えもいえ

氷のように硬く儚いものを君に贈ろう Twitter:@cExistentialism

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マガジン

  • ゆえニー

    それは思考の断片を搭載している

  • 詩集 メレトスの弁明

    ソクラテスはとうに死んだ。いまや裁きを受けているのはおれなのだ。――詩人メレトスはさとった。

  • 西田幾多郎の他者論

    西田幾多郎の他者論について。院試の際の提出論文。

  • 絵空帳

    絵を描いては公開します

  • 邪魅脳魔病床現々夢々奇譚

    (じゃみのうまびょうしょううつつうつつゆめゆめきたん) 二〇一七年、冬。ジャミノーマと呼ばれる腫瘍が松果体に巣食っていることが判明し、私は手術をうけ、入院することになった。本マガジンはその病床回想記、というより病床における狂気と妄想の記録である。

最近の記事

「反開発」 パレスチナを覆うもう一つの暴力

 2023年10月7日土曜日、早朝。ガザ地区を実効支配するイスラム組織「ハマス」が、突如イスラエルに向けて大量のロケット弾を降らせた。同時にハマスは、パラグライダーなどを用いて越境攻撃を開始する。ガザ地区近郊ではちょうど、ダンス音楽を夜通し流し続けるレイヴイベント「ウニヴェルソ・パラレロ」がワールドツアーと称して特別に催されていたが、そこにハマスが突撃、民間人260人以上が死亡することとなった。  世界はこのいきなりの出来事に驚愕した。そして10月8日から、イスラエルはガザ

    • 燃えかすと暴れ川、そして虐殺が起こる(森達也監督映画『福田村事件』評)

      はじめに 一九二三年、九月六日、千葉県の福田村で香川県から来た行商人が朝鮮人と間違えられて虐殺されるという凄惨な事件がおこった。九人、胎児を入れて十人がこの事件で亡くなった。世に言う「福田村事件」である。この事件は、被害者たちが被差別部落の出身であったこともあり、かなり長い間注目されることもなく闇に葬られてきた。  その百年後、二〇二三年、森達也監督のもと映画『福田村事件』が公開された。本記事はそのちょうど九月六日に観たこの映画ついての感想である。  しかし残念ながら、その

      • 述語が小さすぎる ――「主語が大きすぎる」とは別の仕方へ、西田幾多郎の思索を介して

         以下の論稿は、詩誌「フラジャイル」第16号に投稿し掲載されたものをゆるしを得て転載したものである。「フラジャイル」は旭川を拠点に活動しており、昨年帰省した折に縁ができた。  以下、拙論本文 述語が小さすぎる             ――「主語が大きすぎる」とは別の仕方へ、西田幾多郎の思索を介して  主語が大きすぎる、とはよく言われる。だが、述語が小さすぎるとは言われない。「主語が大きすぎる」ことに気づける人も、「述語が小さすぎる」ことにはなかなか気づけない。しかし、こ

        • 憲法9条の擁護 あるいはウクライナは(ある意味で)憲法9条をもっていながら攻め込まれ、ロシアは(ある意味で)憲法9条をもっていながら攻め入ったが、けれども・・・・・・

          (全文読めます。)  2022年2月24日、かねてから国境周辺で大々的な演習を繰り返していたロシア軍がウクライナに攻め入った。攻め込まれたウクライナは死体と瓦礫の山を築きながらも意外にも持ちこたえ、一ヶ月が経とうとしている。  事態の先行きは不透明であり、ウクライナ軍も善戦しているとはいえ民間人は大量に殺され、今後核兵器や化学兵器が用いられるかもしれないと噂されている。  しかし、本稿はそうしたウクライナ/ロシアの情勢についてのものではなく、その情勢が日本に飛び火して起きて

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        「反開発」 パレスチナを覆うもう一つの暴力

        • 燃えかすと暴れ川、そして虐殺が起こる(森達也監督映画『福田村事件』評)

        • 述語が小さすぎる ――「主語が大きすぎる」とは別の仕方へ、西田幾多郎の思索を介して

        • 憲法9条の擁護 あるいはウクライナは(ある意味で)憲法…

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        • 残念 ――あるいはキャラクターとしての人間たち
          11本

        記事

          「集まるのが大事」第二回合宿勉強会の記録+(哲学的・哲学学的)自己紹介

           二〇二一年の四月二十九日から五月一日にかけて、緊急事態宣言下の大阪某所にて、「集まるのが大事」合宿勉強会の第二回が開かれた。  昨年七月に行われた合宿勉強会の第二回である。  主催者は松山さん(@dazaist69)、ああるまさん(@rmarminor)、加賀谷さん(@Jamai_kamen)、齋藤さん(@_satoketa)の四名。当日は三十名ほどが集まった。  以下の記録は、講演の内容をおおまかに書いたものである。不正確な記憶や記述上の割愛などのため、実際の講演とは様

          「集まるのが大事」第二回合宿勉強会の記録+(哲学的・哲学学的)自己紹介

          「集まるのが大事」第一回合宿勉強会の記録+(政治的・宗教的)自己紹介

           以下は七月三日から五日にかけて「集まるのが大事」と銘打って行われた合宿勉強会の記録である。  主催者は、自粛の圧力に抗してバーを開きつづけた松山孝法氏、共栄主義者、ファシストのトモサカアキノリ氏、そして現代アートの文脈で渋家(シブハウス)というネットワークないしシェアハウスを制作した齋藤恵汰氏の三名。大阪某所で行われた。日程は以下の通り。 七月三日 「技術と経済」 松田卓也: コロナとシンギュラリティ 井上智洋: 最強国家日本の作り方 七月四日 「芸術と批評」 大野左紀

          「集まるのが大事」第一回合宿勉強会の記録+(政治的・宗教的)自己紹介

          『大失敗』第二号の感想+病者の自己解剖

           若干の尿意と、空を蒼く染める夜明けの光に、私は目覚めた。それは四時ごろで、私はまだ眠っていたかった。だが寝入ることもできず、中途半端に醒めた身体をただただ横たわらせていた。そんなふうにしていつの間にか一時間がすぎたので、一度トイレに行くことにした。そうすれば再び寝られるだろうと見込んでのことだった。だがそうはいかず、身体を再びベッドと布団の間に差し込んだとき、私はすっかり目が覚めていた。起きるほかなかった。しかし若干の眠気があるのも事実で、それで私は久しぶりにコーヒーを飲も

          『大失敗』第二号の感想+病者の自己解剖

          北一輝と家父長制的フェミニズム

           つい先日、「生殖コスト」という語がツイッターのフェミニストの口から出てきてちょっとした話題になった。  この「話題になった」というのはけっして肯定的な意味ではない。たとえばそれはこのように言及される。  またこのように。  要するにこういうことである。フェミニズムは元来、家父長制的な社会から女性の自由を勝ち取るための思想ではなかったのか。女という弱い性は、父、男性の庇護を受けねばならないとする社会からの解放を求める思想ではなかったのか。それが「生殖コスト」を訴え男性の

          北一輝と家父長制的フェミニズム

          第五章 西田幾多郎の他者論 (+参考文献)

          ブーバーと西田 西田幾多郎の「私と汝」に先駆けて九年前、マルティン・ブーバーが『我と汝』と題する本をドイツで発表した。この一冊は弁証法神学、ゴーガルテンの思想を介して西田に影響を与えたと言われている。だが筆者はここでその思想の影響関係を分析しようと考えているのではない。そうではなくてブーバーの他者論と比較することによって西田幾多郎の他者論がいかなるものなのかを明らかにしようと考えているのである。  西田とブーバーはまずその思想の目指すものを全く異にしている。西田が「事実其儘の

          第五章 西田幾多郎の他者論 (+参考文献)

          第四章 汝と相逢うこの「今」という場所

          場所と行為 「働くものから見るものへ」という言葉は一見動的な立場から静的な立場への移行に思える。だが実際に目指されているのは顕在から顕在へ矛盾に移り行く生滅の場所なのである。掴みえない「今」は単に静観的に見られるものではない。それはリアルな行動をその底で支える無の場所なのである。それゆえ、論文「場所」の時点でそれと行為との関わりが語られていた。 唯、真の無の場所に於てのみ自由なるものを見ることができる。限定せられた有の場所に於て単に働くものあ見られ、対立的無の場所に於て所謂

          第四章 汝と相逢うこの「今」という場所

          第三章 場所の「一転」

          「一転」と「転落」 昨日の意識と今日の意識、そして私と汝の「個々独立」を肯定的に語ることのできる立場を西田はすでに『自覚に於ける直観と反省』そして『芸術と道徳』の段階で獲得していた。そうすると、この地点から後の「私と汝」を眺めたとき、一体どれほどの変化があるのだろうか。  その変化はけっして小さいものでなかっただろうことは予想される。よく知られているように、西田は『自覚に於ける直観と反省』で到達した立場に満足していなかった。彼は「降を神秘の軍門に請うた」(II, p.11)と

          第三章 場所の「一転」

          第二章 『自覚に於ける直観と反省』にみる他者論の兆し

          『善の研究』における他者 以上『善の研究』を概略したが、ここに他者論はあるだろうか。「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」と言い、個人の意識の統一と社会の統一、人類の統一、宇宙の統一までをも同一ととらえる『善の研究』において、個々人の関係などという問題は無視されているようにみえる。善という対他的とも考えられるテーマも、『善の研究』では「自己の発展完成」と捉えられているのである。  そんな『善の研究』からはじまった西田が、何故その二十一年後に「私と汝」という

          第二章 『自覚に於ける直観と反省』にみる他者論の兆し

          第一章 『善の研究』の西田

          哲学と倫理と宗教を一書に「統一」する何か 西田幾多郎の哲学のどのような側面について研究するにせよ、まずはじめに『善の研究』を概略しておかなくてはならないだろう。西田の哲学のそもそもの狙いを明らかにするためには、この出発点たる『善の研究』の内容を押さえておかなくてはならない。その本文はこのようにはじまる。  経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているか

          第一章 『善の研究』の西田

          「西田幾多郎の他者論」 要旨+冒頭および目次

           京大大学院、宗教学専修の院試の合格の報を受け取ったのはつい先週のことである。二年間の浪人生活はこれで終わるわけだ。しかしその感慨について長々書き連ねるのはよそう。これからのこと、これからの研究がさしあたり重要なことだ。今日から私は試験にあたって大学に提出した論文を一章ずつ公開することにする。これはこれからの研究を考えるならばまったく素描にすぎないものとなるのだろう。だが今の段階で公開することにも何か意味があるはずだ。 以下論文要旨 ――――――――――――――――――――

          「西田幾多郎の他者論」 要旨+冒頭および目次

          【報告】「傘と包帯」に寄稿していました

          「傘と包帯」という早乙女まぶた氏を中心としたnote上の詩の合同誌がある。  これに私は今年の四月から(つまり第六集から)寄稿しているのだが、そのたびにその報告をしておこうとして・・・・・・そのたびにしそこねてきた。だからnoteだけをフォローしてくださっている方は冒頭にあげた三作品を知らないはずである。  なぜ報告しそこねてきたか。毎回「傘と包帯」が公開されるたびに私はこう思う。単に「寄稿しました」と告知するだけではつまらない。告知にかこつけて何か「詩」について書きたい

          【報告】「傘と包帯」に寄稿していました

          眼窩のなみだがめだまをながす

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