Rev.Godzi

東京、多摩地区にてキリスト教会で牧師をしています。明治大学、東京聖書学院、立教大学院、…

Rev.Godzi

東京、多摩地区にてキリスト教会で牧師をしています。明治大学、東京聖書学院、立教大学院、アジア神学大学院で学ぶ。主にエラスムスの人間論を中心にルネッサンスから宗教改革期に至るまでのキリスト教の研究をしています。

最近の記事

書評 李信建著『こどもの神学-神を「こども」として語る』

書評 李信建著『こどもの神学-神を「こども」として語る』    評者 濱和弘  李信健氏による本書は、すこぶる良書である。本書が取り扱うテーマは、この世界に神はどのような姿で立ち現れ、どのような姿で自らを啓示しているかということから展開する「組織神学(教義学)的課題である。そして、その課題の中心には、現代社会の中で虐げられ抑圧されている者の姿がある。そこにおいて、「こども」は、その虐げられ抑圧されたものの代表であり象徴的存在となっている。それは、「こども」は、通史的に言

    • 宗教における象徴の意義

      元旦を前にして思うところがあり、宗教における聖別ということを宗教における象徴という視点から、少しばかり考えてみた。宗教における象徴の問題は、宗教学における重要なテーマの一つであろう。  それに関して、先日、あるキリスト教の勉強会で、非常に気のなる発言を聞いた。それは「教会の会堂も、また聖餐のパンとブドウ酒がなくても、どこでも礼拝はできるし、神様を信じる信仰があり神様を礼拝する思いがあれば、それで十分であって、場所と何かは関係ないのではないか」という趣旨の発言である。またその

      • 70人訳聖書と聖書の霊感

         本文は、出版準備中の書物の聖書論に関わる部分を抜き書きにしたものです。たまたま、先日対談した島先克臣さんと言う方が、過去になされた聖書に関わる非常に優れた論考を拝見する機会があり、それに触発されて、ここに掲載してみました。なお、出版準備中の書物は、啓示論に関する本で、特に特殊啓示と呼ばれる内容について述べたもので、全体の全5章中の第2章(全7節)の3節4節にあたる部分です。以下本文に入ります。 第三節 七〇人訳聖書の問題 聖書は、神の啓示の働きの結果です。そのことを、テ

        • アブラハム・ヘシェルの思想概観

          2023年立教大学院・現代キリスト教思想演習 アブラハム・ヘシェルの思想 テキスト:アブラハム・ヘシェル『人は独りではない』 主題:ヘシェルの思想の概説 濱和弘 はじめに  本論考は、立教大学大学院における2023年秋・冬学期の現代キリスト教思想演習のテキストであるアブラハム・ヘシェルの『人は独りではない』を講読にあたり、アブラハム・ジョシュア・ヘシェル[1](Abraham Joshua Heschel:以下、本文中においてはヘシェルと略す)の思想を概観することを目的と

        書評 李信建著『こどもの神学-神を「こども」として語る』

          ゴジラと聖書と物語神学

           書斎の机越しに目を挙げると、ゴジラのフィギアが目に飛び込んでくる。ゴジラだけでなく、モスラやキングギドラなど様々なフィギアが、私の住居には、書斎に限らずリビングにもあふれている。これらのものは怪獣と呼ばれるが、私が趣味として集めたものである。これら怪獣の始まりは1954年版の初代ゴジラにあると言って様だろう。怪獣は、恐竜や巨大なモンスターとは違う。怪獣は怪獣であり、怪獣の存在そのものが、人間の存在を危うくし、存在の根底を揺るがし、不安にさせ、ある種の神性をおびた畏れを感じさ

          ゴジラと聖書と物語神学

          脳死および臓器移植に関する日本を場として神学的判断と牧会神学のための予備的考察

          2008年度AGST(アジア神学大学)秋期講義課題    アジア神学大学院牧会学博士課程 濱 和弘 以下は、2008年度のアジア神学大学院の秋期講義の単位所得のための課題に対して書かれたものである。本来は、以下の内容に加えて、キリスト教における死の理解を加えて、脳死臓器職に対する牧会的視点からの試論を述べるものであるが、以下はそのための予備的考察である。 筆者は、知人がアメリカで脳死肝移植をする際に、その支援活動の責を負った経験があるが、その際、キリスト者が脳死移植という医

          脳死および臓器移植に関する日本を場として神学的判断と牧会神学のための予備的考察

          精神と身体との関係性からみる臓器移植の可能性

          ‘23年春季キリスト教会倫理学ゼミ発表 テキスト『命は誰のものか』 12章あなたは臓器を提供しますかー臓器不足を巡る問題 発表者濱和弘 以下は、2023年5月15日にR大学院もキリスト教倫理学のゼミにて、香川知晶氏の『命は誰のものか 増補版』(ディスカバリー携書227、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2021年)をテキストとして行われた発表の発表原稿である。 発表は、12章「あなたは臓器移植をしますかー臓器意不測の問題」を題材とし、発表者の研究テーマ「エラスムスの人

          精神と身体との関係性からみる臓器移植の可能性

          テオフィル・ド・ジロー著『子供のいないキリストー初期キリスト教における反出生主義』(2)第一章

          The Childfree Christ ―Antinatalism in Early Christianity- By Théophile de Giraud 第一章 生きることへの嫌悪、死への称賛、そして旧約聖書における「生まれる」ことへの拒否  旧約聖書でさえ、神が人類に与えられた有名な創世記1章28節、および9章1節にある「産めよ、増えよ、地に満ちよ」を指し止める命令の徴(sign)のもとに置かれているにもかかわらず、反出生主というの印章によって記された幾分の調和

          テオフィル・ド・ジロー著『子供のいないキリストー初期キリスト教における反出生主義』(2)第一章

          キリスト教倫理の視点からみた「死への決定権」の問題について

          立教大学院梅澤ゼミ2022年秋冬期キリスト教倫理特講発表 テキスト:香川知晶著『命は誰のものか』 担当箇所:第8章“あなたは治る見込みがないのに、生かし続けられることを望みますか?”  ―カリフォルニア自然死法とクインラン事件― 発表者:濱和弘 初めに  本論考は、香川知晶氏の『命は誰物もか』(ディスカバー携書、2021年)の第8章と第9章と連関し、医療現場における人間の死の局面における「死ぬ権利」を問題したものであり、立教大学院キリ教学研究科のキリスト教論理研究のクラス

          キリスト教倫理の視点からみた「死への決定権」の問題について

          ソクラテスはクリスチャン?啓示論の視点からみたロゴス・キリスト論

          ソクラテスはクリスチャン? 啓示論の視点からみたロゴス・キリスト論 現代神学思想演習 発表者 濱和弘 はじめに ー啓示論的視点からロゴス・キリスト論を見るということー   ロゴス・キリスト論というのは、そもそもは神の言であるλόγος(ロゴス)の受肉の意味を考える議論だが、それはすなわち、カルケドン会議(451年)におけるキリスト論における神人両性をめぐる議論に先行する受肉した神イエス・キリストについての議論あると考えられる。したがって、ロゴス・キリスト論は神

          ソクラテスはクリスチャン?啓示論の視点からみたロゴス・キリスト論

          聖書の言葉の限界性

          聖書の言葉の限界性  以下の文章は、私の出版予定の『(仮)神かく語りきー傘の神学的啓示論』の中の一節である。最初に断っておくが著者である私は、「聖書は、誤りない神の言葉である」と言う信仰告白に立つ福音派の牧師である。そして、この「聖書は誤りのない神の言葉である」という信仰告白の上に堅く立っている。  しかし、同時に神学の一学徒として、この「聖書が誤りのない神の言葉である」という信仰告白への神学的理解と神学的妥当性を絶えず考えている。本論考は、そのような営みの中でなされたもの

          聖書の言葉の限界性

          反出出生主義と宗教ー島薗進氏「生ま(れ)ない方が良いと言う思想と信仰」をもとに

          キリスト教倫理演習 『反出生主義を考える』 島薗進「生ま(れ)ない方が良いという思想と信仰」 発表者:濱和弘 2021年12月10日 はじめに 島薗氏による本論考[1]は、おもに仏教と旧約聖書を聖典(正典)とする宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、ここでは便宜上、旧約聖書の宗教と呼ぶ)を取り上げ、両者の反出生主義との親和性を比較しつつ、宗教という視点から反出生主義について考えるという試みである。  もちろん、一言に仏教、旧約聖書の宗教といっても、実は、それぞれにグ

          反出出生主義と宗教ー島薗進氏「生ま(れ)ない方が良いと言う思想と信仰」をもとに

          小田垣雅也『憧憬の神学』第1章序説・絶対無と神 ―その内容と所感―

          〇✖大学院▼◇ゼミ発表 小田垣雅也『憧憬の神学』第1章序説・絶対無と神 ―その内容と所感― 2021年5月14日(金)     濱和弘 はじめに  本章は、小田垣雅也の『憧憬の神学』の序説であるが、著者である小田垣は、本書の3章4節「憧憬と絶対矛盾的自己同一」の冒頭で「『人間は憧憬ないしには生きられない。しかし憧憬以上であり得ない』というのが本書のテーゼなのだが」(45頁)と述べているように、小田垣の神学思想における「憧憬」に対する小田垣の思索が述べられているものである。

          小田垣雅也『憧憬の神学』第1章序説・絶対無と神 ―その内容と所感―

          「無の神学が啓示論に示唆するもの』

          2021年度春季 立教大学院現代神学思想演習▼◇ゼミ発表 担当箇所:小田垣雅也『憧憬の神学』第一章・絶対無と神      「無の思想が啓示論に示唆するもの」 2021.5.14(金) 発表者:濱 和弘 本日、小田垣雅也氏の『憧憬の神学』の発表させていただきます濱和弘です。そして今日の発表の内容は、私の担当箇所の『憧憬の神学』第一章の内容を踏まえながら、それを関連付け、今、私がいろいろと考えております「キリスト教の啓示論」と言うことに引き込んでの発表とさせて抱きたいと思います

          「無の神学が啓示論に示唆するもの』

          宗教改革における「宣教の神学」

          AGST講義レポート 講義Dr.ウィルバート・シェンク師「宣教の神学」       アジア神学大学院牧会学博士(D.Min.)課程 濱 和弘 【序論】 本小論は、2007年度TMRS研修会におけるDr.ウィルバート・シェンク師の講義を受けて、その内容について批判・検証するものである。シャンク師の講義は、時代的には広範囲に渡るものであるので、筆者はその講義の中でも、特に宗教改革期の宣教の神学に述べられたことについて検討し、宗教改革期におけるプロテスタントの宣教の神学を、主にルタ

          宗教改革における「宣教の神学」

          生成する時間と生起する歴史 ーF.ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』第6章を通してー

          2020年度キリスト教倫理学研究 F.ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』 第六章 治療・第一週 発表;濱和弘  以下に述べる内容は、F.ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』の第6章の内容である。ローゼンツヴァイクは、人は、生成される時間の中で繰り返し歴史が生起され、それが面々と繋がりつつ歴史が形成されて行く中で、人はその歴史の形成者となる存在であると捉えている。それは、過去の時間から連続し、私たちを歴史の罪最前線で「前へ」と押し出していくのであるが、その過

          生成する時間と生起する歴史 ーF.ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』第6章を通してー