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深呼吸をして思い返したわたしだけの言葉との話 #真夜中インター


 わたしの創作は、いつだって私的で、どこにでもあるものなのかもしれないと思う。それでも書き続けるのは、思考の整理と想いの整理に、言葉が必要不可欠だからだ。


 「書く」ことを始めたのは、小学生の頃だったと思う。最初に書いてみたのは詩だった。しかしすぐに、詩ではないものを書き始める。中学生の頃はWEB小説を読み漁り、自分でも小説の設定を細かく考えたりしていた。主人公は女の子で何歳で、彼女にはこんな友人がいて…というように。しかしそれが作品として完成することは一度もなかった。設定を考えるのが何より楽しかったのだ。たいていが序章を書いたところで飽きてしまって、続かなかった。

次に始めたのは、やはり詩だった。自分で見様見真似でホームページを作成し、自作の詩を掲載していた。手書きで書いていたものを少しずつ、WEBに掲載していた。自宅にサーバーがあったから、広告のないホームページを作れた。色んなホームページのソースを見て、これはこうしているのかふむふむ…と学び、父に渡されたやたらと分厚くてわかりにくい「HP作成の書」みたいなものをぺらぺらと捲りながら。公募に出したこともあった。自費出版をすすめてもらったこともあった。

一番覚えているのは、とある出版社の書籍プレゼントに応募して、自分のホームページURLを書いておいた(記入欄があったので)時のこと。後日、その出版社から電話がかかってきて(自宅電話番号を記載していた)、「プレゼントには当選しませんでしたが、詩を50篇ほど弊社に送っていただけませんか?」ということだった。公募に出し始める前のことで、発表といえば自作のホームページのみで、そんなことを言われたのは初めてだった。とりあえず書き溜めていた中から50篇を選び、その出版社へ送った。

しばらくして、評価が送られてきた。厳しい意見も書かれていたが、概ねは好意的な意見で、ぜひ弊社と出版費用を折半して、詩集を出してみませんか、ということだった。

わたしは飛び上がるくらいに喜んだ。誰にも見せたことがなかった詩が、こんな風に評価されるなど思いもしなかった。しかも出版費用折半。こんなに大きなチャンスがあるだろうかと。その時に送られてきた評価は、今も捨てられずに持っている。「書く」ことを初めて他者に受け入れてもらえた、そんな気がして、今でも手放せない。


 結果、出版は叶わなかった。父が、承知しなかった。


 それからしばらくは、詩を書き続けていた。引っ越してサーバーもなくなって、どこに発表するでもない詩を書き、そのうち生活に追われて書かなくなった。わたしはこのまま書かなくなるんだろう。漠然とそう思っていた。

しかし人生とはわからないものだ。いつの間にかこのnoteに身を置いて、詩ではなくエッセイを書くようになった。誰にも言えないことを、つらつらと。細い糸を紡ぐように、消えそうな音を綴るように。最初の記事は2017年4月9日。もう5年前のことになる。そういえば先日、5年目バッジが出てきたな。ちょっと忘れてたけど(笑)。

感情や考えが迷子になりながら、手書きやnoteで言葉をひとつずつ書くことによって、思考と感情の整理をして、もう5年。これを「創作」というのはあまりに…ちょっと自信がないけれど。いつだって私的な、わたしの書くこどもたちを、好きだと言ってくださったり読んでくださる方がいるというのは、本当に幸運なことだと思う。この記事を開いてくださったすべての方に感謝しかない。



 わたしと創作、なんて言葉を書くと大げさだけれど、言葉と向き合い続けて、一時期離れて、また向き合い続けている。それは自分の身体の中にある黒い穴を覗く感覚がずっとしている。黒い水が揺蕩う黒い穴の中に手を突っ込んで、触れたものをゆっくりと取り出す。それは透明で、そこにその時々の気持ちの色を混ぜて、大切に箱にしまうような作業。わたしは今でも、迷子のままなのかもしれない。このまま一生迷子なのかも。そんな風に思うこともあるが、時々降ってくる光の粒がわたしの服に留まって、あたりを照らしてくれるから、迷子はそんなに怖くなくなった。これは最近の話。


 「真夜中インター」の企画に滑り込み参加させていただきました。こんなに深く振り返ったのは久しぶりのことで、「あなただけの創作エピソード」になっているかちょっと自信がないけれど、書けて良かったと思います。ありがとうございました。



20220710

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