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竜とそばかすの姫の感想(ネタバレ)

最近夜にジョギングを始めたせいで晩御飯に酒を飲めなくなって、まあいい機会だから緩く禁酒しようかと思ったんだけど、習慣というのは悲しいくらい脳にも身体にも染み付いてしまうもので、コンビニの氷の入ったカップに檸檬堂のカミソリレモン500ミリ缶をダバダバ注いで近所の唐揚げグランプリをとってない唐揚げ専門店の唐揚げをカミソリレモンで流し込む、みたいなのが俺にとっての夕食だったから、急に檸檬堂を失ったら晩御飯がひどく味気なく感じて、禁煙者が禁煙パイポを咥えるみたいな激変緩和の措置としてなるべくカミソリレモンと似た喉越しを再現してやろうとフレバー付きの炭酸水をロックアイスのカップに注いで飲んでカーッとか言ってはまあまあ機嫌良くやってる。

そんなんやってるもんだから、最近アマプラで配信されているカイジファイナルゲームの藤原竜也の「キンキンに冷えてやがる…!」が無性に聞きたくなって昨晩久々に見てみた。やはり藤原竜也の「キンキンに冷えてやがる…!」が見たいという思いだけで映画館に見に行った2年前とは違って、手元のタブレットで見るカイジファイナルゲームはまあまあしんどく、「あれは劇場だったから2時間ちゃんと最後まで見ていられたんだな」とか思ってしまったけれど、やはりラストの藤原竜也の「キンキンに冷えてやがる…!」の輝きは少しも色褪せず、あのシーンだけで価値のある映画なので良かった。

今日は竜とそばかすの姫を観てきた。細田作品はサマーウォーズとおおかみと未来のミライに続いて四作目。先に断っておくとネタバレありだし、俺には全然合わなかった。以下感想。

・まず「この監督は大衆というものを全員馬鹿だと思ってるのか?」と思った。特にネットの住人。監督が嫌いだから馬鹿に描いてるんだろうけど。

・主役の鈴に対して、仮想空間とはいえ勝手に人の家に入ってきて自分自身はアバターとハンドルネームで素性を隠したまま、家主に向かって「あなたは誰?」じゃねーよ。お前こそ誰だよ不法侵入野郎が、と思った。

・と思ったらリアルの竜の信用を得るために素顔を晒して歌うってシーンが出てきてここは良かった。けれどメガネに「素顔を晒したら今まで積み上げてきたものが台無しになる」みたいなこと喚かせていて、何その偏見?元々全員アバターな世界の中で歌だけでのし上がったって話じゃねえのかよ素顔を晒したらその評価が覆るとかどんだけ外見至上主義な世界観なんだよと思った。というかこの仮想世界には顔出しYouTuberみたいな存在はいないのかよ。

・虐待されてる兄弟に電話つながってみんなで問題が解決したみたいにヤッターとかやってんじゃねえ、鈴もなに兄弟放置して後ろ振り返って抱きついてんだ。一刻も早く画面の向こうの子供達を救うんじゃねえのか。と思ってたら案の定、住所を聞き出す前に兄弟が父親に見つかっていて、揃いも揃って何してんだこいつらと思った。

・ラストシーンの手前、「父親と向き合う決心をした主人公」と「虐待する父親と戦う決意を固めた竜」を対比させてんじゃねえ。全然レベルというか次元が違うから。後者はちゃんと大人が守るべきだろ、なんだそのメッセージは。というかそもそも一部始終を見ていた大人達(善良な鈴の理解者として描かれている)が鈴を竜の住むところに一人で行かせたのも意味不明だし鈴の父親に言わなかったのも意味不明。なぜまともな大人が出てこないのか。もしかして描けないのか。マジで何を伝えたいのか、この監督はと思った。

・人物の影を描かないイメージの監督で、それは本作も同じでやっぱなんかの拘りなんかなと思って見てたけど仮想空間での鈴=ベルには陰影がついてて、鈴がリアルの世界よりも自由に歌える仮想空間に現実を感じてるっていう演出なんかなと思ってたけど、最後の方はベルじゃない鈴にも陰影がついていて(ここ勘違いかもしれないけど)、ここから鈴はちゃんと現実を生きるんですって演出っぽくてそれは良かったと思う。

・映像は本当に綺麗。原作脚本監督を他の人がやれば素晴らしい作品になりそう。

見終わってガーッと出てきたのはこんな感じ。

もちろんいいシーンもあって、リアルの姿を晒して歌うシーンとか良かったシーンは本当に良かったけど、それならカイジファイナルゲームだって藤原竜也の「キンキンに冷えてやがる…!」があるわけだしシーンでのカタルシスでは藤原竜也の「キンキンに冷えてやがる…!」が上回っていた。なので皆カイジファイナルゲームを観ればいいと思う。




20210723追記:

ラスト付近の訳わかんない展開は、かつて名も知らぬ子供を助けに濁流に身を投じた母と同じ行動を鈴にもさせることで母の気持ちを理解させたかった、そのためには鈴に一人で行かせる物語上の必要性があった、という感想を目にしてなるほどと思った。

でもそれにしちゃ鈴は竜と心の交流をし過ぎて心理的な距離感で“見知らぬ人間”を超えた関係性になってしまっているし、竜と通話するために鈴が素顔で歌うことが必要だったのはあくまで「鈴がベルと同一人物であること」を竜に理解させるためで、それ以前に一定の信頼関係は既に築かれていたわけで。というかそもそも過剰な美女と野獣オマージュがズレていて、鈴と竜が恋愛じゃなくて親子の愛情みたいなやつならズレてるオマージュなんか要らなくね?って思う。

たぶん監督の中に仮想世界とか美女と野獣とか歌姫とか親子とか、なんか散りばめたい要素が先にあって、映画の中で「絶対譲れない必要なシーン」を作ってその間を埋めるようにして話が組み立てられているから発生してしまう綻びの皺寄せを人物の行動原理が破綻している無理矢理なシーンで繋いでいて、それが違和感という形で作品全体に漏れ出てるのかなって印象がある。竜の正体探しのくだりは濁流のエピソードと重ねるなら幼馴染を竜にすることができなくなって、美女と野獣のオマージュの不発や物語上の破綻を丸ごとミスリードとして機能させるために無理矢理最後に作られた展開のような気がしてきた。

結論(20230508追記)
繰り返しになるが本当にいいシーンもあって、リアルの姿を晒して歌うシーンとか良かったシーンは本当に良かったけど、それならカイジファイナルゲームだって藤原竜也の「キンキンに冷えてやがる…!」があるわけだしシーンでのカタルシスでは藤原竜也の「キンキンに冷えてやがる…!」が上回っていた。なので皆カイジファイナルゲームを観ればいいと思う。


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