胡蝶の膳4

 翌日、天つ日の大将が寝込んでしまい、出仕できぬという知らせが入った。加持祈祷をしても、効果がないらしい。


「何も食べない日と心労が続いてしまえば、身体がおかしくなるのも無理はないわ。」


 胡蝶は心配で、見舞いの文を送った。滋養に良い夕餉を用意しますからと、文の最後にそう添えた。

 返事はすぐに来た。身体が重く力が入らないこと、頭痛に悩まされていること、様子を見て明日、できればこちらに来るということが書いてあった。胡蝶はすぐに、海の少弐を呼んだ。 


「昨日食べた兎は、まだ残っているかしら。」


「はい。塩漬けですので、いつでもご用意できます。」


「弱った身体に障らぬよう、山菜やきのこと一緒に、煮込んでみてはどうかと思うのだけれど。」


「良い考えですわ。山菜やきのこと一緒に召し上がれば、滋養が増しましょう。」


「他に滋養の良い、食べやすいものはないかしら?」


「私に、ひとつ良い考えがございます。」


胡蝶と海の少弐は、その後時間をかけて、明日の献立について話し合った。


 「胡蝶。」


天つ日の大将が、優しく名を呼ぶ。

 この間お会いしたばかりなのに、長い間会っていなかったような気がすると、胡蝶は思った。

 大将の表情は柔らかかったが、ひどく青白い。かなり疲れが溜まっているようだった。ふうっとため息をつき、胡蝶の膝の上で横になる。胡蝶は、大将の手や肩を揉んだ。かなり冷えているようだと思った。自分の衣装を持って来させ、それ以上冷えぬよう、その身体に掛けてやる。


「芙蓉のことは、聞いていますか?」


天つ日の大将が哀しそうな目をして、それでも微かに微笑みながら、胡蝶を見る。


「ええ、噂だけ。」


その目に見つめられると恥ずかしくなり、胡蝶は目を伏せた。


「・・・そうですか。先日あちらに伺いましてね。やはりあちらも、かなり思い悩んでいるようでした。京を去ることも考えているのでは、と思うくらいに。」


「そうでしょう。あのような噂を立てられたら、誰だってひどく傷付き、想い悩みますわ。」


胡蝶は芙蓉の君を不憫に思い、憤慨した様子で応える。

 胡蝶には、何となく芙蓉の苦しみが分かると思った。愛する人に選ばれない自分。眩いくらいの存在感を持つ男の傍にいるときの、言葉にできぬ惨めさ。

 すがる勇気すら、美しい男は奪い取ってしまう。

 憤慨している胡蝶の様子を見て、天つ日の大将は下を向いた。


「噂ではないのですよ。」


小さな声で言う。


「え?」


「私にも、見えてしまったのです。物の怪の顔が、あの人の顔に。」


大将が、苦しそうに顔を歪める。胡蝶は驚いて、目を見開いた。


「あの夜、突然灯りが消えて、辺りが闇になったのです。この世ではないのかもしれないと思うほど、ひどく深い闇でした。虫の声も消え、私たちは、驚くほどの静寂に包まれたのです。背筋が凍り、寒さと恐怖で震えました。

ふと気配を感じて横を見ると、細い煙がたなびいていました。それがゆっくりと人の形を作り、隣にいる姫に覆いかぶさったのです。姫は小さなうめき声を上げ、すぐに静かになりました。

それはすぐに人の形から、煙に還ろうとしていました。

しかし、それは煙に戻る途中でふと止まり、私を見つめたのです。苦しそうな目をして、じっと私を見つめるのです。

その瞳は、芙蓉のものと瓜二つでした。私は、あまりの恐怖に、それから目を逸らすことができませんでした。

しばらく私たちは見つめ合ったのですが、今度は、その煙が言葉を発したのです。

ひとこと、『苦しい』と。

そしてそれは闇に消え、消えていた火が灯りました。

気付くと、姫はもうすでに冷たくなっていました。

あの『苦しい』という声も、芙蓉の声とそっくりでした。

あの日から、あの声が頭の中に棲みついて離れないのです。忘れようとしても、どうしても忘れられないのです。素知らぬふりで、あの人の様子を見て来るつもりでしたが、私は上手く隠し事ができなかった。

あの人は、私が正体を見たことに、気付いてしまったようでした。」


そう言うと、天つ日の大将は、両手で顔を覆った。


「私は、どうすればよかったのでしょう?あの人の元を訪ねず放っておくことも、素知らぬふりで真実を隠し通すこともできなかった。」


苦しそうにそう言うと、大将は肩を震わせた。胡蝶は切なくなって、膝の上の大将の頭を優しく撫で続ける。

 この人は、育ちの良さが生む、誠実さと正直さを持っている。それが益々女を哀しませるという真理は、何と因果なことであろう。この世は、なぜ上手くゆかぬことばかりあるのか。しばらく沈黙が続いた。


「本当に申し訳ありません。来て早々、このような話をしてしまうなんて。せっかくあなたとふたりの夜だというのに、嫌な想いをさせましたね。」


起き上がって微笑みながら、大将が言う。いつもの落ち着きを取り戻していた。


「嫌な気持ちになんてなりませんでしたわ。あなたのお話が聞けて、とても嬉しいと思っております。」


胡蝶が応えると、大将ははにかむように笑った。


「ああ、やはりここに来ると、お腹が空きますね。」


「早速夕餉を持たせましょう。力が出ますよう、趣向を凝らした夕餉にしていますのよ。」


「それは楽しみだ。」


胡蝶は女房に膳を持たせた。大将が香りを嗅ぐ。


「この不思議な匂いは、この汁から出ているのでしょうか?」


「さようです。海の少弐が持ってきた、兎の塩漬けが入っています。」


「うん、とても美味しい。山菜やきのこの風味と兎が混ざり、優しいけれどもしっかりとした味がしますね。汁に溶けた脂が、甘さを引き出しています。」


「焼いたまま食べると更に美味しいのですけれど、脂と固さが身体に負担を与えますゆえ、脂を一度落とし、柔らかく煮込むことにいたしました。それでも、腹の底から力が湧き上がってくるような気持ちがいたしませんか?」


「確かに、力が戻ってくるような感覚がします。いくらでも食べられそうだ。」


そう言うと、大将は次の椀の蓋を開けた。


「ほう、何とも可愛いらしい。手毬のような形をしていますね。これは何ですか?」


「里芋を潰し、粉と混ぜ、布に包んで手毬のような形を作り、蒸してみました。きのこやぎんなんを煮た汁に醤を溶かし、それを里芋の上から掛けております。すりつぶしてありますので柔らかく、身体に沁みやすいと思いますわ。」


普段食べる芋より、ふわふわとしていて、口の中でさっと溶ける。醤と混ぜた汁の優しい味が、よく浸み込んでいた。

 天つ日の大将は、目を閉じてその繊細な味を愉しむ。身体の隅々まで、滋養が染み渡っていく感覚がした。

 次の椀を開けた。その瞬間、大将は感嘆の声を漏らした。


「これは美しい。」


椀のなかには、米のとぎ汁と醤で煮た大根が入っている。柚子の皮が載せられ、大根は金色に光っている。

 その金色の大根が、イチョウの葉の形をしているのだった。庭に舞うイチョウの葉が、ひらりと椀の中に舞い落ちたようだった。


「小さなころから、いつかこのようなものを作りたいと思っていたのです。今日、あなたのお陰で願いが叶いました。」


目を輝かせ胡蝶が言う。

 大将は、椀の中のイチョウをしばし目で楽しんだあと、それを割り口に入れた。添えられた味噌と柚子が混ざって、濃いけれどさっぱりとした後味が残る。秋の豊穣に満ちた空気を、めいっぱい頬張っているような感覚がした。


「あなたは、このようなところにまで自然の美しさを取り入れるのですね。」


天つ日の大将が、頬を上気させながら言う。


「小さなころから、膳に様々なものを描けないものかと空想していたのです。星や雲、大きな空に架かる虹。そのようなものを膳に描きたいと、ずっと考えてきたのです。」


胡蝶は益々目を輝かせた。天つ日の大将は、そんな胡蝶の様子に、嬉しそうに目を細めた。


「やはりあなたは面白い。」


そう言うと、大将は悪戯っぽい目で胡蝶を見るのだった。胡蝶は少し恥ずかしくなって、慌てて茶粥の入った椀を勧める。わざと固めに作っておいた米が、夕餉の終わりごろには、ちょうど良い柔らかさになっていた。

 粥を平らげると、大将は満足のため息を漏らした。


「実は最後に、面白いものをご覧にいれようと思っているのですが。」


胡蝶が、下げさせた膳と入れ替わりに、椀をひとつ用意する。


「まだあれ以上に面白いものがあるのですか?」


興味津々という様子で、大将が言う。胡蝶は、おもむろに椀の蓋を開いた。そこには、不思議な香りの、豆腐に似た白い塊が入っていた。


「これは?」


「家畜の乳を発酵させ、固めたものだそうです。これも、海の少弐が教えてくれたのです。唐では、家畜の乳をそのまま飲むことも多いのだとか。家畜の乳は滋養豊富で、薬や解毒としても使われるとのこと。少し酸味が強いゆえ、あまづらを掛けて甘味を足しております。」


そう言うと、胡蝶は大将に匙を差し出した。匙でひとくちすくって、それを口に運ぶ。濃厚な味と酸味が、あまづらの甘さと上手く調和している。


「とても美味しい。するすると喉を通っていきます。」


大将は次々と匙を運ぶと、あっという間に椀の中のものを平らげた。


「素晴らしい夕餉でした。」


そう言うと、にっこりと胡蝶に向かって微笑んだ。


 「ここは、いつも静かですね。」


三日目の夜、天つ日の大将はしみじみと言った。満月の、とても明るい夜だった。


「いつも穏やかな気持ちでいられる。」


大将は空を仰ぎ見たあと、目を閉じる。

 月の光が横顔に当たり、それが大将をとても美しく見せていた。そよそよと吹く秋風が、大将の乱れた髪を吹き過ぎ揺らしている。

 胡蝶は、その横顔に見入ってしまい、何も言うことができない。ふと、大将が胡蝶を見た。思いつめた両目で、じっと見つめる。


「ずっと後悔していたのですよ。あなたを、私の世界に引きずり込んでしまったことを。」


「どういうことです?」


かすれた小さな声で、胡蝶が訊く。大将から、目を話すことはできない。


「私の世界は、妬みや憎悪で溢れている。小さなころからそうだったのでね、私自身はそれに慣れてしまっていたのですが、知らなかったのですよ。このように、心に平安と静寂を携え、生活している女性がいるなんて。花を手折った後で、ぴたりと合う花入れがないことに気付き、私自身戸惑っているのです。」


いつもはよく通る大将の声も、少しかすれていた。両目が微かに揺れている。それに合わせるように、胡蝶の両目も左右に揺れた。ざああと、庭の木の揺れる音がする。


「それでも、手放す気のない私を許してください。ここの静寂に、私の世界の汚いものを、決して持ち込ませないと約束しますから。」


そう言うと、大将は胡蝶の前に、そっと筝を差し出した。大将は懐から、笛を取り出す。

 二人で「想夫恋」を演奏する。ぴったり寄り添うその美しい音色は、二条を超え、宮中まで届いた。

 「胡蝶の君が、天つ日の大将の病気を治癒した」との評判が立つのは、その夜からである。


Copyright 2018, Cecilica

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cecilica

小説が好きです。短編、長編、両方書きます。旅行、音楽も大好きです。 Love novels, traveling, music...

胡蝶の膳

平安時代、食に自然を描いた「胡蝶の君」の物語。連載です。
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