選ばれた者にもなりうる。そのような「ボヘミアン」も、他の「ボヘミアン」と同じく、危険に曝されている。困窮と疑念というふたつの深淵が両手に切り立っている。しかしそのふたつの深淵の間に、視界には入っている、掴みたいと願っている目標へと続く道が少なくとも一本あるのだ。

それが公式の「ボヘミアン」である。そう呼ばれるのは、自身の存在を公に主張して、世間に存在することを戸籍簿以外でも示しており、さらにボヘミアン流に言えば、確かにポスターに名前が載り、文学界や藝術界で名が通り、誰のものか分かるような作品が手頃な価格で流通しているからだ。

そうした明確に定められた目標に達するためならばどんな道でもよく、ボヘミアンは道中の偶然すら利用する術を知っている。降雨にも砂塵にも、曇りでも晴れでも、この果敢な冒険者は足を止めない。ひとつの美徳はあらゆる悪徳に勝る。野心が前方で突撃の太鼓を鳴らし、未来に向かって奇襲させるから、常に精神を尖らせている。絶えず生活と挌闘しながら、創作意欲は常に火のついた導火線で、邪魔する物はすぐさま吹き飛ばす。日々の実存が天才の作品であり、日々遭遇する問題を大胆な数学でもって解決する。こうした者は、たとえアルパゴンでも自分に金を貸させ、メデューズ号の筏でもトリュフを見つけたことだろう。必要とあらば、隠修士のあらゆる美徳とともに禁欲を実践することもできる。しかし少しでも実入りを得るや否や、破茶滅茶に羽目を外して騒ぎ、最も若くて美しい女を愛し、最も古くて高級な酒を飲み、あちこちの窓に際限なく金を投げ込む。いよいよ最後の銀貨もなくなって久しいとなると、いつも自分の食器を置いてある家々を成りゆき任せに尋ねては夕食に与り、悪党の一味の手引で、藝術に関係する稼業を何でも漁って、5フラン銀貨と呼ばれる猛獣を朝から晩まで追いかけるのだ。

ボヘミアンは何でも知っており、持っているエナメル靴かボロ靴に応じてどこへでも出向く。ある日には社交サロンの暖炉に肘をつき、あくる日には青空酒場〔ギャンゲット〕の園亭の卓についている。大通りを10歩も行けば知り合いに遭い、30歩も行けばどこであろうと借金取りに遭う。

「ボヘミアン」は内輪ではアトリエでの雑談や舞台裏での隠語や編集室での議論から借りてきた独特の言葉で話す。この驚くべき特殊語法では、あらゆる文体の折衷が自在に出会うのだ。黙示録のように難解な言い回しは支離滅裂な与太話と紙一重、卑俗な俚諺の田舎訛りがベルジュラックのこけ脅しで使った長広舌と同種の大仰な美文となり、カサンドラがパントマイムで演じられるように現代文学で持て囃される逆説でもって道理を扱い、即効性の辛辣な威力と目隠しされても的を射抜く狙撃兵の技巧を兼ね備えた皮肉で、符牒を知らない者には理解できない高度な隠語は、どんなに自由な言葉をも凌ぐ大胆さである。このようなボヘミアンの言葉遣いは修辞学の地獄であり造語の楽園である。

ボヘミアン生活とは、要約すれば、このようになる。世間の潔癖家には認知されず、藝術界の潔癖家には非難され、臆病で嫉妬深い凡人には侮蔑される。そうした凡人は、才能に任せた大胆さで盛名のとば口までたどり着いた者の声や名を封じられるほどの罵声も虚言も中傷も持ってはいない。

愚昧や嫉妬から来る攻撃に耐えうる無関心の強固な鎧を着なければ闘えず、途中で躓きたくなければ一瞬たりとも自身のプライドという支えの杖を手放してはならない、忍耐と気合の人生である。勝利か殉教か、敗者に災いあれ〔vae victis〕という無慈悲な掟に従うことを前もって受け入れなければ踏み入ってはならない、魅惑と恐怖の人生である。

1850年5月

H.M.

(訳:加藤一輝/近藤梓)

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