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我が師「CHELSEA」について

ども!CazU-23です。半生をギターに捧げた人生を更新し続けているスペースエイジなギタリストです。 

私のキャリアは15才の頃。当時ストリートで最も際立ち特異性を放っていたHARDCORE PUNKからスタートします。

彼との出会いはかなり早かった。と、いうよりギターサウンドが先に彼と出会っていました。
私が、キャリアをスタートさせた"BLAZE"というバンドでデビュー直後、新宿OZで"CONQUEST"が企画していたイベントに参加しました。私は東京都内の神奈川、町田の出身でしたので、神奈川HCの頂点"MAD CONFLUX"の影響を強く受けていました。
ライブ後、CONQUESTのギターが「君のギターはチェルシーみたいだね」と言いました。その時に私はチェルシーの存在を知ります。

その後、私は"MADCONFLUX"後期のプロデュースがチェルシーであることを知り、ちょっと苦手意識のあった(当時の神奈川HC特有の感情です)東京HCに興味を持ち始めました。

そしてDEATH SIDEに出会うことになりました。
 E.N.Tの来日だったか、DISORDERの来日だったか忘れましたが、当時はISHIYA君のモヒカンの凄さに圧倒されてました。
あと、実際に死ぬほど観ていたのは、「COMPLETE DEATH LIVE」ビデオです。ライブだとわかりずらかったギターサウンドの際立ちがビデオでは鮮明に理解できました。

そんな頃"BLAZE"はようやく20000Vの企画などに呼ばれ始め、東京でのGIGが増えてきました。

神奈川では、"PILE DRIVER"の勢いが物凄いことになっていて、それを中心に東京HCとの交流が更に盛んになってました。そんな流れのなか、ある日20000VでのGIGが終わると、眼鏡、柄シャツ、健康サンダル、髪ボサボサな男が楽屋に来て、「お前らが"BLAZE"か、
おい!ギターのやつ。お前は今日から俺の弟子な!よろしく」
そんな感じで、気さくに話しかけて来てくれたのがよく見ると(だいぶビデオとは違う風貌)チェルシーでした。

ともかく、その日から私は弟子になったみたいなので、後日、家に遊びに行きました。

彼は、私に沢山のレコードを聴かせてくれました。
そして心を開いた当時17才の私は、まだその頃誰にも話せていなかった悲惨な家庭環境の話しをしました。

すると、彼は私の話しを聞き終わると、同棲していた当時の彼女と大爆笑しました。そして「お前、ほんとに悲惨だな!面白い!色々いるけどお前みたいに悲惨なやつはじめて聞いたよ!でもよかったなお前には音楽がある。もう大丈夫だ。」
そんな感じで、私を受け入れてくれました。
当時の私には、私の不遇な環境が受ける?面白い?
と、不思議な気持ちになりました。

それから、私はすっかり懐いてしまい、度々彼(正確には彼女さん)の家に訪れては沢山のレコードを聴いたり、散歩したり。
そして、サイケデリクスについての研究家でもあった彼は、宇宙についての視野が早くから達観していました。
おかげで私は60〜70年代のレコードや文献やVTR、
そして彼との対話の中で、独自の宇宙観というものを18才にして確立することができました。
今となれば感謝しかありません。

この頃に「カズは今後どんな音楽がやりたいか?」問われた事があります。
当時、アンビエントという言葉を知らずに、
私は、ロバートフィリップとブライアンイーノの共作アルバム「No Pussyfooting」を例にあげ、
「混沌と静けさが同居している永遠みたいな音楽」と伝えたところ「なんだそりゃ」と言われました。
そして、「もっと音楽を形容的に考えろ。様式美は大事なんだぞ」と注意されました。

余談ですが、その20年後にはソロ活動をはじめて、
名古屋KALAKUTA DISCOにて、DJ YOGURTさんとセッションする機会がありました。
その際、YOGURTさんがかけてくれた一曲がこの「No Pussyfooting」のA面でした。
演奏後に、私の思い出の曲だと伝えるとYOGURTさんは、「だってこれカズ君ぽいもん。話しもらった時からこれだと思ってた。」との趣意の言葉をもらいました。根っこは変わらないもんですね。

話しを戻します。
彼の人生は混沌に飲み込まれている時期もありましたが、この頃の宇宙を心眼で見つめているような、
凛々しく知性的な猫のような尊い表情を忘れることはありません。

彼にとっても、12才年下(彼はその頃30才)の私に、宇宙観が上手く伝えれた事を喜んでいたり、嫉妬したりしていました。

ちなみに、彼が亡くなる前(時系列的にははかなり飛びますが)の最後の会話も、
「お前は、俺のおかげで宇宙の知恵とギターがあるんだから、早く焼肉おごれよ!」
てな感じでした。
私は「どうせ行くなら叙々苑連れてくわ。だからもうちょい待って」と財布の中身を確認していました。
こんなことなら、その辺の焼き肉でいいから、その日に行けばよかったと。その後何度も思いました。

私は、20代に入り、"STICKs IN THROAT"というバンドに参加します。このグループのメンバーはHCの世界の中でも特に彼の信頼が厚い仲間達でしたので、当然関わりが密接になりました。彼はその頃"PAINT BOX"を結成していました。

私は、この頃は音楽的に自立を図っていて、師に対してかなりツンデレな態度をしていました。
心境としては、俺は俺のギターサウンドを確立して、オリジナルなものを打ち立てたい。いつまでも続くチェルシーの弟子扱いから抜け出したい。そんな気持ちがいっぱいでした。

私にはもう一人、尊敬するギタリストがいました。
言わずと知れたBASTARD/JUDGEMENT のギタリスト兼コンポーザー"ZIGYAKU"です。
世界中のJAPANESE HARDCORE フリークには申し訳ないですが、私はこの頃、チェルシーの家とZIGYAKUの家を交互に訪れ、ギター片手朝まで過ごすような贅沢過ぎる時間を経験していました。

私は、当時はより極端な人間でしたので、ギタリストは"この二人しかいない!"くらいに思っていましたし、両極端な彼らのギターに対する姿勢を学ぶことは、その後の人生に大きく作用しています。

私はこの二人に少なからず可愛がってもらい、STICKs in THROATとして、PAINTBOXや JUDGEMENTとのツアーも行っていたので、どうにか彼らと対等に渡りあえるギターサウンドを確立したかった。

そして、彼ら二人が決して手を出さなかった、空間系を多数導入したエフェクトサウンドに着手していきました。
世界の音楽の動向など関係なく(DEAD KENNEDYSと、Rich kids on LSDのディレイギターの影響はありました)
彼ら二人と違うスタイルを見つける。それが一番の目的でした。

その後多様化するJAPANESE HCにおける、エフェクトサウンドの先駆けのひとつになった自負はあります。
その頃は周りでは誰もやっていなかっただけですが。マニアックな世界の話しですいません。

そんなこんなで、なんとかオリジナリティを保ち、カリスマギタリスト達に理解されながらすくすくと育ってきたある日、PAINTBOXとのツアー、確か群馬のリハ終わりで、二人で飲みにいきました。

彼は珍しく、真面目な表情で。「なあ、カズ。お前はさ、今後どうしていきたい?このままさハードコアの世界で、ライブハウスで皆と一緒に年とっていきたい?
本当はさ、今のギター(ディレイ、フェイザー&ファズ)サウンドを武器に、ホールとか、他の音楽シーンでさ活躍してみたいんじゃないの?」
とあの、宇宙を見つめるような遠い目で彼は問いかけた。

私は、ああこの人にはお見通しなんだな。と誰にも言えていない気持ちを素直に認めた。

「正直、ディレイサウンドはライブハウスより、天井の高いホールサウンド向きだと思う。思いっきりデカいホールや大自然の空間に共鳴するような音楽やってみたい」
こんな感じで伝えると彼は、
「よし!よく言った。そういう正直なところ好きだぜ!さすが弟子。
じゃあさ、約束だぜ。絶対、誰に裏切りものだと言われても、その時がきたらお前は旅立て!
それを実行して俺の遺伝子をまだ知らない世界に拡張するのがお前の役目な。
俺もさ、本当はそういう事もしてみたいけどさ、
俺はここ(ハードコアやPAINTBOXの意)で、仲間とやっていくよ、死ぬまで。それでいいと思ってる。
だから、お前はやれよな!そもそもお前この世界(HC界隈の意)でも ちょっと浮いてるし。ちょうどいいんだよ。
よし!話しは終わり。ミキオたち呼んで飲もうぜ!」

と言って、その会合は終わりました。
この件については、ものすごく反芻しているので、ほぼ誤記はないと思います。

私はこのシーンを忘れることができない。
そして、私の現在のタートルアイランドでの活動やソロワークのアンビエントドローンサウンドの活動ともシンクロしていると思っています。

彼は、その後数年して本当に亡くなってしまい、
ジャパニーズハードコアのギターサウンドを完成させた始祖として讃えられているのですから、あの瞬間のお互いの決意の中に今でも僕らは生きているともいえます。

彼の生き様は、今では沢山の方々が様々なエピソードを語っていると思います。
なんせ、人たらしというか、どこでも出会う人を愛し、長所を讃え、短所を笑って吹き飛ばすような優しさを持っていたので、あちらこちらに親友、旧友だらけでしたからね。

弟子にしても、私に限らず、何人ものギタリストが弟子にいますし、それぞれの関係性で、それぞれの影響と教えのもとにあるので、内容はまたそれぞれ違うのだと思います。

因みに私は、ギターについては全く教わったりはしていません。
けど、宇宙観だったり、感性だったりが、そもそも似てるし、共有しやすかったので、吸収も沢山出来たし、当然アウトプットするものが類似する部分もある。それが私達の共通点でした。

今でも、私がここ一番の舞台に立っていると、
「カズ、お前はいいよな。生きてるし。
今日、ちょっとだけギター弾かしてくれよ。少し身体借りるぜ!」
と言ってソロプレイを彼に譲ったりするような感覚があるのは、私の妄信だとは思いますが。

まあ、今回は4月末に発売される、PAINTBOXのCD再発に向けて、色々と思うこともあり、こんな話しを記してみました。

PAINTBOXも、これで本当に完結かな。
関係者の皆様お疲れ様でした。

HG-factの佐藤君。PAINTBOXのMUNE。
よい機会をありがとう。

そして、チェルシー。いつもありがとう。


おしまい。


CazU-23





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