胡蝶の膳5

 父上が上機嫌で胡蝶を訪ねてきた。


「聡明なあなたなら、必ず大将の寵愛を得られると信じていましたよ。」


御簾越しでも、満面の笑みを浮かべているのが分かる。


「寵愛というほどではございません。」


胡蝶は俯き、小さな声で応える。


「何を言いますか。あなたのお陰で病気も癒えたのだと、大将自らおっしゃっていましたよ。もっと自信をお持ちなさい。」


陽気な父上の声に、胡蝶は暗澹とした気持ちになる。わたしなぞ、空気でしかなかったでしょうに。胡蝶は、小さくため息をついた。


「これなら、次の北の方はあなたに決まりですね。」


父上は、さも愉快そうに笑い声を上げた。


「お父様、滅多なことをおっしゃいますな。」


胡蝶は驚いて声を上げる。父上はそんな胡蝶にお構いなしに、上機嫌で世間話をしては、帰って行った。


 「私が北の方になれなければ、お父様はがっかりなさるでしょうね。」


胡蝶は脇息に寄りかかって、ため息を漏らしながら海の少弐に言う。海の少弐は、困った表情を浮かべる。


「恋とは無縁の人生ですもの。私は、今のままで十分幸せだわ。」


「それでも、胡蝶様の旦那様を想う気持ちは、誠でございましょう?」


海の少弐は、明るい声で言った。


「旦那様の身体を気遣い、あれほどまで手間と時間を掛けて夕餉を準備なさる胡蝶様の優しさが、旦那様の心に響かないはずがございません。女性の心の機微に気付かぬ、旦那様ではありますまい。」


きっぱりとそう言い切る海の少弐の言葉に、胡蝶の心も明るくなった。


「そうね、心が誠であるという以外に、大切なものなんて何もないわね。」


そう言うと、胡蝶は筝を引き寄せかき鳴らす。あの夜弾いた「想夫恋」の音を思い出しながら。あの夜見た大将の眼差しを、瞼の裏に思い浮かべながら。


 しばらく大将の訪れは無かった。乳母の少納言などは「何故でしょう?」と憤っているが、胡蝶はこんなものだと思っていた。

 あの夜は、仏が私に見せてくれた、一時の甘い夢だったのだと思った。それに、訪れはなくとも、文は欠かさず毎日届く。それで胡蝶は満足だった。


 その時、バタバタと足音が響いた。何事かと驚いていると、天つ日の大将が顔を出した。胡蝶は驚いて、筝を弾く手を止める。


「驚かせてしまって申し訳ありません。さあ、続けてください。」


そう言うと、大将は座って目を閉じた。胡蝶は戸惑いながら、続きを弾く。


「見事な音ですね。」


弾き終わると、大将は目を開けにっこりと笑うのだった。


「今日はいかがしました?」


胡蝶が尋ねる。大将は、ひとつ大きく頷いた。


「宮中の『重陽節』とはまた別に、私でも人を集めて、祝いの宴をしたいと思っているのですが・・・」


そしてしばらく思案したあと、口を開いた。


「それを、こちらでお願いできないかと思っているのです。あなたが以前おっしゃっていた『風景を描く膳』を、ぜひ皆にも振る舞いたいと考えているのです。いかがでしょう?」


胡蝶は驚いた。宴を主催するというのは、娘や正妻の仕事なのである。


「私でお役に立てますかどうか。」


胡蝶はもじもじと下を向いた。その両手を、大将は優しく握った。


「あなたでなければ駄目なのです。あなたの想像力が、きっと宴を素晴らしいものにしてくれるでしょう。お願いできますね?」


胡蝶は心を決め、力強く頷いた。天つ日の大将は優しく目を細め、胡蝶をそっと抱き寄せた。


 その日から、胡蝶の献立作りが始まった。

 「重陽」とは、菊に「不老長寿」という意味があることから、菊の花を眺め菊酒を飲み、長寿を願う宴である。栗ご飯を食べるという慣わしもある。

 しかし、宮中の菊の花ほど見事なものはないだろうと、胡蝶は思った。膳に菊の花をただ添えても、きっと見劣りするだろう。

 膳で何か菊を表現できないだろうか?と胡蝶は思った。それには、黄色の食材がいる。


「海よ、何か良い食材はないか?」


「黄色い食材ですと、いくつか見たことがございますが・・・」


菊に長寿、祝い、縁起物、様々なものを考え、膳の物語を紡ぐ。

 珍しいものや手に入れにくいものは、海の少弐が大宰府から取り寄せた。女房や下働きのものが手を合わせ試行錯誤し、絵のような膳ができた。

 この世でこのようなものは見たことがないと、皆胡蝶の考えに驚くばかりであった。


Copyright 2018, Cecilica

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cecilica

小説が好きです。短編、長編、両方書きます。旅行、音楽も大好きです。 Love novels, traveling, music...

胡蝶の膳

平安時代、食に自然を描いた「胡蝶の君」の物語。連載です。
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