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広島KILLED BY DEATH 浜崎左髪子と山路商とアトム書房

広島KILLED BY DEATH 浜崎左髪子と山路商とアトム書房


2010年に都築響一展覧会が広島市現代美術館で開催された。その時、広島現美の所蔵品で一度も出したこと無いものを展示したコレクション展も都築氏のチョイスで同時開催された。その中に比治山に住んでいた広島のダダイスト山路商(1903〜1944)の作品があった。広島でダダイスト!!とテンション上がって調べたらこのような経歴だった。
1923年にダダイスト山路商宣言を発刊
1937年に広島フォルム協会を結成し、この頃の広島の前衛美術、文学の中心であった。広島、比治山に画材屋を開いて画家たちのたまり場を作っていた。画材屋をやりながらダダイストってのが素人の乱みたいでいいなぁと思った。
1944年に特攻警察に捕まり獄中死している。
原爆を知らずに山路商は亡くなった。
そして1945年に原爆が投下され、そこから広島は今日までヒロシマとして語り語られてきている。
都築展では広島太郎が大フィーチャーされて街中に張り巡らされていた。

2011年に東日本大震災と原発事故が起こり、これから、放射能にまみれながらビビりまくってどうやって生きていけばいいのかと考えさせられてた時に「ニッポン40年前」という1985年に毎日新聞社が出した本を2ちゃんねるのまとめサイトで紹介してた。

ニッポン40年前

1985年から40年前だからまさに戦後すぐの日本の暮らしをカラー写真も交えながら掲載されてて、

Bookseller Atomのロゴまでカッコいいアトム書房


「ヒロシマで最初に開いた店」と説明にあるアトム書房は戦後短期間で店を閉じ その詳細は不明 原爆ドームの真下に「アトム」(原子)と名付けた店を出した店主はどんな人物だったのか 1946年 (K.B)

これはさすがにコラでしょと思うんだけど、雑誌を複写したものだからコラにしては手がこみすぎてて、でも、鉄腕アトムすら登場する以前のアトム(=原子力)の本屋が原爆ドームの目の前にあるってちょっとどころか全く信じられない。原発と放射能にビビりまくりながらデモをやりまくっていた震災後の自分に、今の恐怖と怒りとは全く違う、不謹慎だけどテンションと高すぎてあまりのフットワークの軽さに驚き、放射能にまみれながらビビりまくってどうやって生きていけばいいのかのヒントや知恵、いや答えがあるやんけと。アトム書房の店主を調べたら当時20代で、山路商との年齢差は20くらいしか離れて無いはずだから、何か繋がりがあったんじゃないか?という仮説でずっと調査をしていた。

広島県立美術館で船田玉樹展をやってた頃、学芸員の永井さん(当時)が山路商や船田玉樹、末川凡夫人などのマニアック広島戦中ダダ画家情報をたくさん教えてくれたりしてて、船田玉樹のご子息の方や戦後広島の画壇についてこの人を避けて通れないっしょでお馴染みの広大名誉教授の金田晉さんの文章とか色々教えていただいた。

第二次世界大戦後の広島美術の出発点の一側面 戦後広島の美術的展開 金田晉 

これによると、原爆投下前、戦前の広島原爆ドームは産業奨励館と呼ばれ、展示やイベントをやる広島の中心地で、山路商、丸木位里、靉光、などなど広島の若手画家がグループを作っては解散し、結成してを繰り返すし文面で読んでも喧嘩しまくって個性爆発させながら産業奨励館で展覧会、グループ展をやりまくっていたのがわかる。

1944年に亡くなった山路商という点と戦後の原爆ドーム前に出来たアトム書房という点を全てが原爆でという枕詞が付いてしまう広島の戦前戦中戦後を原爆じゃ無いもので繋げたくて何度も広島へ向った。山路商が住んでたのはこのあたりじゃなかろうかと中国新聞の道面さんと一緒に比治山の下の神社や酒屋さんや向かいの城田製作所あたりでインタビューしまくってて奥の古民家の田中弘毅の名作座ってところに突撃したら、赤いダウンを着た大男のお爺さんが出てきて山路商が生きてた!と思って興奮したんですが、本人とはなんの関係も無かった。
城田製作所の看板も目の前の酒屋の包み紙も浜崎左髪子という山路商と同世代くらいの広島の画家が描いたものだと知り、その時は山路商の住んでた場所はわからず帰りの新幹線で「浜崎左髪子と広島」というブログを見つける。広島の和菓子屋 平安堂梅坪で働いてる方が職場にやたらと左髪子の作品あるやんけで調べ出したら止まらなくなってどんどん調べては報告しまくってるという内容で、あまりに面白すぎてすぐにブログの主にメールを送った。こちらのアトム書房調査にも興味を示してくださって、次に広島に行ったら会いましょうとやりとりをしてからもう10年以上のお付き合いですが、直売やらイベントやら広島で何かあると来てくれる。勝手に広島渋柿隊の1人だと思ってるその人が佐藤さんだ。

中丸雪生


中丸雪生の展覧会を泉美術館で現在学芸員をされてる永井さんが企画されてて、その方の名前知らないなと思ってたら、広島に住んでる人でもなかなか中丸の名前を知ってる人はいないと書かれてて、そんな中で調査してたら丸木位里の未発表作品を発見したとSNSに投稿されてて学芸員人生で最大の発見とまで書かれていて、そんで中丸展で丸木美術館の岡村さんを呼んでトークをするって、おい!なんてタイトルのエロ本ですか教えてくださいよ。
たまんないんですけどと本人に全裸でメール送ったら、内緒だよとトークデータを送ってくれた。
永井さん真面目な方だから大発見のことをハイテンションで話すことはなく淡々とはなされてて、左髪子ブログの佐藤さんが感想を書かれてて、中丸雪生と浜崎左髪子や丸木位里らとの手紙のやり取りも展示されていて、作品だけじゃなく人となりが浮き上がってくるとても素晴らしい展覧会で泣きそうっていうより泣いてしまったと書かれてて、見に行けばよかったと思いながらも、でも佐藤さんのような感受性は俺持ってないから、行けなくてよかったのかもしれないとか無理矢理な落とし所作って安心してたら、次は浜崎左髪子展やるっつうじゃ無いですか!永井さんにお会いした10年前も、左髪子展ねぇ、やんなきゃ、やりますよいつか、、、と単なる口約束のトーンで絶対やらないと思ってましたスンマセン。
佐藤さんが感無量と書いて左髪子展の開催をポストされてて、思わずスクショ撮ったけど、これ伝わんないと思うけど、俺は佐藤さんの左髪子と広島の10年間にわたっての読者なので、それ以外に言葉いらんやろってのもわかる。今言葉がどんどん先鋭化されていって、美味しいだけじゃ語彙力とか言われてしまうけど、10年思い続けた人の展覧会開催されるって分かったら感無量以外無いっしょ。

ようやくタイトル回収かもしれないけど、比喩を知らないもので喩えるって
どう思いますか?
わからないに対してわからないをぶつけたい。それで化学反応が起きなくても。


killed by deathシリーズ


1990年代中頃に1976年から1983年頃にリリースされた世界中のB級いやC級のパンクバンドを集めて勝手にリリースしてたKILLED BY DEATHってコンピレーション。MURDER  RECORDってところがバンドに無許可で出したりしてたっぽいんですが、今度はMURDER以外の勝手に名乗ったレコードレーベルが続編を勝手にリリースしてVOLいくつまで出たかわからなくなって100まで出たことになったりしててめちゃくちゃ面白かった。VOL.64や32は無いのに100はある。
パンクが好きすぎて上京してDEAD BOYSとSTIFF  LITTLE FINGERSを知ってるだけで1番パンクに詳しいと思ったら、絵が上手すぎてて美大入った奴と同じで、当時の高円寺なんてコカコーラよりもカルピスウォーターよりもDEAD  BOYSやSTIFFは有名を超えた定番だった。
B級、C級聴いてもピストルズが1番最高でしょってのに異論はないし、バズコックスのメロディも良いんだけど、まだやられてないパンクってあったでしょ。と思い直させてくれるのがC級のパンクを集めたKILLED BY DEATHの凄さで、現在ではなく当時の無名のパンクを集めることで、ビートルズよりピストルズの方が早かったんじゃないか?って捏造が起きてくるんすよ。
ピストルズの方が雑だし粗野だし完成されてないから、ピストルズのライブの最前線にジョンレノンマッカートニーリンゴが居てスターになって行ったんじゃないかとか。

いや、そんなことは無い。あるわけないんだけど、当たり前の歴史の事実として知っておくべきなんだけど、じゃぁ聞きますが、机と椅子ってどっちが先に出来たんすか?
椅子の方が早そうだけど、その根拠って何だろうか?藁で作った家とか見てたら真ん中に囲炉裏みたいなのがあって地面に座ってるし机も見当たらない。ってことは机とか椅子よりも家が先なの?
ってか何の話でしたっけ?




1990年代に1970年代のB級C級パンクを深掘りってそれは御三家パンクがやってたコピーでしょとか思って聞いたら大間違いで、まだやられて無かったパンク表現が残り香以上にあったし、

KILLED  BY DEATH FRANCE  rare punque Francais `77-83


例えば70年代末期のフランスのマイナーパンクだけを集めたKILLED  BY DEATH FRANCE  rare punque Francais `77-83には英語じゃないフランス語でのパンクが収録されているんだけど甘ったるくて怒りを感じることもないけど、絶対に英語では歌わない強さやプライドもわかる。が、音とフランス語とパンクが乗っかることは無理か、、、と諦めかけた頃に、ガソリンってバンドの曲が流れるんですが、この待たされる時間、フランス語で退屈を味わわされて直撃させられる痛快を超えた、このパンクの感覚知らんす。ってのを味わわせてくれる。1970年代当時のバンドはこんな感じの音んなじゃないの?ってコンセプトで出来たというか、そう思い込んでるのが、このクロロフォルムってVAで、70年代パンクを90年代に70年代のまんまで出してる。これはつまり、ビートルズがピストルズをコピーして60年代にリリースしましたって言うくらいのタイムスリップ落語みたいな感じなんすよ。90年代に70年代みたいでしょってリリースしてんだから。一言で言いたくないけど超わかりやすく言うとゆらゆら帝国が出てきた時に当時の人達がそのまんまの姿で、そのまんま当時の楽曲をやっているかのようなタネも仕掛けもないタイムスリップ手品を味わわされたようなあの感覚ですよ。

新しい骨董名義で勝手に作った
東洋鬼シャツ 坂本淳さんが買ってくれた。


1930〜40年代に山路商が広島の流川で東洋の鬼と書いて TOO YANKEE という手作りの冊子を戸板に並べて路上販売してたセンスって、その後の原爆ドーム前でのアトム書房に接続しますよねと。二人に何の接点も無かったとしても土地がやる気にさせたって意味では友達同然だし、それは震災後すぐに仲良くなって、東京から地方にみんなが逃げ出す中で、広島から逆走するテンションで家出と上京かましてたダダオ君と広島の最重要重鎮ことレコードショップミザリーのガイさんとの年齢差が20歳くらいってことを考えたら、山路商とアトム書房、ダダオとガイさんで全部繋がってるヤンけやんけと思ってた時に、中丸雪生って知らん人が突然登場したと思ったら浜崎左髪子と20歳くらいの年齢差があったと。おいっ!さらにさらに、学芸員の永井さんが浜崎左髪子が原爆投下以前に住んでた材木町の場所を特定出来たとFacebookに投稿されていて、あれ?俺は山路商の家を知りたくて調べてたら浜崎左髪子に出会って、永井さんはそれから10年後に浜崎左髪子が住んでた場所を特定されて、俺居なくても俺がやりたい素晴らしいと思った世界が加速してあり続けてるから、俺が死んでもバレないくらい嬉しかった。俺はもう死んでいる。そのくらいの喜びがあったっす。


なんだかそんな感じがしてるんですよ今の広島の中丸や左髪子の再評価感って永井さんがやってることだけど次回以降は違う人が勝手に居なかった歴程美術協会のメンバーの作品を捏造して発表したりとか、そのくらい需要と供給をフルにシカトして、マジでこの作品どうやって集めたんすか?
インターネットの集合知なかったら無理じゃ無いっすか!を軽く蹴散らして超えていく感じが最高で、この最高に気がついてる人がめちゃくちゃ少ない気がする。10月から始まる左髪子展超楽しみです。


奥の古民家の田中弘毅の名作座ってところに突撃したら、赤いダウンを着た大男のお爺さんが出てきて山路商が生きてた!と驚いたけど全然違う人だったと書いたんですが、それからしばらくして、友人のイベンターである天野宇空さんことウクレレ君がが新宿ネイキッドロフトで父親のイベントやりますってツイートしてて、そのタイトルが田中弘毅の名画座で、ええええっ!あの赤ダウンのおじはウクレレ君のお父さんだったの!ってか、あそこが実家だったんすか!と比治山の下はまだまだもっともっと探しまくりたい。

何を書いてもハゲてない頃の写真のコメントしか来ないんだな、コレが。
ウクレレ君の実家だとは知らずに撮ってた




-広島を愛した反骨の画人- 浜崎左髪子


会期
2023年10月17日(火)~2023年12月3日(日)
会場
泉美術館 第一展示室・エントランス・第二展示室
開館時間
11:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日
月曜日

https://izumi-museum.jp/2015/


スペシャルトーク
「浜崎左髪子のこと」
講師:田谷行平(画家、新協美術会理事)
日時:11月12日(日)14:00~
場所:泉美術館展示室
参加希望者申し込み制(20名)
※申し込みなど、詳細は美術館にお問い合わせください。

当館学芸員によるギャラリートーク
日時:10月28日(土)、11月25日(土)
各回:14:00~
講師:当館学芸員
予約不要
※展覧会チケットが必要です。


↑おいっ!この日行けないやんけ!録音したらダメだぞ、いやバレなきゃいいか、ダメにキマってるだろルールを守れよ。もし守れなかったらこっそり送ってください。いや、ダメだっての。みなまで言うな。


このスクショNFTで売れるだろ、佐藤さんの感無量と岡村さんのいいねが付いてる。たまらんでしょ。


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