ターヘル・アナトミア

2007年6月19日。


江戸時代の大火や災害で亡くなった多くの人を弔うために建立されたのが両国回向院。
その分院が荒川区南千住にあります。
こちらは小塚原の処刑場に建てられ、ご存知、杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らが処刑された罪人の腑分けを見て「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り掛かり、「解体新書」を著わすこととなった特別な場所。
日本の医学の原点となったこのお寺に、医師会が杉田らを顕彰するためにレリーフを設置しています。

解体新書を出版した際のデザインのようです。

レリーフの横には日本医学会や医師会の手によって以下の文章が彫られていました。

蘭学を生んだ解体の記念に

一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。
それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解体書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。


どことなくぎこちない文章はご愛敬ですが、伝えたいことはわかりました。

寺の墓所には、安政の大獄により江戸伝馬町で刑死し、小塚原に埋葬された吉田松陰の墓があります。
しかし松陰の遺骨は松陰神社に改葬されているはずで、墓の体は成していますが、現在は供養のための石碑といった方が正確でしょう。

うろ覚えですが、二十一回猛士の「二十一」とは、生家「杉」家の杉の字を分解すると、十、八、三になり、二十一はその合計だと何かの本で読んだ記憶があります。
また、「二十一回」と読もうとすると、吉田姓となってから今度は「吉田」の文字を分解し、十と一と口、田は十と口、十と十と一で二十一、口をふたつ重ねて「回」としたようです。
この「何でも分解してやろう」の精神が、幕末を生きる多くの人たちを感化させたのでしょうか。
猛士とは勇ましさを示す表現で、松陰自身、「二十一回猛士」と名乗っていたようです。

隣には山本周五郎の「日日平安」でも知られる橋本左内の墓。
こちらはコンクリートの覆屋で手厚く保護されていています。
すぐ脇には儒学者の頼山陽の三男、頼三樹三郎の墓。
松陰とは違い、橋本と頼はこの地で処刑されています。

松陰の墓の前には、万延元年、桜田門外で井伊直弼を襲撃した水戸藩士たちの墓も並んでいます。
藩士たちもそれぞれ故郷の菩提寺へ改葬されているはずで、墓石は松陰同様に供養碑と捉えるべきなのでしょう。
吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎に斬首を命じた井伊と、その井伊を暗殺した水戸藩士が共に眠る墓所。
因縁浅からぬ縁という他ありません。
松陰の思想には共感できない部分もあるのですが、二十九歳三ヶ月の若い命を刑場の露と散らした幕末の思想家に哀悼の心を込めて合掌しました。

幕藩体制を揺るがす思想によって、徳川幕府転覆を目論む超一級の危険分子と断罪された訳ですが、現代の常識からすると、斬首ばかりが繰り返される「暗黒時代」と言わざるを得ません。
しかしこの思想の延長線上に明治政府の政策がいくつも盛り込まれているのです。

また毒婦として悪名高い高橋お伝や、鼠小僧次郎吉の墓もこの寺にあります。
もっとも鼠小僧の場合は両国回向院に大きな墓があり、どちらが真正なのかはわかりません。
ここ小塚原で処刑されたことは間違いないので、こちらの墓で眠っていると考えるのが自然でしょうが、城東地区の多くの寺で関東大震災や戦災のために移転したり、墓域の区画を縮小したりした例も多々あるので、今となっては真実は闇の彼方です。
例えば森鴎外の墓は桜餅で有名な向島の長命寺の隣、黄檗宗弘福寺にあったのですが、震災を機に墓域が削られ、東京郊外、三鷹の禅林寺に移されています。

さて、数日前に円通寺を訪ねた帰りに重大なことを思い出したと記しましたが、回向院に来た今回の目的こそ、このお地蔵様なのです。
「吉展ちゃん事件」をご存知でしょうか。
事件の詳細はWikipediaをご覧いただくとして、どうしてもこのお地蔵様に手を合わせたかったのです。
Wikipediaではボカシていますが、1963年3月の事件発生から2年半近く、吉展ちゃんの遺体は円通寺の墓地に隠されたままだったのです。
あまりにもセンセーショナルな事件でした。
国民すべてが心配し、一日も早い生還を待ち望んだ事件でした。
その間には東京五輪があり、国中が日本人選手の活躍に歓喜していた時期でもありました。
吉展ちゃんはバレーボールの東洋の魔女や、マラソンの円谷選手や、体操の遠藤選手や、重量挙げの三宅選手の活躍なども知らず、そして東海道新幹線開通も知らず、ひっそりと円通寺の墓地で発見される日を待ち続けていたのです。

円通寺の名を思い出さなければ多分そのままでした。
こうして訪ねることもありませんでした。
南千住回向院は吉展ちゃんのご両親Mさんの菩提寺です。
吉展ちゃんは今、このお寺で眠っているのです。
お墓を探すなどの非常識で失礼なことはせず、墓域に向かって合掌し、お地蔵様に手を合わせました。
これで私の気が済むなどという問題ではないけれど、円通寺の名を思い出した以上は無視できませんでした。

今はJR常磐線の線路で分断されていますが、回向院から歩いてすぐの場所に小塚原の処刑場跡があります。
(回向院の境内に、「刑場跡」という小さな広場がありますが、どちらが実際の刑場かは不明でした)
延命寺とありますが、もともとは回向院の寺域です。
江戸時代には二十万人以上の人がこの場所で処刑されました。
現在の死刑制度とは雲泥の差です。
仮に鳩山法務大臣が1年365日、毎日欠かさず100枚の死刑執行命令書にサインをし続けても2,000日、5年半近くの月日が必要です。
二十万人という数字の重さと大きさを実感します。

鈴ケ森の刑場と合わせると、いったいどれだけの人が命を断たれたかと考え、気が遠くなります。

刑死者を弔う首切地蔵。
よく見ると、いくつかのパーツを積み重ねて組み上げた地蔵尊であることが判ります。

お地蔵様の横をJR常磐線が通ります。
浄土宗のお寺のはずですが、石柱にはなぜか日蓮宗のお題目の髭文字が。
この場で処刑された人たちも様々。
きっと宗派を超えて供養されている証しなのでしょう。

左を向けばJR貨物のコンテナが通貨する線路と、上を走る地下鉄日比谷線のガード。
本当に狭い変形の区画です。
日比谷線の工事の時、数百もの頭蓋骨が発掘されました。
まだ辺りを掘れば、おびただしい数の人骨がどこからでも出るといわれています。

延命寺の横から陸橋へ上ると、JR貨物の隅田川貨物駅が一望できます。

陸橋から200メートルほど通称骨(こつ)通りを南へ歩くと、東西に延びる明治通りに出ます。
この交差点の名は泪橋。
小塚原へ向かう罪人が、もう間近に見える刑場を前に涙を流したと伝えられる場所です。

引き返す途中のビジネスホテル。
なぜこんなに安いのかと考えれば、答えはすぐに出ました。
泪橋から先は、いわゆる山谷地区です。

再び陸橋へ。
倉庫のような南千住駅を出た地下鉄日比谷線が、都心へ向けて轟音をまき散らしながら通り過ぎます。

決して気持ちの晴れることのない史跡巡りを終え、JR常磐線で上野駅に向かいます。
南千住の次の駅は三河島駅。
こちらではかつて160人の犠牲者を出した三河島事故がありました。
その痕跡を探すことはもう難しいようですが、駅近くのお寺に供養碑があるようです。
もう長い月日が経ちました。
まだ私が幼い頃、朝起きると両親が、
『昨夜は一晩中、サイレンの音が聞こえ続けていた』
と言っていたのを思い出します。
実家から三河島まではかなりの距離があり、普通なら聞こえるはずのないサイレンですが、おそらく都内中の救急車が一斉に現場へ、そして病院へ向けて走り回っていたのでしょう。
吉展ちゃん事件の一年前のことですが、現在も一人だけ身元不明の犠牲者がいると知りました。
その事実で、水上勉の「飢餓海峡」を連想してしまったのは不謹慎でした。

南千住周辺にはまだ訪ねたい場所がいくつかあり、日を改めて再訪することにしましょう。

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