勝てば官軍

2007年7月


東博を出てからの帰り道は、昔ならば、わざわざ京成の「博物館動物園駅」を利用して終点の上野駅まで乗っていた。
1キロにも満たない距離ではあるが、重厚な博物館動物園駅舎や、何とも不思議な感覚を惹起させるホームのレトロ感が好きだった。
短いホームだから4両編成の電車しか停まらず、乗れる電車を数十分待つのも珍しいことではなかった。
ホームに自分独り、という状況も多々あり、通過する電車の風に煽られながら、車窓から漏れ出る灯りがホームをコマ送りのように照らすのを眺めては、昭和初期へタイムスリップで異次元空間に迷い込んだ感覚を楽しんでいた。
どこかに怪人二十面相でも潜んでいそうな、いかにも乱歩的な妖かしの雰囲気に魅せられて利用していた頃が、懐かしく思い出される。
たった1駅で終点の京成上野駅から地上に出ると、広小路は眩しいくらいに大都会だった。
それにしても、何の工事か知らないが、いつまで続くのだろう。
縄文期には、ここまで古東京湾が海浸していた。
こうなると、私の想像の範疇を大きく超える。
上野山王台とも呼ばれる場所からの見晴しである。

振り返ればお馴染みの西郷さん。
もちろん明治維新の立役者で、光雲作のこの像は、当初、皇居前に建てられるはずだったようだ。
ところが西南戦争で賊軍となり、この地に決定したのだとか…。
皇居前といえば楠公の騎馬像が有名だが、楠公の視線同様、西郷の見つめる先に何があるかも定かではない。
やはり皇居に向いているとの説もあるものの、明らかに方角は違うような気がする。
ならば何故この場所かといえば、やはり上野戦争が関係しているのだろう。
官軍として上野寛永寺の総門ともいうべき、山王台付近にあった黒門口を攻撃したのが、主攻撃部隊の薩摩・熊本・鳥取の各藩だった。

中でも中心となったのが薩摩藩。
西郷と勝海舟の会談により、徳川慶喜の水戸謹慎と江戸城の無血開城が決定され、江戸総攻撃は回避された。
もっとも会談に到る前段では、東征大総督府下参謀として駿府滞在中の西郷を訪ねた山岡鉄舟との間で、すでにそれらが合意されていたのは有名な話だ。
この山王台上に布陣していた彰義隊の目線で、薩摩から自ら率いて来た我が藩の軍勢を頼もしく透視しているのだろうか。
鉄舟については、後で少し触れる。

西郷像の横には彰義隊の墓所がある。
一橋家家臣の渋沢成一郎や、抗戦派の幕臣で彰義隊の副頭取、天野八郎らが結成した彰義隊。
渋沢は、明治時代の実業家、渋沢栄一の従兄である。

二人の運命は対照的だった。
渋沢成一郎は天野との対立により彰義隊を離脱して転戦の後、榎本武揚と合流して函館戦争に加わり、戦後は大蔵省に入省、退職後は実業家として活躍している。
一方、天野は上野戦争後に捕縛され、風邪をこじらせてその年の暮に獄死している。
天野の墓所は、移築された黒門とともに、荒川区の曹洞宗補陀山円通寺にある。
(円通寺は次回に触れる)

上野戦争を生き延びた戦士も多い。
新選組十番隊組長だった原田左之助は助っ人で、ここには眠っていない。
同様に池田長裕、春日左衛門、大塚霍之丞も生き残った。
丸毛利恒のように榎本武揚の指揮下に入り、箱館戦争に加わった者たちもいる。
岡安喜平次と名を変え、後に長唄の師匠となった関弥太郎も浮かぶが、勉強不足のため真偽は不明。
ただし、徳川贔屓の侠客、新門辰五郎が寛永寺の寺の警護や、上野山を囲む柵を築いたことは確かなことらしい。
ちなみに辰五郎の娘は慶喜の妾(側室ではない)である。

元号が明治に変わると、荒廃した上野の緑地に目をつけた陸軍は陸軍病院を、文部省は医学校建設を考えるようになった。
それらの計画をまとめたのは、東大医学部の前身である大学東校助教授、石黒忠悳(ただのり)だった。
それをストップさせたのが、1862年に旧幕府が招聘したオランダ人医師で大学東校教授の、アントニウス・ボードウィン。
(余談だが、この1862年には寺田屋事件、生麦事件などがあった)
ボードウィンは、このような幽𨗉な場所を潰すのは大きな間違いであり、世界中の都市では、緑地が無ければ人工的にでも庭園を造るのだと、文部省を代表する石黒を真剣に諭す。
この主張が通り、大学の敷地は本郷の加賀前田屋敷内に決定した。
明治六年、上野は東京市街地初の公園になった。

やや脱線気味なので修正するが、やはり生き残った隊士の小川興郷(椙太)が建てたのがこの墓で、「戦死之墓」とあるのは山岡鉄舟の筆だ。
鉄舟は慶喜とともに静岡に移り住み、清水次郎長とも親交を結んでいる。
新門辰五郎も同様で、次郎長との交流があったという。

山王台を下りると、そこには取り壊し間際の聚楽がある。
東北への玄関口である上野駅とともに幾星霜の時を歩み、またひとつ昭和が消えようとしている。
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく人も多かっただろう。
そして2Fのレストラン聚楽台。
何度となくこの前を通り過ぎながら、とうとう一度も入ることはなかった。

    織田が搗き
    羽柴が捏ねし
    天下餅
    座ったままで
    食うは徳川


おおよそ安穏に過ぎた江戸時代、そして明治、大正、昭和が消えて行く。

寛永寺の住職で、輪王寺宮公現法親王の身柄を担保していた彰義隊の大義も、官軍の前には通用しなかった。
「勝てば官軍」である。
私は、新撰組や白虎隊ほど彰義隊に思い入れはないけれど、それでも将軍様のお膝元である江戸を贔屓にしたい。
外交官として来日、東大で日本文学を専攻し、1975年に源氏物語の全訳を完成させた日本通のアメリカ人、エドワード・サイデンステッカーは言う。

生粋の江戸っ子は、将軍のお膝下にいることで誇りと威厳を身につけ、そして、洗練された趣味を追求するだけの余裕に恵まれた人々は、完璧な洗練を誇ることもできた。ところが今、大群をなして乗り込んで来た官軍の侍どもは、草深い田舎の南瓜頭どもばかり。江戸前のなんたるかを弁える神経などまるで持ち合わせがない。
  ふるさとは田舎侍にあらされて
  昔の江戸の俤もなし
晩年の谷崎が江戸っ子の思いを詠んだ歌だが、もちろん誇張はあるにしても、同じ感慨を抱いた江戸っ子は多かったはずである。


官軍の中心は、薩長土肥とは云うものの、新政府はほぼ薩長閥で占められた。
その弊害が「明治」という時代を歪ませながら大日本帝国を牽引して行く。
例を上げればキリがないが、1881年(明治14)の「開拓使官有物払下げ事件」だ。
同年には土佐出身の板垣退助が一院制、主権在民、普通選挙を標榜する自由党を、翌年には大隈重信が君民同治、穏健な立憲君主制の二院制を謳う立憲改新党を結成している。

長くなるのでそろそろやめるが、織田、豊臣、徳川、薩長、そして…。
いつの時代も、勝てば官軍。

次回へ続く。


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