エラスムス『キリスト者兵士必携』における性と快楽の問題

エラスムス『キリスト者兵士必携』における性と快楽の問題       

                             濱和弘

※この論考は雑誌『DELEK』(立教大学キリスト教学研究科2015年)に掲載されたものである。

1.はじめに
 K.アームストロングは、「主要な宗教のなかで、セックスを嫌悪し恐怖するのはキリスト教だけであった 」と言い、「キリスト教は、セックスを嫌悪し不法なものとしたことにおいて、また人々が性衝動を持つ生き物であるという理由で、彼らに罪悪感を持たせたことにおいて、まさに独特である 」と言う。アームストロングは、このセックスを嫌悪し、罪悪視し、抑圧するキリスト教の態度が、西洋キリスト教社会における女性蔑視と性生活の抑圧につながったという視点から、西洋の抑圧された偏見から女性のセクシャリティの解放を訴える。そして性の問題は「文化や社会によって作り出される社会的構成体 」であると指摘するのである。
現代の日本は、明らかに性の解放に向かっている 。その中で性の商品化など、様々な問題が起こってきている。アームストロングの指摘が正しいとしたならば、それは現在の日本という文化と社会が生み出しているものである。このような中で日本のキリスト教会は性 について何を語ることができるのか 。これは、キリスト教会の一牧師としての牧会的関心事である。
筆者は、この関心の下にエラスムスがその著書である『キリスト教兵士必携』(以下『必携』 )において性の問題をいかに問うたかについて見てみたいと思う。と言うのも、『必携』は、エラスムス.がルネッサンス以降、中世人が目覚めた人間の尊厳性を視野に入れつつ、神の前に如何に生きるかを問うた書だからである。人間の尊厳性の目覚め、それは中世の閉ざされた人間観からの解放でもある。そのまっただ中で、エラスムスは性の問題に何を語ったのであろうか。筆者には、そこに性の解放が現実に推し進められている日本社会にある一牧師が学ぶべきヒントがあるように思えてならないのである。

2. エラスムスの問題意識としての性と快楽
エラスムスに関する研究は、古くは、スミスやホイジンガ、ベイントン、アレン等によって、近年ではルンメルやアウグスティン等の研究がある。しかしながら、エラスムスが性の問題にどのように向き合ったかを詳細に研究した論文等を筆者が知る限りにおいて見ることが出来ない。またわが国においても、赤木善光、金子晴勇、木ノ脇悦郎といった歴史神学のそうそうたる面々がエラスムスの研究に取り組んでいるが、性の問題を主題においた論考は、実質的にはないと言えよう。
 従って本小論において筆者は、『必携』におけるエラスムス.の言及を頼りに、AD.1500年時点のエラスムスが性の問題にどのように向き合おうとしていたのかを考察していくことにする。『必携』は、エラスムスの倫理的思想が最も読みとれる書だからである。そこでエラスムスの言葉である。エラスムスはこの性の問題を好色の問題として捉えて次のように述べる。

この好色の悪よりも早く私たちを攻撃し、より激烈に駆り立て、より広くはびこり、より多くの破滅に引き渡すものは何もありません。従って、もしいつか醜い好色の罪があなたの精神を苦しめるならば、直ちに次の武器を取り上げてそれを阻止するように覚えておきなさい。神の被造物である私たちを単にもろもろの家畜のみならず、また豚、山羊、犬、野獣のうち最も無感覚の生き物に等しくするこの肉欲は、いかに不潔で汚れており、どんな人にもいかに嫌悪すべきものであるかを、まずはじめに考えなさい。いな、この肉欲はさらに、天使たちの協力者、神性との交わりに予定されていた私たちを下方の家畜の地位に向けて投げ倒しています。この肉欲がいかにはかなく、いかに不純であり、いかに蜂蜜より胆汁を含んでいるかをも思い見なければなりません 。
 
またエラスムスは、この性の問題を具体的な問題に関連付けて次のように述べている。

 「快楽はひとたび承認するといかに多くの犯罪の大群を引き寄せる習わしであるかを胸に当てて考えて見なさい。他の悪徳においてはおそらくある種の徳との結び付きがすこしはありますが、好色には何もないのです。むしろ好色は最大の、また最も多数の罪と常に結び付いています。売春婦を求めることは少しも目立たぬことかも知れないが、〔それと結び付いている〕「良心に聴き従わないこと、友人を無視すること、父の財産を浪費すること、他人のものをひったくること、偽誓すること、痛飲すること、強盗をすること、悪事を働くこと、生死をかけて戦うこと、殺害すること、冒瀆することは重い罪です」 。

 これらのエラスムスの言葉から判るように、エラスムスは、性の問題を性そのもの、あるいは性行為そのものに見るのではなく、性行為に伴う肉的快楽の追求の結果である好色が様々な具体的な罪を引き起こすのであるとして性欲と罪とが関係付けらている。
 ところで、時代背景を考えれば、エラスムスが男性の視点から『必携』を書いたことに疑いはない。前出のアームストロングはキリスト教のセックスへの嫌悪は、男性の視点から女性を捉え、最終的に女性の処女性の偏重による性抑圧と、性への誘惑者として魔女視することによる蔑視に繋がったと見ている。ところがエラスムスは、女性を誘惑者として捉えて問題視してはいない。エラスムスはむしろ、「あなたの情欲があおられるのなら、あなたの弱さを認識しなさい。そして許されている楽しみについても厳しく自分に禁じ、貞潔で敬虔な活動に多少の〔価値の〕追加をしなさい」 と言う。つまり男性の側にある肉的快楽に対する弱さに着目し、そこに誘惑される原因を見て問題視している。つまり我々を誘惑し魅惑するものは、女性でも性行為そのものでもなく、性に伴う肉的快楽にあるとして、そこを問題視しているのである。
 エラスムスは人間の本来在るべき姿は、理性によって霊的(天的)なものを求めて決断的に生きる姿であると考える。そのエラスムスにとって、この肉的快楽の追及こそが、我々に霊と肉との《倒錯 》を引き起こす原因であり、肉的快楽を追求して生きる人の姿は、まさに倒錯した罪人の姿なのである。このように、エラスムスにおける性における問題は、性差に対する意識そのものや性行為それ自体にあるのではない。むしろ問題点は、性に伴う快楽とその誘惑に屈してしまう我々の弱さにあるのである。

3.肉的快楽の追求が持つ本質的問題

 エラスムスは、性の問題は性そのものや性行為それ自体にあるのではなく、むしろ性に伴う快楽にあると考えていた。だとすれば、性には、快楽との関わり方によって許される性と許されない性とが生じてくる。実際エラスムス.が、『必携』において快楽の誘惑に対する救助策を述べる際に、「次に有効なものは、食事と睡眠との抑制、許されている快楽であってもそれからの節制、あなたの死の考慮とキリストの死の省察です 」と言うとき、そこには許された快楽があることがしっかりと意識されている。
 エラスムスが快楽を追求する好色に基づく性を許されない性であると考えていたことは明らかである。では、許された快楽とは何であろうか。エラスムスはそれが何であるかについて明確に述べていないが、おそらくは夫婦間におけるあるべき性の姿であろう。ただし、エラスムスが快楽と言う言葉を用いるとき、そこには1533年版『対話集』 にある“Epicureus”で語られた神と共にあることで得られる真の快楽と言う意味も有り得ることを見落としてはならない。この神と共にあることで得られる真の快楽は、実際には終末の出来事である。しかしその終末の出来事は、全き神であり全き人であるインマヌエルなるキリストによって現在化されるのである。そして我々もまた、そのキリストと結びつくことによってそれに与ることができる。従って、「今ここで」という現在における快楽は、「キリストと共にある」という宗教経験に基づく真の快楽の可能性も考えられるのである。とは言え、『必携』において言われる「許されている快楽」は、”Epicureus”で言うところの真実の快楽ではなかろう。なぜならば、それは節制を求められる許される快楽だからである。それゆえに、エラスムスがここで「許される快楽」と述べている快楽は、やはり夫婦間における在るべき性の形と考えるのが妥当である。しかし、それでもなお我々は、夫婦関係において、エラスムスが抱いていた真の快楽という視点は考慮に入れておかなければならない。と言うも、エラスムスは結婚にも真の快楽が伴うと考えていた節があるからである。エラスムスの言葉を見てみよう。

 「あなたは妻が単にあなたの妻であると言う名目のためだけに愛しています。あなたは何の偉大なことをなしているのではないのです。あなたはこのことを異教徒たちと共通に行っているのでありますから。あるいは、あなたが妻を愛するのはあなたにとり快楽のために他ならないのです。あなたの愛は肉を目ざしているのです。しかし、あなたが彼女のうちにキリストのみ姿を、例えば敬虔、控え目、節制、貞操を、認めたからこそ、とりわけ彼女を愛するときには、あなたはすでに彼女を彼女自身においてではなく、キリストにおいて愛しているのです。否、あなたは彼女においてキリストを愛しているのです。こうして結局あなたは霊的に愛しているのです」。

 ここには、妻を自分の快楽のために愛するのではなく、そのキリストにある人格のゆえに愛することが霊的に愛すると言うことであると言うことが述べられている。ここには、先に述べた真の快楽を垣間見ることができる。しかし、一方で真の快楽のためでもなく性的快楽のためでもなく、人は妻を愛するとエラスムスは言うのである。それは美しい妻を持っていると言う自慢や誇りといった自尊心の満足と言った快楽であり、自己実現に伴う快楽 である。つまり、エラスムスにとって最も本質にある問題は、人間が神が欲する自己になるのでなく、自らの欲する自己になろうとするいわゆる自己実現を求める自己愛にあるのである。「肉を目ざす」と言う言葉は、十分にそれを示唆している 。
 この「肉を目ざす愛」は霊的な真の自己に対する愛ではない。むしろ、《この世》的な自己への愛である。それゆえに、結婚生活の中において許される在るべき性の姿であっても肉的快楽の追及もまた節制が求められるのである。それは、性における肉的快楽の追求が性の本質的目的ではないからである。では、節制が求められる夫婦の在るべき性の姿とはどのようなものであろうか。
 エラスムスは『必携』の中で「あなたが結婚において子孫に仕えず、自分の情欲に仕えるならば、私はこの(筆者注:ロトとその娘の)近親相姦よりもあなたの結婚を軽視することを躊躇したりしません」 と述べている。この言葉は、夫婦間の性行為は子孫を残す為のものであり、「産めよ・ふえよ・地に満ちよ」(創1・28)という神の言葉を実現する為のものと考えていたことを窺わせるものである。そしてそこには、中世カトリック教会が認めていた夫婦間の性行為の在り方の反映が見られる。すなわち、夫婦間の性行為は子供を作る生殖目的のためだけに許されるという考え方である。それゆえに、中世カトリック教会では、夫婦間の性行為の際に、性的快楽を感じることを禁じていた。いずれにしても、性行為において、快楽の追求が目的とされるならば、エラスムスにとってそれは性の本来在るべき姿からの逸脱である 。なぜならば、エラスムスにとって、性行為は子孫を残すという目的における中間的なものであって、それゆえに性行為が性的快楽や性的刺激の充足を目的としてなされるならば、それは《倒錯》であり決してキリスト者として倫理的な生き方ではないのである。
 しかし我々は、エラスムスが性行為において快楽の追求が目的とされることを否定するのは、単に性の本来的在り方である子孫を残すと言う目的とは関係がないという理由だけに還元してはならないであろう。先に述べたように、エラスムスは妻を愛するのは、妻の人格、特に神とキリストに向き合う敬虔な人格を愛することであるということを示している。つまり、エラスムスにおいては、結婚ということそれ自体と夫婦間の性行為は必ずしも結びついてはいないのである。

 エラスムスのおいて、結婚は夫と妻との人格的むすびつきである。この人格的結びつきが前提となって、夫婦間の性行為がある。だから、夫婦間の性行為に対して、結婚は必須の条件であるが、夫婦間の性行為は結婚における絶対的必要要件ではない。夫婦間の性的結合が無くても結婚は成立するのである、そこには、まさに妻の人格、特に神とキリストに向き合う敬虔な人格を愛することの上に結婚は成り立つのである。

 そしてそこには、“Epicureus”にある真の快楽に通じるものがある。それにも関わらず、結婚生活の中で、性における肉的快楽の追求も含めて、快楽が追求されるとするならば、結局のところそれは自己自身のために相手(伴侶)を対象化することである。それは、人格として相手に向き合っていることにはならない。再度M・ブーバーの言葉を借りるとすれば、相手を「汝」と呼ぶのではなく「それ」化しているのである。結局、性の問題において、具体的な不品行や姦淫、売春行為といった行為そのものも当然問題ではあるが、それ以上に、そのような問題のある行為を惹き起こす根源は、性に伴う性的快楽のゆえに相手を人間としてではなく、自分の欲望の充足のために対象化することにその問題の根源があるということを、エラスムスの言葉は示している。そしてそれは、とどのつまり相手を一人の人間として、すなわち人格を持った存在として向き合っているか否かの問題なのである。
 そしてここに、本小論の負うべき課題の一つである現代日本における様々な性の問題に対して教会として語る言葉の依って立つ土台を見出せるのである。 

4. エラスムスの性の問題に対する対処の具体的展開

エラスムスが、人間の性と言う営みにおいて問題にしたものは、性そのものではなく性に伴う快楽であった。そこに快楽があるからこそ、人々は性に引き寄せられ、性に対する欲求を充足しようとするのであって、問題はまさにそこにある。だからこそエラスムスは、この性の快楽に引き寄せられる「好色」を問題として挙げるのである。
 もちろん、その前提には好色は悪であり、神の創造の業にあって尊厳ある人間の存在を家畜の位まで貶める嫌悪すべきものであるという認識がある。それゆえに、性的快楽を追求し、好色に身を任せるのは「魂と身体とを同時に辱め、キリストがご自身の血を持って神聖なものとなしたもう宮を冒瀆するという悪行」 なのである。
 この認識に立ってエラスムスは好色に対処することを求めるのであるが、ここでも比較による対処を行うことを求める。その内容は、神性の交わりに予定されている者と家畜の地位にある者との比較 であったり、一瞬に終わってしまう色欲と神の裁きとの比較 であったり、性の快楽のもたらす慰めと神の裁きのもたらす苦痛との比較 、神との合一と娼婦との合一 等の比較である。このような「比較」と言う方法には、先に述べたように、理性の働きがある。そこには、「どちらが得か、どちらがより善いか」というある種の損得勘定が伴うからである。
 またエラスムスは読者に観想を求める。例えば、エラスムスは人生の儚さ、短さを人々に想起させる。エラスムスは次のように言う。

 「それだから、この人生は煙よりも過ぎ去りやすく、影よりも空虚であることを(ソロ知恵2:2-5参照)、また死が、いたるところでいかなる時にも待ち伏せして、いかに多くの網を張っているかをよく吟味してみなさい。かつてあなたの知人であった人の中から、親しい人の中から、同年輩の人の中から、あなたより若い人の中から、就中かつて恥ずべき快楽仲間だった人たちの中から、ある人たちを彼らの予期しなかった死が奪い取る場合、とくにこのことを思い浮かべるならば、少なからず役立つことでしょう」。

 人はかならず死ぬ。しかも死は決して順序だっていない。これはまぎれもない事実である。エラスムス.は、この儚い人生の限られたひとときの出来事である性的快楽と、永遠におよぶ最後の審判の厳しさを比較せよと言うのである。
 また、この死の観想とともに、好色に具体的に対処するためにエラスムス.はキリストの十字架を観想すべきことを述べる。これは好色の問題、つまりは性に伴う快楽と性欲の衝動は、アウグスティヌスがその深い実存的理解の中で受け取ったように人間の根源的な罪に関わる問題であり、そこに肉的な快感が関わるがゆえに、人間の理性の働きによる単純な損得勘定によって制することが困難なものだからである。それゆえにエラスムスは、キリストの十字架の受苦を観想することで、その苦しみの背後にあるキリストの愛を想起し、さらにそれ観想することを勧める。そのうえで、自己充足を求める肉欲的愛と人間に自らの受苦を持って我々に善行を貯えたもうキリストの愛とを比較させ、神聖な喜びと恥ずべき喜びを比較させるのである。
 エラスムスは「肉的な快楽は青年たちに同情すべきでありかつ抑制すべきもの」 と言う。肉的快楽の抑制は、それを為すことが容易ではないから同情すべきもである。だからこそエラスムスは、十字架の受苦の背後にあるキリストの愛という神のパトスを想起させ、それによって喚起されるキリストへの応答としての愛、それは霊的愛と呼ぶべきものであるが、その霊的愛が喚起されることを心の情念に訴えるのである。なぜなら、性への誘惑は、性欲と肉に属する下劣な情念とが結び付いているからであり。そこに同じ情念であっても、愛と言う高尚な情念に訴えることで、キリストの愛の模範に従って、「死をもたらす誘惑から精神を守り、最高善と最高美に向けて愛を転換すること以外の何ものも求めない」 生き方を決断的に迫り、それを求めるのである。
 このような愛の比較、交わりにおける喜びの比較は、先にも挙げた『必携』p.57にある結婚に関するエラスムス.の言葉の中にも見ることができる。すなわち

 「あなたが彼女のうちにキリストのみ姿を、例えば敬虔、控え目、節制、貞操を、認めたからこそ、とりわけ彼女を愛するときには、あなたはすでに彼女を彼女自身においてではなく、キリストにおいて愛しているのです。否、あなたは彼女においてキリストを愛しているのです 」。

とエラスムスは述べるのだが、この言葉は結婚が単に社会的不道徳にならない形での肉的快楽の追求の場ではなく、キリストにある神聖な人格との交わりの場であり、それこそが結婚の本質であることを示している。それは結局のところ、結婚と言う場であっても、決して相手を性欲の衝動に対する自己充足を求める肉欲的愛によって相手を対象化してはならないと言うことなのである。
 いずれにしても、我々は《この世》からの性に関わる誘惑に誘われるとき、その態度は好色となって顕われる。そして、ひとたび好色の罠に捕らわれると、次々と悪徳へ連れ去られるのである。それゆえにエラスムスは、その現状をしっかりと認識し、そうならないように、人間が神に与えられている本来的尊厳性を心に留め、我々を愛したもうキリストの愛とその背後にある神のパトスを見つめて、終末的勝利の期待の中で生きるように勧めるのである。もちろん、そこには誘惑に陥りやすい人間の弱さが見据えられている。

5.結語

 我々はエラスムスから、人間の性の問題において、自らの性的欲望を充足するため相手を対象化しないと言うことを学んだ。それは、本来は人間の性を性行為との関連で欲望の対象化するのではなく、人格の中にあるものとして捉えるべきものであると言うことを意味している 。
 現代の日本は、中世キリスト教社会のように性行為を嫌悪し、単なる生殖行為として消極的意義を認めたのとは違い、逆に性の在り方全体を積極的に謳歌する風潮にある。そのような中、我々は性の認識および性行為に関する問題であっても、それが人間の人格に関わる問題あるならば、エラスムスが結婚を夫婦の人格的結びつきの中で考えたように、性的結合の善的にある人格的結びつきという視点から捉えるべきであろう。そして、確かに性の問題の根本にある自己の性の認識は、自らの性を認識する認識主体の人格の中にある問題である。従って、性認識の問題は解剖学的な問題ではなく人格的問題なのである。こうして、性の問題が人格を構成する一部であると考えるとき、性同一性障害や同性愛といった問題も、解剖学的男女の認識とは異なった視点で捉えられることになる。しかし、これらの問題について、保守的な教会は聖書にそう書かれているという理由から、同性愛は罪であると言うような単純な図式で捉えてきた。それに対し、性同一性障害の問題等が明らかにされてきた昨今、従来の理解ではない新しい理解が求められなければならないのは、至極当然のことであろう。また聖書の時代には、性同一性障害と言ったものは認識されていなかったのであるから、新しい理解のもとで聖書が読み直されるということは、自然の成り行きである 。そこに、認識主体たる人間が、自らの人格を構成する要素として自己の性を認識するとすればなおさらである。
 また性が人格を構成する一部であるとき、性的交わりはもはや生殖のための行為としてではなく、それは人格的な交わりが第一義的な意味となる 。そして、性が人格の問題であり性行為が人格的交わりであるならば、性の商品化は本来的に否定される。性の商品化は、性が人間の機能や能力の一部として考えられるからこそ可能なのであって、それが人格の一部に存在するものであるならば、性の売買は本来的にできない。なぜならば人格の売買は人権の問題だからである。
 エラスムスは、性行為を人間の肉、すなわち獣性の部分で見た。だから性は生殖の手段でしかなく、性欲は肉的快楽への渇望であった。しかし、本来のエラスムスの人間理解に基づいて、人は可視的なものから不可視的なものを求めて行くものであるとするならば、性における快楽は、天におけるキリストと人との交わりの可視的現れであり、人格的交わりの形成である。事実、聖書はキリストとキリスト者の群れである教会との関係を婚姻関係に譬えて表現する(エペ5:22-28)。それゆえに人間の婚姻における性の交わりの本質は、キリストと人間の間にある愛の交わりという深い人格的交わりなのである。従ってキリスト者にとって、性への渇望は、言うなれば愛と言う深い人格的交わりへの渇望であり、キリストと教会の関係に例えられる結婚という聖なる結び付きによって与えられる《夫-妻》の構造を持つ夫婦という排他的人格的交わりなのである。現代の社会的風潮の中で、教会と牧師は、このような自覚のもとに性の問題全体を考える必要があるであろう。

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