新世界系日常アニメ「リコリス・リコイル」

※当記事では前提として「日常系」「セカイ系」「新世界系(シン・セカイ系)」「新日常系」といった概念への言及がちょっとだけあります。また当然のようにリコリコ最終回まで、また近縁作品(と考えている)「カウボーイビバップ」のネタバレ(というか知っている前提で書く)があります。よろしくお願いします

「リコリス・リコイル」があえてシリアスすぎないように物語を終わらせなかったのは、結構斬新な方だったのではないか?いいや、それ自体には普遍性はあるし、多分最近の流行でもあるんだろうけど。だから、本作はその流行を作ったかもしれないし、あるいは既に存在していて、進めたのかもしれない。という話である。

つまり新日常系、新世界系といったエッセンスを見せつつ、このアニメはどちらへ進むことができるとメッセージを見せつつも、あえて自ら日常系的な着地を選んだのではないか。

二つ目の心臓や真島の目的といったネタばらしを終えた上で、選ばれた力を使って真島とともに世界に作用する立場の人間になるか、百合百合しい日常への帰還を選ぶかが問いかけられても、千束は後者を選び、エピローグでは本作があくまでも単なる萌えアニメであることをいかんなく発揮した。

「事件は事故になるし、悲劇は美談になる」

平和な日本の裏側では、戸籍のない少女達が極秘裏に治安維持に駆り出される。そんな薄暗い「新世界」を見せたのに、あえてちょっとボケた日常と萌えへ帰ってくるのだ。

この終わり方への不満はいろいろ読んだ。Twitterにおいて自分の周りでは折り返し付近で脱落した人も居た。

「なんでそこでわざわざ甘口にするのかわからない」「テーマの提示から逃げた」といった感じの意見もあった。ある程度理解はする。「結局セカイ系かよ」と批判する声も見られた。

わからんでもないが、果たしてそうなのだろうか。執筆時点では俺はまだ違うかもと思っているからこうして書いている。
こういった意見が散見されるのはおそらく、最終回での千束の台詞が決め手なのだろう。

「大きな街が動き出す前の静けさが好き。先生と作ったお店、コーヒーの匂い、お客さん、街の人、美味しいものとか綺麗な場所、仲間、一生懸命な友達、それが私の全部。世界がどうとか知らんわ」

もっと辛口にできたはずなのは、多くの人が考えていることだろう。もっとリコリスという少女達の闇、DAなる機関のズブズブ具合を書くことはできただろう。
吉松以上に不殺主義への言及、一時しのぎの人工心臓で今を全力で生きた千束の最期。
DAに復帰するという当初の目的と、千束とのバディ、ひいては喫茶リコリコでの新しい生活を天秤にかけねばならない残酷な選択を迫られるたきな。

あの二人のうちどちらかを死なせ、互いの居ない世界に残された片割れを書くことも出来たはず。実際、たきなの描写が不足しているように感じたので、やれば彼女の掘り下げにもなったかもしれない。
前半であれだけ千束の過去と未来を連想させ、いささか刹那的な享楽を表現した百合表現の数々を見れば、多くの視聴者が今後の展開を予想しては「頼む。死なないでくれ」と独り言ちたはずだ。
実際、「十代の女の子ふたりが彼岸花に火をつけて吸う」という激エモアイキャッチも話題になったし、不穏な展開に関するタメはこれでもかとバラまかれていた。

かっけェ…

しかし、書かなかった。個人的には予想をはるかに超える甘い終わり方だった。

結局千束は真島を含め誰も殺さず、吉松が提供した心臓を手に入れたことで、寿命の問題は解決された。
DAは大スキャンダルである最終決戦を一種のフェイクニュース、演出として処理し、不完全とも思える対応であるにもかかわらず平和ボケした民衆を見せることで世間へのリコリスの露呈を防ぎ、今後ものうのうと暗躍することになる。
たきなはそんなDAに復帰することも無く、リコリコの仲間たちと合流し、第二の人生を続けた。
ヴィランである真島ですら九死に一生を得、人混みのなかでこれからも反社会的勢力として生きることを示唆させるシーンがあって終わり。

数少ないメインキャラの死(可能性こそ高いが決まってはいない)、吉松の喪失はミカが大人として背負うものの、それ以外では、大切なものを失ってしまった世界に残された人々を書くことは控えられ、「ちさたき」というミニマルで妄想が捗る関係が思う存分続行できる状態に帰還した。

─ちなみにリコリコとは逆に、ハードとソフトどちらを選ぶかと訊かれ、選択の末に主人公が戻ってこなかった作品を知っている。

「カウボーイビバップ」だ。

あの作品は「ハードボイルド日常もの」だと思っている。どれだけ危険な奴が現れようと、スパイクはジュリアにいつか会えるかもしれないし、ビシャスにはいつか出くわすかもしれない。しかしながら、今はその日暮らしの時代遅れのカウボーイ。あそこに描かれているのはおっさんのモラトリアムなのだ。

しかし、終盤になり女どもが下船し、残った男はかたゆで卵を無心でほうばる。本筋に戻ることを示唆する印象的なシーン。
それまで数章に一度、日常系描写の傍らでチラチラと提示したに過ぎなかった暗部。マフィアの構成員である過去を持つスパイクは、最終的にジュリアと再会し、失い、ジェットの反対を押し切り、ビシャスとの決戦に向かい、相討ちになる。

主人公は日常への回帰を選ぶことなく、最期まで自分らしさを追い求め続け、そして満足して死ぬ。

千束が日常を選んだように、ジュリアのことは昔の女とさっぱり忘れ、これからものうのうと生きることは可能なはずだったが、スパイクはそうしなかったのだ。

リコリコの終わり方をポジティブに受け取るなら「本当に救わなければならない、大事にしなければいけないのは世界ではなく、自分の手の届く範囲であり、それはどんな力を持っていようがその程度でしかない」と言っている気もする。

それはそれで納得できるし、もっとリコリコが好きになる。だから俺は、あの終わり方でも良かったと思っている。

そんなわけでリコリコはおもしろかったし、近年のアニメでもトップクラスに初心者へお勧めできるしバズったことも納得できる名作であった。
何故なのかと訊かれたらおそらく「説教が無いから」と答える。無論、あっても面白いんだよ。けど無いからってつまらなくなるとは限らないよね!カジュアルで良くない?そんな答えかたになるだろう。

もちろん、終わりよければ総てよし!とも言わない。日常描写が無くなってきた終盤はガバガバでツッコミどころ満載だった。特にリリベルとか、アトラクションの広告でしたオチは擁護不能レベルで厳しいと感じざるを得ない。

俺は全部ニコニコ動画で見たので、自分よりも先にガバに突っ込んでくれる奴らが居たおかげで同じIQで視聴することができたが、もしひとりテレビで見ていたら割とキツかったかもしれないし、このnoteは批判記事になっていたかもしれない。

だとしても、少なくとも今年を代表するアニメとして非常にオススメできる。こういうので慣れてもらって、次は「プリンセス・プリンシパル」とか見て欲しいね。アレを見た人はリコリコをどう思っているんだろう。

改めてリコリコ作り手の皆さんも、一緒に見たオタクくん達も、お疲れさまでした。楽しかったね

参考文献(他のも読んだけど読み込めてはいないので自粛)
セカイ系 とは【ピクシブ百科事典】

新日常系 とは【ピクシブ百科事典】

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