飛び落ち拾遺

2008年11月3日



「常盤御前」で寄り道しましたが「飛び降り禁止」からの続きです。

火災、焼打ち、戦乱の兵火。
その都度、清水寺は焼失と再建を繰り返してきた。
応仁の乱で焼け落ちたその五年後には、本堂を落慶させている。
観音信仰の底力だろう。

寺は十数年前に京都府の北山に土地を購入し、そこにケヤキの苗木を1,000本植えた。
未来へ向けての取り組みだ。
寺は柱の寿命を調べ、取り換え時期を400年後と推定した。
舞台だけでなく、本堂全体を支える柱の数は172本にものぼる。
清水寺の命を繋ぐ計画である。

また「清水寺成就院日記」から抜粋してみよう。


年頃廿才ばかりの女、
本堂舞台より飛び候ところを、
様子相尋ねれば、笹屋平兵衛と申す方に奉公いたし候さんと申す者にてこれ有り候よし、
内々ひま請けたきむね度々親どもへ申し候へども、
親承引つかまつららず候ゆえ、
首尾よくひま出申し候ように、
立願相立て飛び申すべく覚悟。



前回に組み入れなかったのは、その内容からだった。
読み方にもよるが、単なるワガママに思えたからだ。
だが江戸時代に「飛び落ち」た本人の心情は、平成の我々に理解できるはずもなく、ここは謙虚に考え直してみた。
神や仏にすがる想いはいつの時代も変わらない。
たとえ文明や文化が発達してもだ。
しかし、「飛び落ち」たからには、それなりの時代の信仰と考えがあったのだろう。
ところが、「飛び落ち」が庶民の祈りの最終手段であるにしても、さすがにお上も怒った。


舞台より飛び落ちて諸願成就を願うのは、頑固愚痴の輩の妄言である。


「頑固愚痴の輩」
これは現代では、乱立するカルト宗教にこそ当てはまる。

洛中洛外図の中の清水寺と五条橋の賑わいである。
室町期のものだが、普遍の信仰は心地良い。
最近ではそれに反し、教祖と自称する守銭奴の輩や、その取り巻きの「わしもゼニ欲しい」幹部どもが結託して多額のお布施を強要したり、サリン作ったり、心理的不安を煽って人間の弱さにつけ込んで印鑑や壺や絵画を売り付けたり、最近はあまり聞かなくなったけど、ティッシュ配りみたいに駅前で無差別に花を押し付け、何気なく受け取ったら金銭を要求されたり、珍しくもない「珍味」を押し売り訪問販売したり、それら実動部隊をネズミ講まがいの組織にしてるのは、カルト宗教特有のものだ。
まあ、近づかない方が賢明である。
(ところがこっちがその気でも、あっちから猫なで声でやって来るから困ってしまうのです。新興宗教とかイデオロギーとか、「奇蹟を見せてあげる」なんてのは大嫌いなので、そっち方面の人、おじさんに近づかないでね。特に選挙前なんかは…。お願いします)
キリが無いので洛中洛外図に戻るけど、舞台が西を向いているのはご愛敬か。

関西や京都の「食」といえば、きつねうどんや湯豆腐は欠かせない。
でもねえ、こんな往来の激しい境内の隅で食べたくはないなあ、食べてる人には申し訳ないけど。
埃っぽいし、ジロジロ見られてるし、実際わしら夫婦も見てるし…。

湯豆腐でいま思い出したんだけど、二十歳の頃、浄土真宗の門徒である婆ちゃんを連れて京都にやって来た。
東西の本願寺にお参りし、ここ清水寺も訪れた。
「せっかく京都へ来たんだから、京都らしい食事をしたい」
婆ちゃんのリクエストに応え、門前の「順正」で昼食に湯豆腐を食べた。
ところが婆ちゃんはお気に召さなかった。
「せっかく京都に来たのに、湯豆腐…」
言われてみればその通りだ。
確かに湯豆腐なんぞは自宅でもお馴染みだし、北は稚内から南は西表島まで、日本中どこでも食べられる。
いくら京都の豆腐が美味しいからといっても、果てしなく気が利かないチョイスだった。
「おたべ」や「八つ橋」は食事にはならないし、かといって、二十歳の若造には、他に京都の食べ物は漬け物やニシン蕎麦くらいしか思い浮かばなかったのだ。
済まぬ、婆ちゃん。
少し大人になってからだけど、石塀小路辺りでおばんざいや京懐石でも食べさせてあげればヨカッタ、と後悔した。

で、次回は婆ちゃんから連想して、本願寺について触れてみようと思う。
もちろん、少々違う角度から。

次回「鳥辺野考」へ続きます。




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