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犬も倒れた

私には犬がいた。
甲斐犬の雑種で、里親募集サイトを見ているときに、あと1週間で保健所行きになるという子犬を見て、すぐに山梨まで貰いに行ったのだ。

大人になってからは猫としか縁がなかったが、元々は犬が大好きだ。子供の頃から犬を飼っていた。だから、マンションを買って、猫以外に犬も飼えるとなったとき、吸い寄せられるように里親募集サイトを見るようになった。そして出会ったのが黒い甲斐だった。山梨の保護犬には甲斐っぽい犬がとても多い。甲斐が山梨の地犬だからだろう。なので、貰った犬も素性が知れないから雑種となっているが、見た目は足に赤虎、胸に白ポイントのある、鹿型のきれいなメスの甲斐だった。

ぐらと名付けた。

ぐらはすでに三匹の猫が暮らす70平米のマンションにやってきて、近所にいくつもある大きな公園で、たくさんの犬友に揉まれながら育った。犬を育てるのはこんなに手がかかるものかと驚いた。子供を持ったぐらい生活がかわり、どこに行くにも連れて行かざるを得なかった。なので頻繁に行っていた夫の実家にも子犬の頃から連れていき、ぐらは義父母とも大の仲良しになった。
優しくて食べ物をいっぱいくれる義母のことは、特に大好きになった。

ぐらはうちに来てすぐに食物アレルギーを発症し、成犬になる頃にはけっこうなアトピー持ちになった。アトピーは年を取ると治ることが多いから、10歳ぐらいになれば軽減するかも、と獣医には言われていた。

2006年に生まれて、2008年に我が家のボス猫が死に、人の赤ん坊が生まれた頃にはよくなるどころかアトピーはどんどんひどくなった。10歳はまだ遠く先だった。そんな時、夫の仕事でシンガポールへ渡ることになった。2012年のことだ。一旦は義父母の家に預けたが、すぐに引き取るつもりで準備していた。でもシンガポールは湿度が高くアトピーが悪化することを知って躊躇した。結局そのまま義父母の家で私達の帰りを待つことになった。そのうち「お母さん」というと私ではなく義母を追うようになり、どんどん肥えて小ぶりなラブラドールくらいの大きさになった。預けている間は口出ししなかったが、帰京したらまたきちんとしつけて体重も戻そうと心に決めていた。

が、夫と義父母の間でぐらをそのまま義父母の家に残すという話が出ていると聞いた。ショックだった。3年手放してしまったとはいえ私の犬だ、という思いが消えなかった。諦めきれずにいたとき、ぐらの糖尿病発病を告げられた。で、インスリン治療を始めた途端、とんでもなく皮膚状態が悪化した。

比喩ではなく全身の毛が抜け、地肌は真っ赤に腫れ上がり、強い痒みで掻きまくるのであちこちに血が染みていた。安楽死を考えるぐらいの悲惨な状況だった。

たまたま大変優秀な皮膚専門の獣医さんに出会うことができ、しばらく我が家に戻ってきてその動物病院に通ったら、2ヶ月で毛は生え揃った。でも痒みは元には戻らなかった。改めてアレルギー検査をしたら、猫への強度なアレルギーが出た。

糖尿コントロールと皮膚のケアで一人にしておけなくなった上に、猫アレルギー発覚。これで、ぐらとまた一緒に暮らす目はなくなった。

そこから3年。糖尿のコントロールはうまくできるようになった。一日二回のインスリン注射にも慣れた。でも痒みは収まらず、常に足カバー、首のカラー、犬用の服でガードせざるを得なくなった。糖尿のせいで白内障が進んで失明し、遠くへ散歩にも行かなくなった。耳に小さな腫瘍ができて、切除したせいで片耳が垂れた。
まだ十三歳とも思えないぐらい老化が早い。顔はほとんどが白髪だ。一日何度もトイレに連れ出しても失禁するようになり、義父母が忙しい時は私が車で3時間かけて往復したり泊まり込んだりして、みんなでぐらのケアをした。

何がいけなかったのか。
やっぱりあの時、無理してでもシンガポールに連れて行くべきだったのか。
あんなに太らせたのが悪かったんじゃないだろうか。

そう自分や義父母を責めた時期もあったが、見方を変えれば、生まれてすぐ命を絶たれるはずだった犬が、家族総出で、多大な費用をかけて、大事に飼われている。それなりに落ち着いた毎日を送っている。

ありのままで生きるこの犬を、かわいそうだとか、申し訳ないとか思うのはよそう。家族として、義父母とぐらを支えていこう。

そんな歯車が、きれいに噛み合っているように見えた矢先である。
突然ぐらが、よろけて立てなくなった。頭をふり、常に眼球が回り、食べても全て吐く。なくなれば胃液を吐く。
前庭という、内耳にある三半規管の障害が起きていると獣医に言われた。

全く動きが取れなくなって3日目。寝ずの番を二晩続けた義父母のかわりに今、徹夜をするため義父母の家にいる。
1週間ぶりに会ったぐらは、見る影もなく痩せて横たわり、うつろな目はまだわずかに回っている。今日は足腰が立たず、草むらで腰を支えておしっこをさせていると義父は言った。でも、私が撫でたら頭をあげて、小さく鼻をならした。私が草むらに抱いて行ったらしっかりと自分の足で立ち、数歩とはいえ歩いて自力で小便をした。そして帰宅したら、鶏肉とチーズを私の手から少し食べた。その後も吐いていない。

もしこの状態が改善しなければ、今度こそ安楽死を考えたほうがいいんじゃないか。そう覚悟しながら来た。義父も、今日が私達とぐらの別れになるんじゃないかと思っていたそうだ。でも、少しではあるが、ぐらは回復に向かっている。少なくとも私にはそう見える。


通常の前庭障害ならば、3日目ぐらいから症状が落ち着き、3週間ほどで治るとネットで読んだ。もしかしたら、ぐらは復活できるかもしれない。正直なところ、いつまで続くか分からない介護に終わりがくるかもとホッとする気持ちもあったが、実際顔を見ると悲しくてならなかった。だから快方に向かう望みが見えたことがとても嬉しかった。

ぐらはアトピーがあるとはいえ顔と背中は黒い毛が艷やかで、奥多摩の山に連れて行くと、山犬らしくはしゃぎまわった。落ちるように崖を駆け下りヤギのように登ってきた。北秋川で水練に励み、夏になると毎週末、檜原村へ泳ぎに通った。
冬に雪が降ると、鳴いて鳴いて散歩をせがみ、吹雪に目を塞がれながら雪を漕いで駆け回った。

ぐらの若い日のことを、ほんの3年前の夏のことを、目を閉じればすぐに思い出せる。


もうあの時が戻ってくることはなくても、ぐらを最期まで見たい。
連れて帰りたい。
でも、猫がいるだけでなく、母の介護で頻繁に帰省している今、こんな状態のぐらの面倒を見るのは無理だ。

どうしようもない。情けない。

どうして今なのだろう。

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