長崎原爆忌

今年もこの写真を何度も目にしたことでしょう。
心から平和を願っていても、残酷な事実や現実に対峙することを避けたい人もいるでしょう。
それでも書きます。

2007年に亡くなったジョー・オダネルは、写真発表後に、
「原爆投下は間違いだった」
と半世紀を経て転向しました。
晩年には来日して少年を捜したものの、何の手掛かりも得られずに帰国しています。

写真に関して彼のコメントが残っています。

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意思が感じられました。
しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足をゆっくりと葬るように、焼き場の熱い石灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

以上、自宅の書庫にあった、1999年 朝日新聞社発行の「写真が語る20世紀 目撃者」から一部を抜粋しました。

被災直後の惨状を目の当たりにしたオダネルの思いは、アメリカ国内ではいまだにマイノリティでしょう。

だからどうかはわかりませんが、日本国内でもそれに追従するように、公然と「原爆投下は仕方なかった」と言い放つ政治家や政治活動家が存在します。

この人たちの思想の延長線上には、核武装自主独立があるのです。

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