飛び降り禁止

2008年11月3日



前回の「ノープランで行こう」からの続きです。


拝観料を前納して、本堂へ向かいます。
大人300円だから、一日で5千人と仮定すると150万円、1万人だと300万円、一ヶ月だと、へえなるほど、それが一年間だったら? などとは計算しません。
(ちょっと気が遠くなりましたけど…)
まあ、世界各地にはボッタクリ世界遺産もあるようなので、良心的な価格設定でしょう。

お馴染みの清水の舞台です。
ここまで来ると、かなり登ったことがわかります。
だから酸素も薄いんでしょうね。
皆さんは平気なようですが、少し息苦しいのは、高山病の初期症状でしょうか。
この高さ、下半身もキュンとなって落ち着きません。

舞台の広さは100畳分くらいかな。
少し外側に傾斜しているのは排水対策だと思うんですけど、高さだけではなくて、おじさんにはこの傾きも恐怖なんですね。
ここから飛び降りるなんて、間違っても考えてはいけません。

ところが、昔は飛び降りが多かったようなんです。
「清水寺成就院日記」には、江戸時代から148年分の記録が残されていまして、「舞台より飛び落ちる」という記載が数多くあるそうです。
「飛び降りる」じゃなくて「飛び落ちる」です。

元禄九年八月九日
権七と申す者十七才
本屋市兵衛家来権七と申すもの、十七才になり候、
立願の儀これあるにつき、本堂より飛び落ち候へとも、
達者におり申すゆえ、主人ならびに親類ども、
連判の一札いたさせ、相渡し申し候。



弱冠17歳の権七クンは、ずいぶん思い切ったことをしちゃいました。
「願い事があって飛び降りたけど、本人はケガもなくてダイジョブだって言ってる。
だけど主人や親戚のおじさんおばさんたちには監督義務があるんだから、始末書を書かせた。
もうゼッタイにバカな真似はさせんなよ、ってビシッと言ってやった」
ということです。
この元禄九年というのは、二年前には芭蕉が亡くなっていて、五年後には「殿中でござる」が起きるその狭間なんですね。
将軍は、人間よりもわんこや動物たちが大好きなアノ人です。


元文四年六月十日
夜分、本堂舞台より二十ばかりの男飛び候よし、
無事にており申し候を、門前よりかごに乗せて送り候よし。



元文といえば、将軍は暴れん坊のアノ人。
二十歳の男を駕籠に乗せたということは、足の骨折くらいはしてたんじゃないかと想像します。
そんでもって、飛んじゃうのは、実は男性だけじゃないんですね。


天保十四年閏九月十四日
舞台飛び落ち候もの、これ有るよし、
駆け付け見届け候ところ、高辻通り新町西え入る町、
堺屋太兵衛と申す者方の、下女いさ十八才に罷りなり候よし、
右、太兵衛病気につき、下女いさ心願込め日参の上、
今日、飛び落ち申し候よし



お年頃のいさちゃんは、奉公先のダンナの病気が治りますようにと毎日お参りをして、たぶん満願の日に「飛び落ち」たんでしょう。
舞台から落ちても必ず助かる、ということが、観音様が見守ってくれているか否かの証明基準だったんだろうと推測します。
寺側は事情を訊いたようだから死ぬことはなかったんでしょうが、ケガの程度はわかりません。
それにしても、18歳という年齢で主人の病気平癒のために日参し、なお且つ命を賭けるという女の子の行動は、現代ではちょっと考えられないことです。
奉公先の主人は、いさちゃんにとって親同然の存在だったのでしょう。
いさちゃんも無事で、太兵衛さんの病気も治ったと思いたいですね。

釘を使わない舞台の構造がわかります。
立柱はけやき、横木はひのき。
画像ではわかりませんが、よく見ると組み合わせ部分に隙間があります。
この隙間が免震の役割りをしているのでしょう。
立柱から突き出した横木には、雨による腐食を防ぐ細工が施されています。

子安塔が見えます。
この辺りの地理には疎いのですが、奥に見える姿の良い山は豊国廟でしょうか。
(豊国廟の西側には京都女子大があるんですねえ、理由は明かせないけど、その辺りの地理だけはピンポイントで詳しいのです、妻にはナイショです)
だとしたら、その手前の谷は、東海道である国道1号線が走っているはずです。
そういえば、信長が将軍足利義昭を奉じて上洛したのも東海道からでした。
室町幕府の最期、そして天下布武の始まりといっていいでしょう。
信長は義昭をここ清水寺に預け、自らは東寺に向かっています。
せっかく来たのに、舞台で、
「人生五十年~、下天の内を比ぶればぁ~、夢幻の如くな~りぃ~♪」
などと舞い謡うヒマなんてなかったんでしょうね。

「飛び落ち」は148年間で234件にものぼったそうです。
そのほとんどが、願を掛けて(立願)落ちた若者たちだったようです。
公家や武士ではなく、商家の奉公人や職人たちが清水寺観音信仰の中心だったのでしょうか。
封建時代のこの信仰形態は、庶民の切実な願いを反映したものだったに違いありません。
庶民に観音信仰や巡礼が爆発的に広まったのは室町期からですが、厳しい身分制度の中で、庶民が最後に願いを託したのが、この清水寺の舞台だったわけです。
すぐ後ろから観音様が見守っていてくれる、だから絶対に願いは叶う。
若者たちは安心して「飛び落ち」たんでしょう。

本堂は江戸時代の再建です。
舞台、礼堂、正堂があり、須弥壇の上には観音菩薩を中心として二十八部衆がいます。
普段、中央の厨子には秘仏の十一面千手観音が納められています。
その前には秘仏を模した前立仏。
要するにご本尊のレプリカですね。
とはいっても、信仰の対象になる立派な観音様です。
時間が無いので、秘仏とのご対面は割愛しちゃいました。
信仰心が薄いのでしょうか。

明治五年、新政府によって「飛び落ち」は禁止されました。
京都府も「布令書」を出して、ダメですよと明文化しています。
ということは、明治に入ってもまだ「飛び落ち」が行われていたことがわかります。
寺側には取り締まりを厳重にすることが求められ、本堂舞台の外周には竹矢来が張り巡らされたそうです。
舞台から飛び降りるより、こうして香煙をいただく方が無難です。

怪我の功名なんてあるわけないし、病気ならお医者さんへ行きましょう。
悩みごとなら、おじさんが聞いてあげますから、無謀なことはやめましょうね。
ただ聞くだけですよ。
いい歳して、他人の人生に口出し、況してやアドバイスなどしません。
まだまだ人間が未熟とわかっているからです。汗


次回「常盤御前 其の壱」へ続きます。

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