20190422__平成遺産_

「平成遺産」を読んで、平成とか令和とかどうでもよくなってしまった。

武田砂鉄、川島小鳥、最果タヒ、ブレイディみかこ、川添愛、みうらじゅん、田房永子、栗原康の8人による平成エッセイオムニバス、「平成遺産」を読んでみました。もうすぐ令和!平成のことは平成のうちに!と、読んでみたけれど、なんか平成とか令和とかどうでもよくなってしまいました。そんな不思議な本です。

8人のバックヤードは多種多様で、当然平成への切り込み方も全く違います。たとえば、武田砂鉄さんはなぜか「神田うの」について熱量たっぷりに語っている一方で最果タヒさんは阪神淡路大震災や最果さんが生きた平成の手触りを自身の実感を込めて綴っている。あるいは情報技術の話題もあるし、女子高生ブーム、いわゆる援助交際の話題もある。みうらじゅんさんはやはり「ゆるキャラ」のこと書いてる。

企画段階で、この人にはこういうことを書いてもらおう、みたいな棲み分けというか多様性を持たせたと思いますが、こうバラエティに富むと、そもそも平成で括る意味なんてないのではないか、と思ってしまう。

これ、例えば8人全員に、「平成における援助交際」について書いてください、てお願いしても、結局同じような本ができる気がします。武田砂鉄さんは神田うのを書き、最果さんは阪神淡路大震災や宇多田ヒカルのことを書き、川添さんはPCの発展過程を書く、多分。みうらさんは、ゆるキャラを書く。これはほぼ間違いなく。

それだけ、平成は個々人のものになっている。平成を生きた人に共通する何か、なんてものはないのでは。今日生まれた人なんて平成とか十日足らずで終わるし。

思えば平成は、多くの人を巻き込んだイベントや事件が沢山ありました。自分の場合だと、アメリカの同時多発テロや東日本大震災はよく覚えています。ただ、そこに付随する感情は人によって異なる。同時多発テロの時は小学生低学年だったので「なんかすごい煙出てるな」くらいにしか思えなかったし(逆にそれがとても印象的で脳裏に焼付いています)、東日本大震災の日は九州にいたので全く実感がなかった。自分にとって平成は、まだ世界にログインする前の時代でした。

それは、本書巻末に収録されている武田砂鉄さんと最果タヒさんの対談でも触れられています。くくる意味なんてあるのか、と。

個々人の生の一瞬の蓄積である人生、そのまた積み重ねである歴史は、政治家でも行政屋さんでも学者のものでもなく、それを生きたその人固有のものです。そう考えれば改元なんて、住んでいる町の名前が変わるくらいのものでしょう。ちょっと住所の名前が変わったからって、冷蔵庫の中身や明日の予定や付き合う友達が変わるもんじゃないですよね。

本書を読んで、なんか平成とか令和とかどうでもよくなってしまいました。一日一日、ほどほどにやりましょう。

蛇足です。改元のように形式的にでも時代に区切りをつけると、体感的に遠ざかるものがありますよね。戦争とか。昭和20年終戦、というのと1945年終戦、というのでは、少し距離感が違ってくる気がします。令和になると、昭和は2つ前の時代になってしまいますから、何か教科書の最初の方のような、遠い昔の出来事に感じられてしまう。まだ74年しか経っていないのに。


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