夢日記「牡鹿」

ある夏、片想いの幼馴染と田舎にある実家で一緒に数日過ごすことになった。

荷ほどきや家事の手伝いを一通り終えた夕方、私は彼から黄昏のひとときにしか営業中の看板が出ていない面白い喫茶店があるから一緒に行こうと誘われた。

徒歩数十分の先、その不思議な場所はあった。

別段奇抜でもないメニューや内装ではあったが、珍しいのは立地や営業時間だけではない。軒下で年老いた牡鹿が休んでいた。片角は取れてしまっているが、もう片方はまだ立派に幾股もある。人慣れした図々しさと和やかさとともに、それはどこか貫禄と荘厳さを発揮していた。

私はそれに過度に干渉することもなく、無視するでもなく、ただ何となく会釈をした。牡鹿もこちらに軽く会釈を返したような気がした。


「18時ラストオーダー」とだけ書いてある不思議な喫茶店で斜陽を浴びながら、我々は牡鹿について、この喫茶店について、そのほか他愛のない話をした。

どうやら牡鹿は森の神様であると信じられており、罠にもかからず、畑も荒らさない人畜無害なあの牡鹿こそが神様と呼ばれ長年親しまれている個体なのだそうだ。今は片角であり、ふたつの角が取れると神として死んでしまうという。それを聞いた途端に私はつい噴き出して、確かにもし自分があの牡鹿であったら、威厳を損ない丸顔を晒してしまってはもう格好がつかなくて神を名乗れないだろうと言ったら、幼馴染は真面目に言っているんだと冗談に対応するような口調で言った。

入店から15分が経過したころ、私はお手洗いに行くと断ってから、幼馴染からは場所を訊いているだけに見えるよう、カウンターで新聞を読む初老の店主におずおずと「いつまで居ても良いんですか」と話しかけてみたが「そりゃあもうごゆっくり」とだけ返されてしまい、結局小一時間ほど話した。退店時も店主は気にしていないようだった。


思ったより長居をしてしまった。太陽のてっぺんが山の向こうへ沈みゆくのを見て、ここは圏外だけど置手紙はしておいたからゆっくり帰ろうと提案を受けた。

早く帰りたかったわけではないが、私はつい近道をしてみないかと提案してしまう。「あるんでしょ、肝試しでもしながら帰ろうよ」

ひと夏の思い出作りのつもりで口走ってしまったが、行った先は軽トラック一台がスレスレで通ることのできる私有地の一角の断崖であった。端には柵も無く、暗闇で底は見えない。ここを抜ければ後は一本の獣道を通るだけなのだそうだが、危険だという。

慣れない田舎で恐ろしくもある一方、馬鹿な私の脳裏を占めていたのは、彼への密かなアタックチャンスを逃すまいといった意見だった。どうせ彼が私の気持ちに気付くことはないのだろうが。やるだけやらせてほしいと祈った。
普段は私が彼を引っ張るような発言が多かったのもあり、最終的にそれは決行された。

立ち入り禁止の札を潜り、街灯もない道を、画面の小さい携帯電話の画面から放たれる僅かな光とサンダルの裏に感じるジトジトした轍を頼りに、土地勘もない私が先に一歩、また一歩と進んでいく。

大きなカーブに差し掛かったあたりで何か照り返すものが此方に進んできたので、私は情けない悲鳴を上げた。

「あれ、神様じゃん」すぐ後ろで幼馴染の声がした。暗闇に眼光を光らせるのは、確かに先程喫茶店の前でのんびりしていた牡鹿であった。

かなり大きいとは思っていたが、頭の位置が我々より高く、威圧感とともに老いと比例して毅然とした印象を受ける。

牡鹿は道を塞ぐように立ち、「どいて」と本題に入ってもお構いなしである。獣相手にやっても仕方ない問答を繰り返していると、それはやがて私の胸の高さに頭を下げ、鼻先で押すようにそのままゆっくり前進してくる。

私は牡鹿と相対し、それを相手に手押し相撲をさせられるような格好になる。引き返せと警告を受けているようにも感じられ気味が悪くなったが、それ以上にじれったく感じた私は愚行に出てしまった。

「もういいよ、ここを伝っていこう」

崖際に生えた木の枝を掴み、根に足を乗せ、牡鹿の裏へ回ろうとする。

器用にそのまま振り向いて見せたものの、「どうしたの、来ないの」と言い切る前に、私は根から足を踏み外してしまう。

身体を支えるものを無くした私は、思わず隣にあった牡鹿の片角を掴む。幼馴染も、反射的に私の反対の手を掴む。しかし泥濘に踏ん張る足を取られていき、彼まで同じように足を踏み外してしまった。

老いた牡鹿が一人で私と幼馴染を助けようとするのか、ただ引きずられまいとしているだけなのか。私が足を踏み外したものと同じ根に器用に足を運ばせながら、踏ん張っている。それを見た私は今更近道の提案を後悔し始め、目前の獣に頼るほかない申し訳なさと無力感に苛まれながら、自分の手が釣っている幼馴染の重さに悲鳴を上げる。誰の行いも虚しく牡鹿の角がポロリと取れてしまい、支えを失った我々は転落してゆく。

私たちは、この後どうなるのだろう。この足元の闇は、どこまで続くのだろう。

神様、ここへ来てごめんなさい。「お兄ちゃん」、ごめんなさい。自分勝手の末、今更何に縋ろうと無駄なのに、許しを請う相手を探した。

その牡鹿は、私の眼差しを憐れむように小さな声で鳴いた。


頭を貫く痛みに目を覚ます。手を当てると流血しているのがわかる。

暗闇と体中の傷でうまく目前が判別できないが、どうやら落ちた先の川岸かなにからしい。湿った砂利を手探りに触ると、すぐ近くに自分に似た感触の物体を見つけた。

腕、肩、頭。まぎれもなく彼のものだ。

「ねえ、起きて」「起きて」「…お兄ちゃん」「お兄ちゃん、起きて」

私が実際に彼をそう呼んだことはない。彼は私の兄ではないから。彼は何故自分がそう呼ばれているのか、わからないだろう。それでも呼んでしまう。今まで、そう呼びたくてたまらなかった。

少しずつ傷だらけの幼馴染の姿があらわになるも、またすぐに視界を血と涙が覆い隠す。どうすればいいかわからない。

意識のない彼と、意識朦朧のままただ泣きじゃくるしかない子どもの私のもとに、やがて角のない大きな牡鹿がやってきた。

その牡鹿一歩一歩踏みしめて、私の向かいに辿り着くなり云った。

「たわけめ」

幼い私は助けを請うとも激昂とも取れない態度を取るほかなかった。私一人で彼を手当てするのも、自分より体格のいい彼を担ぐのも不可能だ。この牡鹿が頭のいい奴ならどうにかして助けてくれるのかと期待した。悪いのは私だが、わざわざそんなことを伝えに来たのか。自分を罵るほかない私の態度に牡鹿は続けた。

「こやつが助かる道ならある。命を分け与えればよいだけの話よ」

「それはもうお前の力だ、止めはせぬし、もう儂には止めることもできぬ」

代償を払えば、助かるというのか。構わない。この人の為なら、迷うことは無かった。私は頷いた。

「だが忘れるな、人の子であるお前が、図らずとも私からそれを奪ったのだ。お前は理に祟られる。儂が望まずとも、止めようとも」

別に欲しかったのではないと喚く私と足下の川を、月明かりが映した。

目に入ったおかしなシルエットが目に入ったので涙を拭き、おそるおそる水面を見てみると、折れた牡鹿の角らしきものが、自分の頭に刺さっていた。

「面倒なことになったな、人間」


あれから数年、私はあの喫茶店で住み込みで働かせて貰っている。

転落のあと、私は喫茶店の店主に助けられたそうで、目が覚めると見知らぬ少女の姿になっていた。

その後、沢山の説明を受けた。
あの山は店主の私有地であること。
幼馴染はその後、無事に救助されたこと。
かつての私は、あれから死亡扱いになっていること。
最近、森の神様が店に来なくなったこと。
この地域で土地神様が持つ祟りのこと。
自分の頭にある異物が、あの神様が遺した祟りであるとすぐに理解できること。
一命をとりとめた少年の隣で死亡が確認された少年が、私であると知っていること。

説明のあと、こっぴどく叱ってくれた。だがその後に、子どもの過ちにしては重すぎると言ってもくれた。

それから私は親のように接してくれたその店主を「おじさん」と呼び、親代わりに慕った。

もう生きてはいないだろう牡鹿の云う通り、本当に面倒な事になったのだ。
しかし、この生活は悪くないと思っている。

祟りは深刻なものではなかったし、なにより。
また夏になれば、お兄ちゃんが来るはずだから。


慣れない田舎暮らしとか、おかしな営業時間のおかしな喫茶店の切り盛りとか、かつての自分の死を受け入れるとか、そんな経験をしてから、次の夏。

店主には「そろそろ時期だから私が表で看板娘をやってもいい?」とかわい子ぶって無理を言い、営業が始まると毎日勝手にテラス席を設けて、かつての牡鹿のように軒下に陣取ってはコーラやメロンソーダを飲んでいた。

丁度一杯飲み干す頃に日が沈むのを眺める日々が続き、ラストオーダーという名の開店から数十分の間にまばらにやってくる近所のお客さんには可愛がられたので、やがて店主の親戚の名物ウェイトレスという設定を作る必要が出てきてしまった。

勝手にコーラを飲む罪悪感も薄れた頃、待望の「お兄ちゃん」は現れた。
生前の私が知らない同年代の女の子を連れて。

全くもって失念していた展開に、ろくに接客を出来る気がしなかった。

私はテラスに腰掛けたまま動けず、隠れるように溶けた氷をストローで吸いながら、見せれば伝わるかもしれないバンダナの奥の角を手のひらで覆い隠し、何故か給仕の格好をしている只の客だと思われても仕方がないほど下手な会釈をした。その後我に返って店内に戻り、急いでお冷を出して差し上げてから注文を取った。

顔が引きつっていたと思う。

今更そんなことを言っても伝わらないのかもしれないが、あわよくば機会があれば自分の正体や、元気であることを打ち明けてみるのもいいと思っていた。そうだ、女である今なら、彼も気持ちに気付いてくれるのではないか。とにかく今日まで会いたくて仕方なかった。
叶って欲しいものと叶って欲しくないものが同時に叶った。

二人は小一時間ほど話してから帰った。なんだか「お兄ちゃん」の声のトーンは私と話していた頃より少し高い。ガールフレンドに違いないと思った。

数日後、再び現れた二人の会計時、私は不自然な問いかけをこぼしてしまった。

「今年は…いつまでいらっしゃるんですか」

困った顔をして、どうしてそんなことを訊くんですかと冗談に対応するような口調で言った幼馴染の後ろで、女が先に店のドアを開けると、風が入り込み、女の被っていた麦わら帽子が飛ばされそうになる。

かつて私の手を握ってくれた男の手が、小さな悲鳴を上げた彼女の頭から完全に離れてしまう前にそれをすばやく取り、返してやる。

目前で色々と見せつけられたのち、閉まったドアの向こうで、私と女の切れ長な目が合った。その女は私に向かって舌を出し、帰って行った。

その時ふと、祟りは魔と引き合う習性があり、祟りを生み出しやすくなるとおじさんが言っていたのを思い出した。

黄昏のなか、あの女の頭に、黄金色に輝く狐の耳が生えていたのを盗み見たからだ。

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