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西田幾多郎『善の研究』を読む 純粋経験についての哲学的考察がなぜ同時に善の研究でもあり宗教哲学でもあるのか

 以下の文章を院試のために提出する論文に組みこむ際若干改めましたので是非こちらをお読み下さい。おおよそは同じですが「判断すら加わらない前」についての考察が異なります。

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はじめに

 經驗するといふのは事實其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事實に從うて知るのである。純粹といふのは、普通に經驗といつて居る者も其實は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、眞に經驗其儘の狀態をいふのである。例へば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいふやうな考のないのみならず、此色、此音は何であるといふ判斷すら加はらない前をいふのである。(I. 9p.)

 上は一九一一年(明治四十四年)に出版された、西田哲学の出発点となる『善の研究』の本文のまさに冒頭、第一篇純粋経験の第一章純粋経験のはじめの文章である。
 はじめ、西田幾多郎は本書を『純粹經驗と實在』と名づけるはずだったらしい。それが出版社の意向もあって『善の研究』となった。事実、本書の中核をなすのは、純粋経験としての実在を論ずる哲学的考察である。では、この表題は内容と乖離した看板にすぎないのだろうか。
 そんなことはない。読んでみると分かるが、本書はまさに「善の研究」なのである。
 さらに、本書は宗教哲学的な論文であることも広く知られている。
 つまり『善の研究』は、純粋経験論にして善の研究にしてさらに宗教哲学の書だ。哲学と倫理と宗教の三分野を横断しているのである。はたしてこれらのテーマはどのようにして一冊の本に統一されているのだろうか。
 西田幾多郎著『善の研究』を紹介するにあたり、本ノートはそのつながりを明瞭に見えるように書きまとめるつもりである。

純粋経験とはいかなる意味で純粋か

 純粋経験。まだいかなる理性にも判断にも汚されていない純粋な経験。このような経験がいかにして、人間の善悪について云々する研究の出発点になるのだろうか。
 その問いに答える前に、一つ言っておかねばならない。上の純粋経験の解釈は正しいとはいえない。純粋経験の「純粋」とはそのような意味ではないのだ。

 こう書くと読者は疑問を抱くだろう。「毫も思慮分別を加へない、眞に經驗其儘の狀態」「判断すら加はらない前」とあるではないか、と。まさにこの点が誤読しやすいところだ。(というより、のちに西田が「『善の硏究』の始に於て純粹經驗を論じた所ではこの活動的統一の意味が十分明になつて居なかつたと思ふのである。」(I. 303p.)と振り返るように、彼自身この概念についてまだ書きあぐねていたと見るべきだろう。)
 同様の誤解に基づく『善の研究』への批判に対して、西田幾多郎は次のように答えている。

余はこれまで往々純粹經驗と不純粹經驗との區別はいかん、後者は前者より如何にして出てくるかなど聞かれたこともあるが、余の考では絶對的に純粹經驗といふものもなければ、絶對的に不純粹經驗といふものもない、すべてが見方に依つては純粹經驗ともいへると思ふのである。(I. 300p.)

 純粋経験とは不純物を排除したところに現れる「純粋な」経験ではない。そうではなくて純粋な「経験」なのであり、経験そのものの「事實其儘」をつかもうとしたときに見出された概念なのである。そしてそれは西田に言わせれば「活動的統一」なのである。

 『善の研究』を読んでみよう。
 冒頭の引用につづけて西田は、自分の意識や過去の記憶、あるいは今まさに臨んでいる現前であっても、「之を判斷した時は已に純粹の經驗ではない。眞の純粹經驗は何等の意味もない、事實其儘の現在意識あるのみである。」(I. 10p.)と言い切る。西田はここで「純粋でない経験」も存在すると言っているようにみえる。
 だが直後にこんなことを言い始める。

 右にいつた樣な意味に於て、如何なる精神現象が純粹經驗の事實であるか。感覺や知覺が之に屬することは誰も異論はあるまい。併し余は凡ての精神現象がこの形に於て現はれるものであると信ずる。(I. 10p.)

 そこから彼はあらゆる経験、思惟も意志も直観もある意味で純粋経験であるとする哲学を展開してゆく。高橋里美が批判したのはまさにここの矛盾であった。一方、西田は述べる。

 純粹經驗とその意味又判斷とは意識の兩面を現はす者である、卽ち同一物の見方の相違にすぎない。(I. 17p.)

 一体どういうことだろう。たとえばこんな風に考えてみてほしい。確かに「どこかから音が聴こえてくる」という経験に対して、「ああ、これはヴァイオリンの音だ」と考えるのは、音の経験に対して間接的であると言えるだろう。経験に対する判断は経験にとって不純であると言えるわけだ。だが、「ああ、これはヴァイオリンの音だ」と考えるその経験はそれ自体として純粋な経験であるとは言えないだろうか。判断するという経験は、それ自体で一つの純粋経験であるとは言えないだろうか。
 上に引用した文章につづいて西田は、記憶といっても「過去と感ずるのも現在の感情である。」(I. 10p.)と言っている。「そういえば昔あったなあ」と振り返る思考そのものは「現在の感情」「事實其儘の現在意識」、つまり純粋経験であるほかないのだ。
 西田が「純粋経験」とは見方の問題であって、何が純粋経験で何がそうではないかというのも相対的な問題であるとするのはまさにこのことを述べているのである。
 この点について、西田が一九一九年(大正八年)に書いた「意識の明暗に就いて」の一文は分かりやすいので引用しておこう。

直接でない意識といふもののあり樣はない、思惟も意識作用として我々に直接でなければならぬ。(III. 210p.)

 西田の「純粋経験」について、一休と蓮如だか蜷川新右衛門だかの問答の逸話「七曲り半の松」はちょうどよいたとえ話になるだろう。
 まずはその逸話を紹介しよう。
 一休はあるとき、ひどくふしくれまがりくねった松の木をみて、「この木をまっすぐに見ることのできる者があるか」と周囲の人々に聞く。どうみてもまがった松なので人々は不思議に思う。もしかしたら、ある角度から見てみたら一直線のまっすぐな松に見えるかもと思う者もあるがそういうわけでもない。そこである眼識のすぐれた者が(出典によってそれは蓮如であったり蜷川新右衛門であったり、あるいは一休当人であったりする)こう答える。
「なるほどまがっておるわい」
 そう、「まっすぐに見る」とはこの現実のまがっている松を無理に矯めてまっすぐなものとして見るということではなく、まがっている木をまがっている木そのままにまがっているものとして見る、ということだったのだ。
 西田の「純粋経験」の「純粋」とは、まさにこのような意味で「まっすぐに見る」ことである。経験を経験そのままにまっすぐに純粋に見ること、これに純一になること、これこそ彼の言う「純粋経験」なのである。
 そして、さらに言えば、西田幾多郎の哲学の実践そのものが「まっすぐに見る」ことを目指したものに他ならなかった。彼は「純粋経験」を指して主客合一で、主観も客観もまだない、見られている物の世界も見ている私の存在というものもまだ定かではない経験と捉えるが、ここで目指されているのは単に物心両極を排除することではない。ここで目指されているのは、物の実在からすべてを見ようとする唯物論の立場や、私の実在からすべてを見ようとする観念論の立場のような、生きた現実をある一方向から見て「まっすぐ」にしてしまうそれまでの哲学者らに対して、生きた現実をその生きたまま、まがりくねったまま「まっすぐに見る」ことなのである。

 経験というこのふしくれだってまがりくねったものをそのままに「まっすぐに見る」こと。これこそ西田幾多郎の目指したことだった。この「事實其儘」「純粋経験」とは一体どのようなものなのだろうか。
 西田幾多郎の主張は、それが活動的統一であること、まるで松の木がそうであるようにまがりくねっていながらも自発自展する生きた統一である、ということだった。

生きた統一にとって思惟とは何か

 私たちがつねにそこにおいて生きている経験、「之をして純粹ならしむる者はその統一にあつて、種類にあるのではない。」(I. 13p.)と西田は語る。それだから思惟であるか感覚であるか自体は純粋経験か否かの基準にはならないのだ。

 純粹經驗の直接にして純粹なる所以は、單一であつて、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいふことにあるのではない。反つて具體的意識の嚴密なる統一にあるのである。意識は決して心理學者の所謂單一なる精神的要素の結合より成つたものではなく、元来一の體系を成したものである。初生兒の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌の統一であらう。此の中より多様なる種々の意識狀態が分化發展し來るのである。併しいかに精細に分化しても、何處までもその根本的なる體系の形を失ふことはない。我々に直接なる具體的意識はいつでも此形に於て現はれるものである。(I. 12p.)

 かくして意識のまがりくねった「分化發展」はしかしどこまでも純粋経験を離れないものとされる。これは実際にはどのようなことなのだろうか。判断はどのようにして「判斷すら加はらない前」の一部でありえるのだろうか。
 第一章「純粋経験」にひきつづく第二章「思惟」は、判断の根柢にはつねに純粋経験がある、と示すところからはじまる。西田はまず判断についての従来の心理学的な理解に反対する。従来の理解では、たとえば「馬が走る」という文章のもとになる判断は「馬」と「走る」という表象を結合することで生まれるものだ。だが西田は述べる。

 併し我々は判斷に於て二つの獨立なる表象を結合するのではなく、反つて或一つの全き表象を分析するのである。例へば「馬が走る」といふ判斷は、「走る馬」といふ一表象を分析して生ずるのである。それで、判斷の背後にはいつでも純粹經驗の事實がある。(I. 18p.)

 かくして判断はつねに純粋経験からはなれることができない。判断とは、純粋経験を分析することであって、二つの観念を結合することではないからだ。
 さて、ここではこの判断、分析は、しかしまだ純粋経験に加えられるものでしかなく、判断するという経験としては純粋だが、判断のもととなる経験に対しては間接的なものでしかない。判断は統一全体にとってどんな位置にあるのだろうか。
 この点について第一章「純粹經驗」では「所謂分化發展なる者は更に大なる統一の作用である。」と述べられている。これはどういうことだろうか。

 こんな風に考えることができるだろう。
 まず走っている馬に出くわすという純粋経験があるとする。これに対して「馬が走っている」と判断する。この判断は最初の純粋経験に対しては間接的なものだが、しかし判断するという体験としてはこれもまた純粋経験である。
 しかし同時に、ここでは「走っている馬に出くわして「馬が走っている」と判断する」という経験が成立している。そしてこのようにして成立した経験は、走っている馬に出くわすというはじめの純粋経験にくらべて一層大きな統一であるとは言えないだろうか。

然らば何故に此の如き作用〔反省的思惟の作用〕が生ずるのであるかといふに、前にいつた樣に意識は元来一の體系である、自ら己を發展完成するのがその自然な状態である、而もその發展の行路に於て種々なる體系の矛盾衝突が起つてくる、反省的思惟はこの場合に現はれるのである。併し一面より見て斯の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直に一層大なる體系的發展の端緒である。(I. 24p. 〔〕内筆者付記)

 何かが近づいてきている。「なんだあれは?」小さいものか、大きなものか、生物か機械か。このとき、経験の内容は判断の材料として単なる知覚の経験として分析的に間接的に目の前におかれる。「あ、馬が走っているんだ」と気づく。そこで知覚経験と思惟との齟齬がやみ、大なる統一が現れる。

眞理を知るとか之に從ふとかいふのは、自己の經驗を統一する謂である、小なる統一より大なる統一にすゝむのである。(I. 33p.)

 しかし、上の例の場合、「馬が走っているんだ」と気づいただけでは問題は解決していない。「このままではこちらにぶつかるのではないか」「よけきれるだろうか」と気が気でない状態に陥るはずだ。そして人は逃げようと意志して足を動かす。逃げ切って、ようやく安堵する。
 こうしてみると、意志は思惟と同様に、経験の統一に安らうことができなくなったときに生まれ、その不和を解消し大なる統一をもたらそうとするのである。
 もっとも意志と思惟は同じではないと主張する向きもあるだろう。思惟は客観的現実に自らの主観的思考を合わせることで、意志は主観的要求に周囲の客観的状況を合わせようとすることである、と言えなくはない。だが、西田にとって、この主観‐客観の区別そのものが純粋経験の統一を失ったがゆえに現れる仮定なのである。はじめの純粋経験に安住できなくなったがために、主観と客観に世界を分け、何をどうすればよいかを調べようとするのだ。
 意志も思惟も、純粋経験をより大なる統一へおもむかせる自発自展の活動的統一の一部なのである。

純粹經驗の事實としては意志と知識との區別はない、共に一般的或者が體系的に自己を實現する過程であつて、その統一の極致が眞理であり兼ねて又實行であるのである。〔中略〕知と意との區別は主觀と客觀とが離れ、純粹經驗の統一せる狀態を失つた場合に生ずるのである。意志に於ける欲求も知識に於ける思想も共に理想が事實と離れた不統一の狀態である。(I. 36p)

 しかし、以上のように書くと、一々の統一、つまり純粋経験が矛盾によって分断されているようにも感じられるだろう。そうすると「純粹經驗を唯一の實在としてすべてを説明して見たい」(I. 4p)という西田の試みは失敗しているのではないか。
 だが、そのように一々の統一のみを純粋経験と見るのは狭い見方である。西田はむしろ小なる統一から大なる統一へすすむ「統一作用」「統一力」そのものに純粋経験を見る。
 しかしそうはいっても、矛盾と動揺によって分断された一々の純粋経験とそれらの経験を突き動かすものとしての純粋経験は別物ではないか。だが彼はこう述べる。

 統一する者と統一せらるゝ者とを別々に考へるのは抽象的思惟に由るので、具體的實在にてはこの二つの者を離すことができない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は單に枝葉根幹の集合ではない、樹全體の統一力が無かつたならば枝葉根幹も無意義である。樹は其部分の對立と統一との上に存するのである。(I. 69p.)

 それはかつて一休が面した松の木のように、生きた統一なのだ。

ついに神に至る「統一」

 純粋経験とはこのようにまがりくねっていながらも一つの統一を成している。そして人は感覚や思惟、欲求にまがりくねりながらも一人の人間として生きた統一を成している。だが、西田の思想の特色は「経験=個人の経験」の限界を踏み越えるところにある。
 西田幾多郎のよく知られた言葉をかかげよう。

個人あつて經驗あるにあらず、經驗あつて個人あるのである(I. 4p.)

 引き続き『善の研究』を読んでゆこう。
 第二篇「實在」は第一篇「純粹經驗」と内容上重複するところが多いが、西田がはじめに書いたのは第二篇の方で、第一篇は後から付加したという(I. 3p.)。第一篇が「純粹經驗」の性質を明らかにするために後から書かれたのに対し、第二篇は彼の哲学的思想を述べた『善の研究』の骨子というべきもの、と西田は序のなかで述べている。
 第二篇は、「眞の實在」を理解するための出立点を得るために「疑ふにももはや疑ひ樣のない」(I. 47p.)ものとして純粋経験を見出すところからはじまる。

少しの假定も置かない直接の知識に基づいて見れば、實在とは唯我々の意識現象卽ち直接經驗の事實あるのみである。この外に實在といふのは思惟の要求よりいでたる假定にすぎない。(I. 52p.)

 「直接經驗の事實」のみを実在とみなす西田の思想はきわめて唯心論的にうつるだろう。だが、彼の「純粋経験」とは物心の仮定以前のもの、あるいは物心双方の根源となるようなものである。
 そして、彼は「経験は誰か個人のものでなければならない」という考えをも独断とみなす。

難問の一は、若し意識現象をのみ實在とするならば、世界は凡て自己の觀念であるといふ獨知論に陥るではないか。又はさなくとも、各自の意識が互に獨立の實在であるならば、いかにして其間の關係を説明することができるかといふことである。併し意識は必ず誰かの意識でなければならぬといふのは、單に意識には必ず統一がなければならぬといふの意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に獨斷である。(I. 54-55p.)

 純粋経験をして「純粹ならしむる者はその統一にあつて、種類にあるのではな」かった。そしてここでは、その「統一」という概念が「経験=個人の経験」という限界を踏み越えるために使われている。そして、この「實在」=「純粹經驗」は究極的には「宇宙を統一する無限の作用」(I. 99p.)すなわち「神」につながっているのである。
 西田は述べる。

物體現象といひ精神現象といふも純粹經驗の上に於ては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に屬すべきものである。我々の思惟意志の根柢に於ける統一力と宇宙現象の根柢に於ける統一力とは直に同一である。例へば我々の論理、數學の法則は直に宇宙現象が之に由りて成立しうる原則である。(I. 68p)
我々の直接經驗の事實上に於て如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んで居る。卽ち無限なる實在の統一力が潜んで居る、我々は此力を有するが故に學問に於て宇宙の眞理を探ることができ、藝術に於て實在の眞意を現はすことができる、我々は自己の心底に於て宇宙を構成する實在の根本を知ることができる、卽ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神其者を證明するのである。(I. 98-99p.)

善の研究

 善の研究という倫理学的テーマと純粋経験論という哲学的テーマは『善の研究』において固く結びついている。
 第一篇と第二篇の純粋経験論が従来の主観的観念論の哲学と客観的唯物論の哲学の分裂を乗り越えるために書かれたとしたら、第三篇「善」が乗り越えようとしているのは従来の他律的倫理学(権威、社会をもとに善悪を論ずる)と自律的倫理学(理性、快苦をもとに善悪を論ずる)の分裂である。
 他律的倫理学を、まず西田は否定する。権威を尊ぶ、というも権威には暴力的権威もあれば精神的権威もある。これでは善悪の標準を定めようがない。
 理性をもとにした自律的倫理学もまた、これを否定する。「理性にしたがう」といっても理性によって得られる「かくある」という知識は「かくあらねばならぬ」という実践を生みえない。理性的な倫理学の実践者としてストア派が考えられるが、結局彼らは無欲、アパシーの境に安らうだけにとどまった。「併し我々が情慾に打克たねばならぬといふのは、更に何か大なる目的を求むべき者がある故である。單に情慾を制する爲に制するのが善であるといへば、これより不合理なることはあるまい。」(I. 133-134p.)と彼は付言する。
 快苦をもとにした自律的倫理学も、やはり否定される。快を求め、苦を避けるというが、それはそもそも何に快を覚え何に苦を覚えるかにかかっている。人を助けるのでも、自分の腹を満たすのでもそれによって人は快を得るだろう。だが、それは快を求めたがためになされたというよりは、どうしてもそうしなければならないという欲求を満たせたが故に快楽が得られたと考えるべきである。「原因と結果とを混同したものである。」(I. 140p)と彼は言う。
 しかしこのように否定するも、西田幾多郎は他律的倫理学の核となっただろう「道徳的善の命令的要素」(I. 141p)と自律的倫理学の核となっただろう「人性自然の要求」(I. 129p)を決して否定しない。善は自分の要求とも他なるものの要求とも言いうる要求である。そして、それは自由意志の問題と重なる。

 そもそも意志の自由なるものは存在するのだろうか。肯定派は、外界の事情や内的な気質に独立して何かを選択し決定する力を人間はもっていると主張する。否定派は、宇宙の現象は一つとして偶然に起こるものはないとし意志もまたその法則に支配されていると説く。
 西田はそれぞれの主張を概観してから次のように述べる。

 さて此の二つの反對論の孰れが正當であらうか。極端なる自由意志論者は右にいつた樣に、全く原因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神秘的能力があるといふ。併しかゝる意義に於て意志の自由を主張するならば、そは全く誤謬である。我々が動機を決する時には、何か相當の理由がなければならぬ。縦ひ、之が明瞭に意識の上に現はれて居らぬにしても、意識下に於て何か原因がなければならぬ。又若し此等の論者のいふ樣に、何等の理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあつたならば、我々は此時意志の自由を感じないで、反つて之を偶然の出來事として外より働いた者と考へるのである。(I. 113-114p.)
それで意識の自由といふのは、自然の法則を破つて偶然的に働くから自由であるのではない、反つて自己の自然に從ふが故に自由である。(I. 116p)

 意志の自由とはこのようなものであるが、そもそも意志とは何等かの苦境や矛盾に際してそれを解決しようとする力だといえる。すると、意志とは活動的統一としての純粋経験そのものと言うことが出来る。活動的統一においてはつねに小なる統一から大なる統一への移行が目指された。意志もまた同様だとすると、善について次のように述べることができる。

我々の意識は思惟、想像に於ても意志に於ても又所謂知覚、感情、衝動に於ても皆其根底には内面的統一なる者が働いて居るので、意識現象は凡て此一なる者の發展完成である。而してこの全體を統一する最深なる統一力が我々の所謂自己であつて、意志は最も能く此力を發表したものである。かく考えて見れば意志の發展完成は直に自己の發展完成となるので、善とは自己の發展完成self-realizationであるといふことができる。(I. 145p)

 さて、上の文章では意識の統一力を「所謂自己」と見ている。だがすでに触れたように、西田にとって「意識は必ず誰かの意識でなければならぬといふのは、單に意識には必ず統一がなければならぬといふの意にすぎない」のだ。それゆえ自己の發展完成としての善は、そのまま社会規模、人類規模、宇宙規模の善につながっているとされる。

 善とは一言にていへば人格の實現である。之を内より見れば、眞摯なる要求の滿足、卽ち意識統一であつて、其極は自他相忘れ、主客相没するといふ所に到らねばならぬ。外に現はれたる事實として見れば、小は個人性の發展より、進んで人類一般の統一的發達に到つて其頂點に達するのである。(I. 163p)

 第三篇「善」の最後の段落にて西田は次のように語る。

 終に臨んで一言して置く。善を學問的に説明すれば色々の説明はできるが、實地上眞の善とは唯一つあるのみである、卽ち眞の自己を知るといふに盡きて居る、我々の眞の自己は宇宙の本體である、眞の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本體と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も實に此處に盡きて居る。(I. 167p)

 かくして、『善の研究』における善の研究はしめくくられる。

宗教

 ついに第四篇「宗教」にたどりついた。西田が「かねて哲學の終結と考へて居る宗教」(I. 3p)である。しかしその概念はすでに折々に触れられていたはずである。それらで強調されていたのは、宗教が人の最も深い要求であるということだった。
 西田は改めて述べる。

 宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉體的要求や又精神的要求をもつて居る。併しそは皆自己の一部の要求にすぎない、獨り宗教は自己其者の解決である。(I. 172p)

 宗教とは「生命其者の要求」(I. 172-173p.)である、と彼は言う。だかそのような宗教とは一体どのようなものか。そもそも「宗教とは神と人との關係である。」(I. 173p)しかし、どのような関係か。神が単に超越的で人と全く隔絶していているのならば、そこに宗教は生まれない。何か強力な力をもつ存在がいるというまでである。神と自己の関係は、神に帰することが同時に自己自身の根柢に帰することである関係である。

實在の根柢たる神とは、この直接經驗の事實卽ち我々の意識現象の根柢でなけれあならぬ。(I. 181p)

 さて、このような神は決して対象化してとらえることのできないものだ。意識統一が統一される意識内容に対して無であるように、神は対象的有ではない。それは否定神学者らのように否定をもって論ぜらるべきものである。西田はとくにヤコブ・ベーメの「物なき靜さ」「無底」「對象なき意志」といった言葉を引用している。
 しかし、統一力であるがゆえに無である神は、まさに統一力であるがゆえに人格でもなくてはならない。
 西田にとって、人格とは我々の精神活動の根柢に働く統一力そのものである。そうすると、宇宙そのものの統一力である神は「宇宙の根柢たる一大人格」(I. 182p)でなければならない。こうして彼は言う。

神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。實在の本質が人格的の者でありとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は信の直覺に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずといふ者は、最も能く神を知り居る者である。(I.200p)

 この文章をもって『善の研究』は終結を見る。


***

※引用はすべて昭和四十年に発行された西田幾多郎全集、第一巻から。

 今回、私は西田幾多郎の思想にあえて批判を加えず、ただ『善の研究』という一冊の本のまがりくねってはいながらも「まっすぐ」なありさまを書きまとめることに注力した。その際、私が注目したのは彼の「統一」という鍵概念である。「統一」こそ「純粋経験」、「実在」、「善」、「宗教」という各篇を結び付けているように私には感じられたからだ。
 さて、これから私は西田幾多郎の思想にさらに分け入り研究しなければならない。
 私が注目しているのは彼の他者論である。ここまで読まれた方は首をかしげるかもしれない。西田にとって他者という問題はそこまで大きくないように見える。「純粋経験」と「統一」という道具立ては簡単に個人という限界をとりはらって、社会や国家、人類へあまりに容易につながってしまうように見える。おそらく、『善の研究』における西田は他者という問題よりも「純粋経験」「統一」といった概念を明らかにすることに関心があったのだろう。だが、それは直ちに「他者がいない」ことを意味するのではない。『善の研究』の内部ですでに西田は各個人の独立性について述べている箇所がある。
 この小さな種がやがて「私と汝」という論文、さらには『哲学の根本問題』という著作につながってゆく。が、それはまた別の話である。
 

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