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子育ちエッセイ

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たまらなく愛おしいと思うこともあれば、どうしようもなくしんどいと思うこともある育児。その両面をコトバにできたらと思っています。
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私のなかのちいさな私に会いにいく(2) 正しく親を恨むことの必要性

「親を恨むだなんて、神様の祠を足で蹴飛ばすようなものだ。」
そう思っている人は、もしかしたら世の中には多いのかもしれない。

自分と親の関係性はある程度良好だし、恵まれた環境で育ったと思っている。不遇なことをされたこともあったけれど、それは自分を愛していたからしたことであり、親として当然の躾だった。と思っている人は案外多い。

親はいつだって感謝し、敬い、孝行すべき存在であるという感覚は、ほぼ異論

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そのトゲを優しさで包みこめたなら。

そのトゲを優しさで包みこめたなら。

人間誰しも、「攻撃された!」と思うと攻撃で返したくなるもの。
そういう意味で子どもとは、こちらの罪悪感や攻撃性のスイッチをなんの遠慮も無しにこれでもかというくらいポチポチと押してくる生き物だ。

感受性が豊かな傾向にある息子は、最近ちょっとしたことですぐにキレる。

きのうも幼稚園から帰った後に望んでいた市販のおやつが用意されておらず、そのことに対してものすごい勢いで怒りだした。私が用意していた手

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続・息子の登園拒否 ー「誰も悪くない」というところから始めるー

続・息子の登園拒否 ー「誰も悪くない」というところから始めるー

最近、なんの前触れもなく突然キレることが多々ある5才の息子。
そして同時に、その息子にキレるわたし…という構図が、少なからず頻繁に起こるわが家。

たとえばきのうは雪が降っていて、そろそろ幼稚園に行く時間だったので「寒いから靴下はいて」と言っただけで、さっきまで穏やかだった息子が突然キレる。ましてやその流れで「もう出るよ!」とでも言おうものなら、それはそれは盛大にパニック状態になる。

その裏には

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“夫婦”という、最小単位の多様性

“夫婦”という、最小単位の多様性

「人はそれぞれみんな違うのだから、その違いを認め合おう」「個性をのばそう」と言うけれど、子どもの個性は認めるのに、夫の個性は認められないときがある。

夫婦とは、社会的に見て最小単位の多様性である。

もちろん“社会的に見て”という言葉を外せば、それより小さくてすべての大元になる多様性は、個人、つまり“わたし”であることは言うまでもない。

すべてはまず自分で自分の個性を受け入れ、認める、という作

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怒られることへの耐性なんて一生つかなくていい/コントロールしなくてもいい人間関係を築くために

怒られることへの耐性なんて一生つかなくていい/コントロールしなくてもいい人間関係を築くために

【Book Talk】最近なぜか体育会系人間に見られることが多いのだけど、バリバリの文化系人間である。

体育会系人間と文科系人間の違いは、他者からの抑圧や強要に耐えられる人間かどうかってところが大きいのだと思う。その最たるものが先輩後輩や上司部下といった上下関係で。

日本の文化はこのグローバルな世界において未だ他人の抑圧に耐えられる人間の方が偉いという無言の風潮があるし、それに耐えられない人は

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心の満ち欠けを、そのままに。

心の満ち欠けを、そのままに。

昔から、感情の振れ幅が大きい人間である。

いちおう一社会人として、外から見てそこまで明らさまにはならない程度にはコントロールできているとは思うのだけど。

HSPーHighly Sensitive Personー

「ひといちばい敏感な人」とも訳される。
最近よく聞くこの言葉に自分が当てはまるとは、露ほども思ったことがなかった。“Sensitive”ー敏感ーという言葉そのものが、私というパーソナ

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しあわせは、今日、君と笑い合えること。 子育てはきっと何才からでもやり直せると信じたい。

しあわせは、今日、君と笑い合えること。 子育てはきっと何才からでもやり直せると信じたい。

「3歳までに受けた教育によって形成された性質・性格は、100歳になっても根底は変わらない。」

「7歳までの育児環境が、その後のその子の人生に大きな影響を及ぼす。」

「○才まではこう育てよう。」

育児におけるこれらの格言のような言葉たち。
先人から生まれたこれらの言葉には、その叡智がつまっている。

これらの言葉から多くを学ぶし、時に救われることもあるのかもしれない。
けれど同時に、これらの言

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「おつきさまの おかあさんは どこ?」

「おつきさまの おかあさんは どこ?」

「おかあさん」という言葉に、子どもといういきものは無条件に安心感をもつものなんだろうか。

いつものように近所の温泉にむかう、もうとっぷりと日が暮れた夜道。
4才の息子を背中におんぶして歩く、家から車までのほんの数メートルの、夜のおさんぽ。

お風呂がないわが家は、毎日のように夜は近所の温泉に行く。
4才ともなるともうずっしりと重たくて、わたしの背中と腕は息子の身体でいっぱいだ。

見上げた空には

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親から子への愛情より、子から親への愛情のほうがずっとおおきいのかもしれない

親から子への愛情より、子から親への愛情のほうがずっとおおきいのかもしれない

「だっこ だっこ かあちゃんだっこーーー」

こどもは抱っこがだいすき。

わが家のこどもたちは、どちらかを抱っこするとかならずもう片方も、「ワレもワレも!」と言わんばかりに抱っこをせがんでくる。

2才と4才、合計体重約30キロ。

2人まとめて抱っこすると、それはそれは重いのだけど、こんなに抱っこさせてもらえるのもきっと今だけだろうと、せがまれたときはできるだけ抱っこしてあげようと思っている。

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NOと言えるすばらしさを

NOと言えるすばらしさを

「きょうは ようちえん いかないよ。」

毎朝のようにその一言からはじまるわが家。

4才の息子は、2才の後半から約1年半の間、登園拒否をしていた。

そしていろいろ悩んだ末に、この5月から登園を再開している。

引っ越しをしたこともあり、いままでよりゆったりとした園に転園したものの、やはり『毎日幼稚園に行く』というリズム自体が本人にとって不服なようで、再開してからここまでほぼ毎朝「きょうは いか

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とことん“イヤな奴”になりたくなるとき

とことん“イヤな奴”になりたくなるとき

人はだれしも、『あかるく・たのしく・心豊かに』生きたいと願うものなのだと思う。
でもその反面、自分のなかの糸がフと切れると突然、『くらく・フキゲンに・生きぐるしく』生きたい、と思うときがあるのではないだろうか。

それはほとんど欲に近いような感覚で、いちどそこに落ちると、そこからなかなか抜け出せない。
むしろみずから進んで“イヤな奴”になりに行ってるときが、時々ある。

今日がまさに、そんな日だっ

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自分の人生を自分で舵取りをするために

自分の人生を自分で舵取りをするために

仕事、育児、夫婦、親子。あらゆることにおいて、うまくいかないときにまず必要なのは、自分と向き合うこと。…でも、それってどうやって??

ただやみくもに考えても、ただただ同じところをぐるぐるとまわっているだけのようにかんじていた日々のなかで、わたしにとって一つの答えのようなものが見えてきました。

それは今、自分がどの位置にいて、どこに向かうべきなのかを正確に知るための地図のようなものでした。

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母の扉

母の扉

母になったとたんに、「やさしく、あかるく、がまんづよく」を求められているような気持ちになるのは、なんでなんだろう。

直接だれかにそう言われたことがあるわけでもないのに、「そうありたい、そうあらねば」とどこかで無意識に思っている自分。

それを求められることがイヤなくせに、そうあれないことを責めてしまう自分。

そんなこと考えていた時に、「あぁ、お母さんもきっとこういう気持ちだったんだろうな」と、

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卵焼きはこころの鏡

卵焼きはこころの鏡

あぁ、今朝も乱れた卵焼きになってしまった…
卵を冷蔵庫から取りだしたそばから下の娘はわたしの太ももにへばりつき、上の息子は「おなかすいた」を連発している。

「おちつけ、おちつけわたし…」
そうどんなにこころの中でとなえても、焦っているとすぐに皮がやぶけてしまう。作っているうしろで子どもたちがケンカでもはじめようものなら、とたんに黒焦げの卵焼きができあがる。

やっぱり、卵焼きは正直だ。

子ども

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