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「ハピネスチャージプリキュア!」が描く「虚無からの救済」ーー「永遠性」と「有限性」、そして「継承」

はじめに

 「ハピネスチャージプリキュア!」(以下、ハピチャ)は幸福追求を描いた作品であり、ラスボスであるレッドは幸福や愛を追求するゲームから決定的に疎外されたものである。先日拝読したハピチャ論でこのように指摘されていた。

 筆者はこれをハピチャの作品理解として的確なものだと思う。確かに、幸福とは何か、愛とは何かという問いが本作の根底にあったことは間違いない。そして、その問いに対する答えは物語が進むにつれて、深められ、変化した。たとえば、愛乃めぐみは当初、自身が最下位になることで誰かが最下位を脱することを喜ぶような、ある種の「自己犠牲的利他愛」が行動原理であった。しかし、物語が進むにつれて「他人の幸せが自分の幸せ」という「利己的利他愛」とでも言うべき愛の形へと変化した。

 愛を巡る物語から疎外されたのがレッドであった。愛を繰り返し否定する様にそれがあらわれている。しかし、どことなく説得力があるのも事実だ。「愛はいずれ消えてなくなる」。確かに、そうかもしれない。

 それに対して、めぐみの応答は根拠薄弱だ。「愛は心に宿る。だから永遠だ」 どゆこと? 筆者は問わずにはいられない。その永遠性は何に担保されているのか。

 初見時はめぐみが言っていることがさっぱり分からなかった。しかし、冷静になり再視聴すると、最終話におけるレッドとめぐみの対話で、彼女は確かに愛の永遠性の根拠を述べていることに気づいた。そこで、本稿はレッドとめぐみの対話を「時間」という観点から考察する。

 そして、上記の考察をもとに現代社会における「時間」に対する認識についても考察したい。なぜレッドが述べていることに説得力を感じるのか。その理由は現代人の「時間の中への自己の位置づけ方」にあると考えている。

 ハピチャ解釈から現代社会を論じることが可能なのかと訝しがる方もいらっしゃるだろうが、筆者の蛮勇にお付き合いいただければ幸いである。

なぜレッドは疎外されたのかーー生命の永遠性と対象の有限性

 ハピチャはプリキュアたちの愛や幸福の追求を描いた物語であり、レッドはその追求から疎外されたものである。こうした理解は非常に同意できるものである。しかし、ここで問わなければならないのは「なぜレッドは愛や幸福から疎外されたのか」である。

 この問いに対する筆者の答えは「レッドは自身の生命の永遠性と『愛する対象』の有限性の乖離を前にして強い虚無感を抱いたのではないか」というものである。

 レッドが愛を否定する際の理屈は一貫している。それは「愛はいつか消滅し、強い絶望をもたらす」というものだ。この言葉は彼自身の経験をもとに発せられている。すなわち、かつて繁栄し、彼が愛した「惑星・レッド」が不毛の大地へとなったという経験だ。この喪失経験が彼を愛の否定へと走らせた。

 形あるものはすべていつかなくなる。私たちはそれを知っている。私が愛し、そして私を愛した両親はいつか死んでしまう。また、筆者はこの方面には明るくないが、太陽はそのうち活動をやめるという話を聞いたことがあるし、宇宙はいつか膨張をやめて縮小すると言われている。両親も宇宙も、無限に流れる時間の中で形を変え、消滅する(すべてが消滅したあとも時間は流れるのか。これは哲学的にも物理学的にも面白そうな議論だがここでは措く)。

 しかし、両親と宇宙ではその消滅と私たちの関係は大きく異なっている。私たちは前者の消滅を知覚することはできるが、後者はそうではない。いまはまだ両親の死は差し迫った問題ではなくとも、それが私にとって切実な問題であることは想像できる。一方、宇宙の消滅を抽象的な形で想像できたとしても、「両親の死」と同程度に宇宙の消滅を切実な問題として捉えることは難しいのではないだろうか。すなわち、「形あるものはすべていつかなくなる」といえど、消滅に対するリアリティはすべてのものに対して等しいわけではないのである。

 なぜ私たちはすべての消滅を等しいリアリティを伴って想像することができないのか。それは私たちの認識可能性に依存しているのではないか、というのが筆者の見方だ。認識することが難しければ難しいほど、消滅は私たちとは縁遠い、抽象的なものになる。宇宙の消滅は私たちの問題ではなく、最先端科学にとっての問題なのだ。

 こうした認識可能性の限界は、私たちの生命に限りがあるために設けられたものだ(永遠の生命を有していれば宇宙の消滅を認識することができる)。しかし、レッドは違う。彼は神なのだ。ハピチャでは「神」について説明されていないため詳細は分からないが、一般的にその生命は永遠だと考えてもおかしくないだろう。少なくとも、レッドやブルーは一つの惑星が生まれ、衰退するまでを認識することができるだけの長さの生命を有している。(ちなみに、肉眼で確認できる生物の大量絶滅は地球上で5回起きているが、その最も古いものでも地球誕生から40億年が経過してから生じた。)

 つまり、レッドは少なくとも人間にとっては「永遠」に感じられるほどの生命を有していると考えられる。そして、先に提示した「消滅のリアリティは認識可能性に規定されており、認識可能性は生命の長さに限定されている」という指摘を踏まえると、「レッドはすべての消滅に対して強いリアリティを抱く」と考えることができるだろう。彼にとっては、両親の死も宇宙の消滅も等しい。どちらも強いリアリティを伴って喪失をイメージすることができるものであり、実際に「喪失を経験する」ことができるものなのだ。そして喪失の経験は、彼が「時間の無限性を経験することができる生命の永遠性」を有しているがゆえのことである。

 まとめると、彼が愛や幸福から疎外された真の原因は、「『惑星・レッド』の喪失」という偶発的な経験ではなく、彼の生命が永遠であるのに対し、「愛する対象」は有限であるということに根ざしている、というのがここでの主張である(「失われた大切なものがたまたま『惑星・レッド』だった」という程度の偶発性しかない)。「生命の永遠性と対象の有限性の乖離」といってもよいだろう。彼にとって、すべての大切なものは「必ず」失われるものである。こうした宿命が彼をして愛や幸福に背を向けせしめたのではないだろうか。賽の河原で石積みをすることの無意味さに気づいてしまった神。これが筆者のレッド像である。

めぐみが示す愛の永遠性ーー彼女の言葉は誰へのものか

 筆者は冒頭で「レッドの『愛はいつか失われる』という言には一定の説得力がある」と指摘した。そして、前節ではレッドの疎外の背景には彼が置かれた立場に由来する宿命があると述べた。

 それでは、レッドの言の説得力は彼の宿命、すなわち「生命の永遠性と対象の有限性の乖離」に思いを馳せることで生じるものなのだろうか。いや、そうではないだろう。むしろ、私たちが時間の無限性を前にしたとき、私たち自身の生命があまりにも短く、無為なものに感じられるからこそ、愛の無意味さを暴露するレッドに共感するのではないか。死んだら全てが終わり。こうした感覚を背景に、私たちはレッドの言を説得力あるものとして見なしているのではないだろうか。

 つまり、レッドの言葉は彼の生命の永遠性を背景に発せられたものであるが、私たちは私たち自身の生命の有限性をもって彼の発言を説得力あるものとみなすのである。レッドの発言に私たちが納得するとき、「愛の永遠性を疑う」という態度は共通しているが、その根拠は異なる。レッドは生命の永遠性を根拠とし、私たちは生命の有限性を根拠とする。

 さて、愛の無意味さを説くレッドに対して、めぐみは愛の永遠性を力説する。曰く、愛は心から生まれ、心に宿るものだ。だから愛は永遠である、と。

 は? どゆこと?

 失礼。

 めぐみの主張はよく分からない部分がある。愛は心に宿るがゆえに永遠だと言うのであれば今度は心の永遠性を証明する必要があるだろう。それに、そもそも、レッドにとっては「愛する対象の有限性」が問題だったはずである。その意味でも彼女の主張はレッドの問題とはすれ違っているように思われる。

 また、めぐみは愛は伝わって、受け継がれると言う。そして、それゆえに愛は永遠なのだ、と説く。これも、永遠の生命を持つレッドにとっては無意味な主張だろう。なぜなら、永遠の生命をもつ彼には「継承」は不要だからだ。

 めぐみの言葉はレッドの問題を解消するものではなく、独りよがりな印象を受ける。しかし、彼女の言葉をレッドに対するものではなく、「彼に納得する私たち」に向けられたものと考えるならば、これほどクリティカルな指摘はないように思われる。なぜならば、私たちが愛の永遠性を疑うとき、それは「生命の有限性」を根拠とするものであるが、「継承」は自分の思い(なにかに対する「愛」)を他者に引き継ぐことで、「生命の有限性」を継ぎ柄し、無限性へ至ろうとする営みだからだ。

 つまり、「生命の有限性」を根拠に虚無感を抱く私たちに向けたものとして彼女の言葉を理解するならば、ハピチャの到達点は私たちを虚無から救うものとして捉えることができるのではないだろうか。

ハピチャ到達点の現代的意義ーー「イエ」なき時代の「刹那主義」に抗する方法

 ここまでの考察をまとめよう。レッドは生命の永遠性と「愛する対象」の有限性との乖離から虚無に陥り、私たちは生命の有限性と時間の無限性との乖離から虚無に陥る。虚無の原因を図式的にまとめると、「有限性と、無限性・永遠性の乖離」とまとめることができるだろう。そして、めぐみが提示する「継承」という視点は有限性を継ぎ柄することによって無限性・永遠性に至ろうとする方法であった。

 「継承」は私たちを虚無から救う一つの方法である。しかし、地球規模の環境問題や原子力発電所に関する問題など、将来世代に負の遺産を残すであろう課題をみるに、私たちには「継承」という観点が希薄であるように思われて仕方ない。むしろ、生命の有限性に居直り、自分たちの世代が良ければ良いという「刹那主義」的な態度が蔓延しているのではないだろうか。

 確かに、生命の有限性に居直って時間の無限性に目をつむることは、虚無からの脱出方法の一つかもしれない。しかし、それでも私たちが居なくなってからもこの世界は誰かが生きる世界であり続けるのだ。「世代間倫理」が叫ばれるのも、こうした厳然たる事実が存在しているからに他ならない。そして、「世代間倫理」を説得力あるものとして受け止めるためには、「継承」を契機とした将来世代への想像力が必要とされるだろう。

 筆者は、日本における「継承」の意識が希薄化と「刹那主義」の蔓延を理解するにあたって、「イエ」から「核家族」という家族形態の変化は有効な補助線になると考えている。

 日本の共同体の基層である「イエ」は「継承の共同体」であった。「イエ」は生活の基盤であったがゆえに、人びとはその永続を願った。また、「イエ」が存続するからこそ、自身の死後も誰かが自分を祀ってくれると安心することができ、実存的な恐怖感を静めることができた。

 もちろん、「イエ」には個人を抑圧する側面があるのも事実である。それも「イエ」がなければ人は生きていくことができず、「イエ」という組織体が「継承」を倫理・原理とする共同体だからである。(たとえば、一括相続はイエの永続願望のあらわれである。嫡子にすべての土地を相続することは、他の子どもを犠牲にしてでもイエの存続確率を高める戦略である。なお、「タワケ」の語源は「田分け」であり、田畑を分割相続することがイエの衰退を招く愚かな行為であることを示している。)

 こうした「イエ」の性格を踏まえると、家族の近代化、すなわち「イエから核家族へ」という変化は、「継承」という観点が希薄化する過程であったのではないかという気もしてくる。すなわち、現在世代を犠牲にしてでも将来世代を志向する「イエ」が「世代間倫理」に貫かれていたとするならば、対等な成員の感情的包絡を旨とする「核家族」は「世代内倫理」を志向する。そして、「世代内倫理」が先鋭化したものが「刹那主義」ではないだろうか。

 もちろん、「刹那主義」で良いわけがない。山積する課題を考えたとき、私たちに求められるのは将来世代への関心であり、「愛」は関心の形態の一つである。そして、「将来世代への愛」を「継承」することで、「生命の有限性」を突破し、「時間の無限性」へと肉薄する。こうした方法で有限性と無限性・永遠性の乖離から生じる虚無を拭うことが必要なのではないだろうか。

 ハピネスチャージプリキュアは私たちを虚無から救う。それも、「世代間倫理」という望ましい方法で私たちを救う。筆者にはそうしたメッセージを発しているように思われた。

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