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分からなくても、面白いと感じられるか:Vaundy


あたりめです。


Vaundyの新譜replicaを初めて通して聴いたとき、こりゃえらいことになったぞ、と思った。

ゆくゆくこういった変化というか流れをもって楽曲を生み出していくことになるという話は、基本的に楽曲のみを追っていた私みたいなリスナーですらやんわり耳に入っていた。今回アルバムがリリースされたということで、その雰囲気が感じられる楽曲もいくつかあるんだろうなぁ〜〜とライトな構えで再生したのが完全にミスだった。



バウくんのこれまでの楽曲は、なんというか整えられた綺麗なものが多かったように思う。



2020年、ラジオでヘビーローテーションに起用されていた '灯火' を聞いたのが出会いだった。それ以降、「今回はこんな曲…!」「エッ待て次これ!?」「チョイチョイチョイ次もまたこんな違うんか!?!!?」といったことが数え切れないほど繰り返されてきたけれど、バウくんの楽曲はいつだって気持ちよく、不思議なほどに耳から身体の隅々までするすると浸透していくものばかりだった。たとえそれがどんな姿かたちであろうとも、私たちから『視えやすく分かりやすい』、彼が作り出した "外側" にある作品だったのだ。

そういった "これまで" が色濃く存在しているなかで、新譜のreplicaを聴いた。正直、かなりびっくりしてしまった。徐々にとかそういうの、彼には無いんかいと。オセロをまとめて全部ひっくり返されたような感覚だった。



replicaの楽曲たちについて、整えられているか? 綺麗か?と聞かれたら、私は首を左右に振ってしまう。あまりにも、彼本体の生々しい質感を受け取ったからである。私の初聴きの感想は、「うわ これ、めっちゃ生身やん…」だった。



これまでバウくんを通し "外側" で生み出されていた音とは完全に毛色が違っていた。これは彼の "内側" と、それから そこに彼本体の生身の音がすこし絡みついたような、肉というか呼吸の跡というか、そんな感触がした。だから思った、「これはえらいことになったぞ」と。完全にリスナーの感想も二分するだろうなと感じた。綺麗に整えられていたことで、これまですんなり身体に入ってきていたものが どうもつっかえる感覚。replicaはとんでもなく凸凹なのだ。



この説明書なき生の質感たちをどんな風に受けとるか。説明書が無いからと諦めるのか、異物とみなし拒絶するのか、面白いと感じ "これまで" を破壊しながら楽しむのか。なんか笑けてきたな、これ2枚目のアルバムでする話なんか?どういうこと???



漠然と感じた凸凹した生身の質感に、なんだか "バウくんのこと" を知れるような気がした私は、できる限りたくさんのインタビューを読むことにした。そのとき とても衝撃を受けた彼の考え・言葉があったので、それについては先日noteを書いている。


今回はその個人的な話とは別に、ツアー大阪公演と 楽曲に関連するインタビューを記録用としてまとめておきたい。





私はこれまでフェスでしかVaundyのステージをみたことがなく、今回初めてワンマンライブに行ったのだけど、シンプルに人を入れすぎてて笑っちまいました。まず360°構成なのを知らなかったし、立見もマジのMAX、バックサイドの立見までびっしり人がいた。どこもかしこも人。人からの人。見渡す限り人。この絵画のタイトル、一分の狂いもなく『需要と供給の不一致』。これ以外は受け付けません。




アルバム収録順と同様にSEの 'Audio007' → 'ZERO' の流れでライブが始まったのだけど、'ZERO' でスタート切るの、ほんとに最高だったな〜〜

こういうスタジアムロックっぽい楽曲ってその場の空間のデカさを自然と意識するし、普段 "対1" で聴いていたそれを今 "対群衆" で聴いているということに スイッチが切り替わる感覚を分かりやすく体感出来る感じがあった。



あと、ショーの幕開けが呼び起こす 地鳴りみたいな歓声と、'ZERO' という楽曲が融合することで初めて『1』になるみたいな空気感も感じられて良かった。そうだ、これめちゃくちゃ意外だったんだ。



これは私の超偏見がもたらした感想なのだけど、お客さんの熱さが想像の斜め上を行き過ぎていてビビった。私は勝手に バウ勢は各々肩でも揺らしながら渋めに楽しむんかな〜?と思っていたところがあったので、ライブ全体を通したときの歓声のデカさだったりハシャギ方なんかはわりと衝撃要素だった。めっちゃ無邪気で可愛い群衆だったなぁ。




ライブ全体の話となると、演出も印象的だった。炎とかの単体として分かりやすく派手な演出を用いないところ、とても彼らしいなと思った。ツアーでは毎回こんな感じなのかもしれないけれど、セットそのものや 演出で使った照明の色味なんかが極限までシンプルだったのがとても印象的だった。

複数の組み合わせから発生する空間を楽しむ演出ではなくて、その空間の元に存在する一つひとつの『もの』を際立たせる演出だな〜と私は感じたのだ。この表現ってあの照明で出来てるんだ、とか、これってああいう風にも使えるんだな、みたいな、楽曲の世界観を成立させている要素の骨組みに視線が誘導される感じ。

実際演出に彼がどこまで関わっているかは分からないけれど、ここまで "もの" を楽しんだライブは初めてだったし、すごく記憶に残っている。




歓声のデカさの話の延長戦みたいになるけれど、'ZERO' の次に披露された '裸の勇者'、ここで1回体感としてのライブ終わったもんな。普通に「ラストの曲です!」の空気出来上がってたもん。マジで満腹感が2時間見たあとのそれ。一緒に行っていた友人と思わず「まって終わった?これライブ終わった?」という会話を繰り広げてしまった。よく分からん感情すぎてとりあえず半笑いしていた気がする。



このあとは '美電球' → '恋風邪にのせて' → 'カーニバル' → '踊り子' と続いた。新譜replicaに収録されている "凸凹した生身っぽい楽曲" と、既出の "味わいが綺麗に整えられている楽曲" が交互に繰り出されたここの流れ、駆け引きに振り回されまくる人間関係みたいな重力の漂い方をしていてめちゃくちゃ楽しかった。

それから、私はバウくんの『弧を描くような声』がとても好きなので、それがつよくあらわれている(自分の好きなかたちであらわれている) '恋風邪にのせて' が今のところ彼のなかで最も好きな楽曲だ。





ライブ中盤に組み込まれていた '常熱'じょうねつ'宮'みやこ'黒子'ほくろ あたりは、インタビューでも アルバムの質感がより感じられる楽曲だと発言していることが多かったし、演出も 今なおハッキリと思い出せるほどに濃いものばかりだった。

このあたりの楽曲は特に ミュージシャン・Vaundyというよりも、クリエイター・Vaundy、もっと言うと "ものづくり" が好きな青年・バウくんをみせてもらえたような気がした。

展覧会に招待され みせてもらったものではなく、段ボールの切り残しが転がっていたり 接着剤の匂いがなんとなく残っているような部屋でみせてもらった、出来立てほやほやのワクワクがぎゅっと詰まっているもの。整えることが作品のすべてではなく、彼自身が織りなす音の味わいをひとつの可愛さとして落とし込んでいるような、そんな感じ。





中盤のラストで披露されたバラード '呼吸のように'。これはもう ただただ良い曲すぎる。バウくんのバラード、マジで全部大好きなんだよな〜〜〜

この楽曲に関してはピアノがSuchmos・TAIHEIさんの時点でお察しである。単音のところなんてこの上なくシンプルなのに、なんであんなに泣きそうになるんだ。ピアノに何かしら非合法のヤバイ性能が備えられているとしか考えられない。目の前で人が泣いてしまって それにもらい泣きしそうになるのを我慢する感覚が5:45、ずっっっと続くのだ。




あまりにもたからものだなと思った、Spotify Liner Voice+での '呼吸のように' に関するバウくんの言葉を引用しておきます。

・「同じ空気を吸うのってなんか、尊いじゃないですか、ものすごく」

・「空気の中に宿る愛みたいな。愛だったり、熱だったり、心の動きだったりとか。音も空気の振動ですから、なんか、愛っていうのも空気の振動で伝わってもおかしくないと思いますし」

Spotify Liner Voice+ より



バウくんのバラードって、なんていうか『ド・バラード』なんだよなぁ。'しわあわせ' 然り、'走馬灯' 然り、今回の '呼吸のように' 然り、変にスカすことをしない 王道のバラードというか。どこまでいっても太くてしっかりした一本道だと分かっているから、安心して心を委ねられるのかもしれない。凝り固まった内側を緩やかにほぐして、音と聞き手との間に存在する温度を可視化してくれる感じ。たまらなく好きだ。




その後 'Tokimeki' → '花占い' で終盤の畳み掛けゾーンが始まったのだけど、'花占い' が持つエネルギー、想像以上に半端なかった。個人的には '怪獣の花唄' よりもこちらのエネルギーのほうが好きかもしれない。ライブ中、心を興奮に占拠されすぎると 訳が分からないまま諸々が過ぎ去ってしまう事故が起こりがちなので、そういう面を含めたときにも、'花占い' は最大幸福値を全身で感じながら踊れるめちゃくちゃありがたい楽曲かもしれない。おれ、身体の隅々まで楽しかったッス!!!



そして '花占い' 以上に、生で聴いてその印象がグッと変化したのが 'トドメの一撃' だった。ライブで聴いて急激に好きになる楽曲ってどのアーティストでも絶対出てくるんだけど、今回はこれだった。



最初音源としてこの楽曲を聴いたとき、正直消化の仕方が分からなかったというか、噛み方に迷ってしまい、自分のなかで「ちゃんと味わえてないな〜」という感覚が残っていたのだけど、この楽曲を披露するバウくんの姿を見たとき、ウンワ〜〜〜!!!とうなってしまった。

'トドメの一撃'、オマエ、いちばん自由に踊れる音しとったんかいな………!!!!!


ステージ上のバウくんが、音に身を委ねてあまりにも楽しそうに踊っていた。その瞬間に、どうやらこれは『楽曲が持つ味わいを楽しむ』というよりも、『楽曲に自分の味わいを乗せて自由に楽しむ』要素がつよいぞ、と感じたのである。透明・白・プリズムで構成されたきらきらした世界にポイッと放り込まれ、「あとはご自由に彩ってください」と言われた状況。エエエ良いんですか!!?ってなるやつすぎる。いちばんワクワクするやつなのだ。


ライブ以降、私は 'トドメの一撃' を聴くともれなくご機嫌になってしまう身体になった。健康的でよろしいということにしておく。




「アニメ化の発表がされる前に勝手につくっていた」らしい 'CHAINSAW BLOOD' は、彼が原作漫画を読んでいたときに流れていた音から生まれているとのこと。これもSpotify Liner Voice+の内容だけど、楽曲内で鳴っているチェンソーの音について話すバウくんがもはやミュージシャンというより 映画などの効果音職人(フォーリーアーティスト)のようだったのでちょっと笑ってしまった。要約するとこんな感じ。

・チェンソーの音は、いちばん高級な「ブゥルㇽゥゥゥン」を目指してめちゃくちゃ作り込んだ。

・通常エンジン音はウィーーンという音に近いが、『みんなが想像したときに最も格好良いエンジン音』にするため、めっちゃ音を足した。

・現実ではありえない音、アニメ化させた音になってる。

Spotify Liner Voice+ より



この情報、ライブの前に聞いておいて本気で良かった。それから全然笑ってる場合じゃなかった。


2時間のライブのなかで記憶に濃く残っているポイントって、今までダラダラと書いてきたことを含めいくつかあるけれど、その頂点、紛れもなくこれだった。『チェンソーの音』。



待って、これマジだから。フッて笑わないで。超真剣。行った人なら絶対分かってくれる。本当にヤバかったんだって。

てかバウくんもバウくんだろ。チェンソー、あんなボリューム上げるか????? チェンソーが鳴る瞬間・瞬間、バウくんのボーカルはじめ その他楽器隊とか全部の音消え去ってたぞ?????『この世の音、チェンソーかチェンソー以外か』みたいになっちゃってた。チェンソーのROLAND化。



馬鹿みたいな轟音で浴びる 超繊細なチェンソーの音、もう強烈に気持ち良すぎていた。あれは家にあるそのへんのヘッドホンじゃ絶対聴けない。完全に会場限定。ライブから1ヶ月ほど経つけれど、あのチェンソーの音が異常なほどに恋しい。これは罠、惚れた方の負けなのだ。




チェンソーの音ひとつに喋りすぎてしまった。ライブはまだ続いている。

'逆光' のセルフカバー、これはもう言わずもがな、TK(凛として時雨)さんのギターが至高すぎる。もし私がギタリストだったら、TKさんのアレンジ楽曲のライブサポートだけは全力で断る。さもなくば指が終わる。

バウくん曰く、TKさんにアレンジを丸投げして返ってきた時点で リリースされたあの状態だったらしい。怖すぎるだろ。稲妻を彷彿とさせるTK節全開の音、本当に格好良いなぁ。サビにフライングで狩りに入る歪みだったり、止まない豪雨みたいな畳み掛けだったり、ギター音だけでここまで分かりやすく人を特定できることってあるんだろうか。




'怪獣の花唄' を終え、最後に披露されたのはアルバムのタイトルであり、最後の収録曲でもある 'replica' だった。この楽曲は、イギリスのミュージシャン、デヴィッド・ボウイを彷彿とさせるものになっている。

バウくんはアルバムreplicaを通して『オリジナル』の意味について話している。'replica'と いう楽曲においては、デヴィッド・ボウイを知っているか・いないかで、感じ方がかなり違ってくるのではないだろうかと言っていた。

・「replicaを象徴する聴き方というか、懐かしさを覚えさせるんだけど新しさを覚えさせる、2つの意味を持っててオリジナルなんだ」

・「彼以上の彼になる」

・「彼への反抗をすることで、僕が自立をした新しい僕になるんだっていう」

・「親への反抗期があるのと一緒で、僕が好きなものに対して好きだから反抗すると。その上で僕が成立するんだと」

Spotify Liner Voice+ より



デヴィッド・ボウイを知らない人がこれを聴いたら新しいと感じるんだろうか、どんな風に楽しむんだろう、全然分からない、とすこし はにかんだような声でバウくんは話していた。

私はまさにその『デヴィッド・ボウイを知らない人』に当たる(※01.10追記あり)のだけど、Vaundyの楽曲に対しては "楽曲と自分(聞き手)との距離感"、もしくは "楽曲とバウくん(作り手)との距離感" みたいなところを楽しむことが多かった。懐かしさ・新しさの面についてはミリも頭になく、なんだかすみません…という気持ちになってしまったが、'replica' をはじめアルバムの新曲たちに共通して感じた バウくん(作り手)との近さ=生身っぽさというところもまた、異なる角度からみた『オリジナル』の話になったりするんだろうか。

※01.10 追記
投稿したまさに今日、デヴィッド・ボウイの命日であることをラジオで知りました。DJさんが彼の楽曲を流してくれたのですが、めちゃくちゃ知ってました。全然知ってた。なんてこった。
あれですね、曲と歌手をセットで認識していないと こういうことが起こりますね。




好きや憧れを重ね自ら生んだ地層と、生活環境や人間関係から知らず知らずの間に生まれた地層、これが1つになったものがレプリカであり私というオリジナル。すべてのものがレプリカであることが大前提のこの世界で、それでもなお、人の探究心を掻き立てる面白さをもった存在。

アルバムで感じた生身感から バウくんのことを知れるかもと思ったけれど、実際には たぶん余裕で全然なんにも分かっていない。だけどこれまでのバウくんの音楽、言葉、ものづくりをみたときに、今作のreplicaが生み出したものは私にとって圧倒的に面白かった。あちこちが気になるもので溢れかえっていたのだ。



ものごとって理解できる・できないだとか、心地良い・ 奇妙だとかって大して重要ではなくて、『面白い』と感じられるかどうかなのかも。

私はもうすでに、Vaundyの次のものづくりが楽しみで仕方がない。

「可愛い」をたくさん言うひとだと知りました






※参照

サポートの通知を目撃したときは涙と鼻水を渋滞させながら喜んでおります、読んでいただき本当にありがとうございます。感想はこの上ない励みに、サポートは新たな音楽を浴びにゆくきっかけになります。