常盤御前 其の壱



前回の「飛び下り禁止」からの続きです。



常盤御前はご存知でしょう。
義経のオカンです。
今回はその常盤について、ぼちぼち書き進めていくことにしましょう。

みんな退屈するんだろうなあ…。
関心のない人はここで閉じて下さい。
でも、「よーし、そっちが本気なら、こっちも最後までキチンと読んでやろう」と思う人だけお付き合い願います。

その昔、家庭教師で高校生に日本史を教えていた当時の軽いノリで書き進めます。
3回に分けますからご承知置き下さい。


話は常盤の夫、義朝の死から始めます。

後世の戦記物語である「義経記」には次の記載があります。

父義朝は平治元年十二月二十七日に、衛門督藤原信頼卿に与して、京の戦に打負けぬ。
重代の郎等共皆討たれしかば、其勢二十余騎になりて、東國の方へぞ落ち給ひける。
成人の子供をば引具して、幼達をば都に捨ててぞ落ちられける。
嫡子鎌倉の悪源太義平、二男中宮大夫進朝長十六、三男兵衛佐頼朝十二になる。悪源太をば北國の勢を具せよとて越前へ下す。
それも叶はざるにや、近江の石川寺に籠りけるを、平家聞きつけ、瀬尾・難破を差遺して都へ上り、六條河原にて斬られけり。

平治の乱ですね。
「差遺して」とは、生け捕ったという意味でしょう。
六条河原で処刑されたのは義平で、義朝の長男です。
何とも恐ろしい平家側の処分ですが、清盛を暗殺しようとして失敗したのだから、当然の処置ですね。
悪源太義平と呼ばれるのは、義平の叔父である源義賢を殺してしまったことが由来です。
この場合の「悪」は、勇猛の意味です。

三男坊の頼朝は池禅尼の助命嘆願で、伊豆の蛭ケ小島に配流されたことは誰もが知るところです。
池のおばちゃんは清盛の継母で、崇徳天皇の皇子、重仁親王の乳母だった女性でして、平忠盛の後妻といわれています。
藤原宗兼の娘であり、平家盛・頼盛のオカンでもあるんですね。

こんな調子で書き進めていくといつまでも終わらないので、以後の人物説明はどんどんカットしちゃいますから、コイツ誰? という場合は各自で調べて下さい。
話を義朝に戻します。

平家の橋頭堡である六波羅攻めに失敗した義朝は、源氏の拠点である東国へ逃れて体勢を整えようとします。
その途中の尾張で、「ちょっと休憩しようね」と、家臣の鎌田政清の舅である長田四郎忠致の屋敷へ立ち寄りました。

ここんとこは「平治物語」を参考にしてますが、信頼できる文献は限られていて、本当ならば「玉葉」や「吾妻鏡」などを参考にしたいんですけど、多少の脚色はあってもほぼ事実に近いと思われるので、「平治物語」だけじゃなくて「義経記」や「源平盛衰記」なんかも動員させちゃいます。

で、義朝は、「疲れたし、ずいぶん汚れちゃった!」と、入浴するんですね。
そして、「ああ、いい湯だな」と、まったりしてるところを、忠致と、忠致の息子景致に襲われてしまいます。
これは後の太田道灌や番随院長兵衛も同じです。
すっぽんぽんの時は不用心なので、細心の注意を払わなければいけません。
道灌は辞世の歌を詠んでいますが、そんな悠長な場合じゃなかったでしょう。
ちなみにその時の道灌の歌です。

かかる時さこそ命の惜しからめ
かねてなき身と思い知らずば

入浴中を急襲されて殺されかけてるんだから、余裕こいて歌なんぞ詠んでたなんて信じられません。
それも諦観の歌ですよ。
「そんなに命惜しくないもんね、ボク」と言ってるのです。
眉にツバつけて、「へえ、そうなんだあ」くらいに思ってた方が賢明です。

脱線しましたが、こうして義朝は家来の身内によって殺されてしまいます。
カエサル同様、日本版「ブルータス、お前もか」といったところでしょうか。
鎌田政清の面目丸潰れですが、その政清も一緒に殺されています。
忠致と景致は二人の首を刎ね、清盛の館へ持参していますが、大きく脱線しそうなのでやめます。
平治二年(1160年)正月四日のことでした。
再び平治物語に戻ります。

正月五日、いまだ朝の事なるに、左馬頭のわらは金王丸、常葉がもとに来て、馬より飛でおり、しばしが程は涙にしづみ、やゝ有て、
「此三日のあかつき、尾張国野間と申所にて、長田四郎がために、うたれさせ給ひ候ぬ」
と申せば、きゝもあへず、ときはを始ておさなき人々、声々になき悲しみ給ふぞあはれなる。
其後道すがらの事どもくはしくかたり申しゝにぞ、朝長のうせ給ひ、毛利の六郎のうたれ給をもきゝ給ひける。
陸奥六郎義隆は、相模の毛利を知行せられければ、毛利の冠者とも申けり。 
常葉かやうの事どもをきいて、
「さばかりの軍の中よりも、汝をもておさなき者どもの事を、心ぐるしげに仰られしに、すでにむなしく成給ひぬ。それに付ても、あの公達をばいかゞすべき」
とて、ふししづみけれ…。

家臣の一人、渋谷金王丸は京に戻り、その訃報を常盤に告げました。
お妾さんとはいえ、夫が死んだのですから、もちろん常盤は驚きます。
何しろ三人の幼子がいるんですからね。
常盤は、平治物語では「常葉」になっています。
続けます。

常葉註進、并に信西子息各遠流に處せらるる事

ここに左馬頭義朝の末子ども、九條院雑仕常葉が腹に三人あり。
兄は今若とて七つに成、中は乙若とて五つ、末は牛若とて今年むまれたり。
義朝これらが事心ぐるしく思はれければ、金王丸を道より返して、
「合戦にうちまけて、いづちともなく落ちゆけども、心は跡をかへり見て、行さき更におもほえず。いづくにありとも、心やすき事あらば、むかへ取べき也。其程は深山にも身をかくして、我音づれをまち給へ」
と申つかはされければ、常葉ききもあへず、引かづきて伏ししづめり。
をさなき人々は聲々に、
「父は何くにましますぞ、頭殿は」
と問給ふ。
ややあて常葉なくなく、
「さてもいづ方へと聞きつる」
と問ひければ、
「譜代の御家人達を御頼み候て、あづまの方へとぞ仰候し。しばしも御行末おぼつかなく存じ候へば、いとま申て」
とて出にけり。

これはまだ義朝が存命中の記述ですが、金王丸が、敗走中の義朝の連絡係だったことがわかります。
牛若丸も登場しちゃいました。
常盤は、次のように決意します。

何をまつとて我身に命の残るらん。
淵川にも身を捨てて、うらめしき世にすまじとこそ思へども、この身むなしくなりはてば、子どもは誰かをかたのむべき。
よしなき忘れ形見ゆへに、をしからぬ身ををしむや。

母の常盤に応えて、おそらく今若だと思いますが、

母や母、身を投げそ、われらが悲しからんずるに。

七歳とは思えないほど、しっかりと受け答えをしてます。
もっとも、その場に平治物語の作者がいたわけではないので、この辺りの母子の会話は創作です。
作者の思うツボとは承知してるんだけど、それでも子供の健気さに泣かされます。

ここで義朝の子供たちのことを書いて置きましょう。
義朝には十人以上の子供がいました。
九郎義経はご存知の通り、九番目の子供です。
長男、悪源太義平のことは書きましたね。
次男、三男も、「二男中宮大夫進朝長十六、三男兵衛佐頼朝十二になる」との記述があります。

整理すると上から順番に、義平、朝長、頼朝とあり、頼朝が三男坊です。
以下、女子は割愛しますが、義門、希義、範頼、全成、円成、義経と続きます。
義門は早世、希義は頼朝と同じ母親です。
範頼は池田宿(現在の静岡県豊田町)の遊女の子で、義朝がちょっと遊んだら出来ちゃったようです。
その遊女の後が、いよいよ常盤ですね。
常盤が生んだ三人は全成、円成、義経ですが、全成と円成は出家させられた時の名前です。
ですから、平治物語ではまだ今若、乙若、牛若と書かれています。
義朝が三人も産ませているので、かなりのお気に入りだったことがわかります。
少し常盤に触れましょう。

常葉は今年廿三、こずえの花はかつちりて、すこし盛はすぐれ共、中々見所あるにことならず。
もとよりみめかたち人にすぐれたるのみならず、をさなきより宮づかへして物なれたるうへ、口ききなりしかば、理ただしう思ふ心をつづけたり。
緑のまゆずみ、くれないの涙にみだれて、物思ふ日数へにければ、そのむかしにはあらねども、打しをれたるさま、なほ世のつねにはすぐれたりければ、
「此事なくば、いかでかかかる美人をば見べき」
と皆人申せば、或人語りけるは、
「よきこそげにも理よ。伊通大臣の、中宮の御かたへ、人のみめよからんをまいいらせんとて、九重に名を得たる美人を、千人めされて百人えらび、百人が中より十人えらび、十人の中の一とて、此常葉をまいらせられたりしかば、唐の楊貴妃、漢の李夫人も、これにはすぎじものを」
といへば、
「見れども見れども、いや珍かなるもことわりかな」
とぞ申ける。

藤原伊通が、九条院藤原呈子に仕える女官を選んだ時の話です。
当時の京の都のミスコンと思えばいいでしょう。
千人の候補者の中から百人が第二次選考へ進み、第三次選考では十人にしぼられ、最終選考で常盤が優勝したわけです。
水着審査があったかどうかはわかりませんが、いったいどれほどの美人だったのでしょう、常盤さん。
美人の基準は現代とは大きく違っていたはずですが、それでも気になりますね。
タイムマシーンがあれば、どうしてもお会いしたい女性のひとりです。

中宮の父親である伊通の審美眼は、常盤を世界の三大美女の一人になぞらえました。
当時、クレオパトラを知らないのは当然として、小野小町を挙げていないのは何故でしょう。
もっとも小町と伝えられている絵はすべて後姿なので、小町美人説はかなりギモンだと私は思うのです。
拙Twitterを見続けて下さっている方は、「世界の三大美女は、蘭ちゃんとチェ・ジウと吉沢京子ちゃんでしょ」と突っ込んでくれてるでしょうね。
ホントはちょっと違うのですが、まあそんなこんなで話は常盤に戻ります。

女官とは雑仕のことで、いわゆる「女房」よりはランクがやや下なのです。
それは父親の出自が関係するのですが、常盤の父親の故郷は大和の宇陀郡と伝えられています。
この「宇陀郡」は次回でまた現れますから、ちゃんと覚えて置きましょうね。

常盤と義朝が出会ったのはいつ頃でしょうか。
義朝は鳥羽院に仕えていますから、やがて美福門院の関係から、常盤を見染めたと考えられます。
もう少し詳しくいうと、藤原呈子は鳥羽院の皇后だった美福門院に引き取られてから、摂政の藤原忠道の養女になり、近衛天皇の中宮になっています。
これが久安四年(1148年)六月のことです。
だから、義朝が常盤を知ったのは、この年と考えていいでしょう。
典型的なオフィス・ラヴです。
勤務中は御所内の給湯室かなんかでイチャついて、たぶんアフター5にラブホにでも行ったんでしょう。
こうして想像すると、義朝が後白河に肩入れして内裏を警護していた保元の乱も、また違った角度から見ることができて面白いものです。

「末は牛若とて今年むまれたり」の記述は、割と信頼できる史書の「吾妻鏡」からも窺えます。
「こずえの花はかつちりて、すこし盛はすぐれ」とありますが、上は七歳の今若から、まだ乳飲み子の牛若まで三人の子供を抱えた常盤はまだ二十三歳です。
花が散るように少々賞味期限切れ気味と書きながら、「いかでかかかる美人をば見べき」と誉めて、楊貴妃よりキレイ! とフォローしてます。
盛りが過ぎたとは、二十三歳でもう熟女ということでしょう。
アラサー、アラフォーなんか、当時ならばもうお婆さん扱いですね。
今若の七歳から逆算すると、義朝と親密な関係になっちゃったのは十五歳。
でも現在と違って数え年齢ですから、実際は十四歳でラブホ、ということです。
義朝は保安四年(1123年)の生まれですから、二十五歳。
すごいですねえ。
今なら犯罪じゃん!

平治の戦乱の中、この若さでシングルマザーになってしまった常盤は、何とか子供たちを守ろうと考えました。

九條院の常磐が腹にも三人あり。今若七つ、乙若五つ、牛若当歳子なり。
清盛是を取って斬るべき由をぞ申しける。

清盛はカンカンのおかんむり、とにかく平氏から逃れること、これが最優先です。
ビビった常盤はやむなく行動を起こしました。
といっても身をひそめるだけなんですが、そこで選んだ先が清水寺でした。

「われ故頭殿におくれ奉てせんかたなきにも、此忘形見にこそ、けふまでもなぐさむに、もし敵にもとられなば、片時もたへてあるべき心ちもせず。さればとて、はかばかしく立忍ぶべき便もなし。身一つだにもかくしがたきに、三人の子を引具しては、誰かはしばしも宿すべき」
と、なきかなしみけるが、あまりに思ひうる方もなきままに、
「年来たのみ奉りたる観音にこそ、なげき申さめ」
とて、二月九日の夜に入て、三人のをさない人を引具して、清水へこそ参りけれ。
母にもしらせじと思ひければ、女の童の一人をも具せずして、八になる今若をばさきに立てて、六歳の乙若をば手をひき、牛若は二になれば懐にいだきつつ、たそがれ時に宿をいで、足に任てたどりゆく、心の中こそ哀なれ。

母親にも告げず、常盤は日が暮れかかるのを待って清水寺へ向かい、そして観音の慈悲に縋ります。

仏前に参ても、二人の子共をわきにすえ、只さめざめとなきいたり。
夜もすがらの祈請にも、
「妾九の歳より月詣を始て、十五になるまでは、十八日ごとに卅三巻の普門品をよみ奉り、その年より毎月法華経三部、十九のとしより日ごとに此卅三体の聖容をうつし奉る。かくのごとき志、大慈大悲の御誓にて照らし知しめすならば、わらはが事はともかくも、ただ三人の子共のかひなき命を助させ給へ」
と口説きけり。
誠に三十三身の春の花、匂はぬ袖もあらじかし。
十九説法の秋の月、照さぬむねもなかるべければ、さすがに千手千眼も哀とはみそなはし給ふらん、とぞおぼえける。
やうやう暁にもなりゆけば、師の坊へ入けるに、日来は左馬頭の最愛の妻なりしかば、参詣の折々には、供の人にいたるまで、清げにこそありしか。
今は引かへて、身をやつせるのみならず、尽きせぬなげきに泣きしをれたる姿、目もあてられねば、師の僧あまりのかなしさに、
「年来の御なさけ、いかでかわすれまいらせん。をさない人もいたはしければ、しばしはしのびてましませかし」
と申せば、
「御志はうれしく侍れども六はらちかき所なれば、しばしもいかがさぶらはむ。まことに忘給はずば、仏神の御あはれみよりほかは、たのむ方も侍らねば、観音に能々祈り申てたび給へ」
とて、また夜の中に出ければ、坊主なくなく、
「唐の太宗は仏像を礼して、栄花を一生の春の風にひらき、漢の明帝は経典を信じて、寿命を秋の月に延と申せば、三宝の御助むなしかるまじく候」
となぐさめけり。

九歳の頃から篤い信仰心を持ち、義朝と結ばれてからもお参りを欠かさなかったことがわかります。
寺僧も事情はすべて呑み込んでいて、同情のあまり泣いていますし、観音の教えを忘れることなく、しっかり祈りなさいと諭しています。
読み手のこちらも、もらい泣きしてしまう場面です。
それでも常盤の不安は消えず、牛若を背負い、今若、乙若の二人の手を引いて、夜の闇にまぎれて清水寺を去る決心をしました。
これほど怯えるには訳があります。
三人の子供が男子だからということで、平家の報復を恐れたのです。
なぜか?

悪源太義平は、義朝が討たれたと聞いて失望し、一時は自害しようとしましたが、それでは犬死であまりにも悔しい。
そこで、清盛や主要な平家の武将を一人でも討とうと思い直し、六波羅周辺を偵察中、平家方に捕らえられて六条河原で斬殺されました。
義朝の娘、夜叉御前(実在は疑問視されてますが)は、頼朝が捕まったからには、自分も義朝の子である以上、必ず殺される運命にあると信じて入水して果てました。
武士の子として生まれたからには、たとえ女でも生きてはいられない不文律があったのでしょう。
勝者は敗者を捜し出して、その命を奪います。
たとえ子供といえども例外はありません。
これでは常盤も慌てます。
他にも理由があるので補足しますが、義朝が三条殿を攻める時に、

皆うちころさんと支度して、御所をまき火をかけてけり

の暴挙を働き、御所内の男性は当然のこととし、なお且つ、女房や雑仕の女性まで井戸に投げ込んで殺害しています。
「平治物語、三条殿夜討巻」にはその様子がリアルに描かれています。
池禅尼は頼朝を助命したけれど、これは池禅尼と清衡の微妙な力関係から生じた特異な例です。
ですから、三兄弟が平氏から報復されないという保証はまったくありません。
なにしろ、「清盛是を取って斬るべき由をぞ申しける」と言い切っているのですから。

こうして常盤の逃避行が始まります。
二十数年後、今度は平氏ではなく、義経も頼朝によって追われるとは、この時は誰一人として知る由もなかったのです。
母子四人の数奇な運命の始まりでもありました。
(柄にもなく、最後はちょっと真面目に物語風にまとめてみました)



「常磐御前 其の弐」へ続きます。

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