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眠れぬ夜は最高の恵みであった

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不眠症だった私が、当時思っていたこと、考えていたこと。 若かりし日に、自分自身が「自分のためにたどり着いた考え方」について。 生き方が楽になるヒントを綴ります。
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自分の苦しみは自分しか救ってあげられないと思うに至る

不眠症というのは、夜の時間を楽しむ権利のようなものだと思うことにした。 だから、かつての私は、夜通し好きなことをして過ごしたのだ。例えば、延々と自問自答を続けるなど。 お題を用意して、自分がそれに答え眠れぬ夜を楽しんでいたのだ。 苦しい時には誰かに助けを求めるべきか助けを求めることを推奨する言葉を見聞きする。身近に相談できる人がいれば「悩みが深刻になることは避けられる」という言葉。それ自体を否定する気はない。 だが、それだけで物事は解決するのだろうか? 悩みは人に話

選ばなかった「人生」を笑顔で見送る

明るい陽射しの中、私の心はとても晴れやかだった。飛行機を眺めながら、選ばなかった「人生」を見送っていたのだ。 21歳の私は進路に迷っていた。飛行機整備士を目指す大学への合格を得ながら、結局は、別の進路を選んだ。 岐路を思い返し、悩み苦しんだこともある。でも、今は違う。あのときの選択を肯定的に受け止める「今」を生きている。 ◇ 大人になるってどういうこと? ちょっと哲学っぽい悩みのようでもあり、誰もが疑問に思うことがあるような、そういう問を自分に投げかけることがある。

未熟さの英知

「英知と呼べるモノ」に憧れを感じてきた。 だが、未だ英知というものの本質は掴めていない。 漠然と若いうちには身につけられないものと認識だった。それだからか、年を取るということに憧れすら感じていたのだ。 ◇ 「年は取りたくないな。」などという言葉を見聞きするたびに、私は首を傾げてきた。 けれども、成熟という言葉を好む人との出会いがあり、考えが少し変化した。 「年を取る」ことは必ずしも英知に近づくことではないのだという。なぜなら、年を取ることで「腐っていく人」と、年を

捌ききれない想いを抱えて

人と接すると、あらゆる感情が沸き起こる。 好感、嫌悪感、不快感、幸福感。 それらの感情を自分の中で捌(さば)きながら生きる。ここでいう「捌く」とは、感情の交通整理をして、「どの感情を採用するのか」、「採用した感情をどの程度表に出すのか」といった司令塔が担う役割のことだ。 大人になると「捌く」ことは上手くなっていく。 大人になるというよりは、大人になったと周りに映るというだけのことかもしれない。 全ての大人に捌く能力の高さがあるかというと疑問の余地は残る。だが、「大人

聞くも因縁、聞かぬも因縁。

「見るも因縁、聞くも因縁。」という言葉は調べれば意味が出てくる。見たり聞いたりすることと同じモノを自分も持っていることを示唆しているということ。 例えば「人の気分を害して平気な人がいる」という状況をよく見聞きする人は、その人自身も「内面に同じような要素を持っている」ということだ。 それに対して、父の口癖は、「聞くも因縁、聞かぬも因縁。」だった。 自分の内面にない「要素」は聞くこと(=知ること)ができないという意味で使っていたのだと思う。 人は自分自身の都合がよいように

一人称を「私」にこだわって書くわけ

自分自身のことを何と記しますか? 自分自身のことを何と呼びますか? おそらく「わたし」と書いて、「ワタシ」と心の中で呼んでいる人が多いのではないかと思います。 私は、「私」と書くことにしています。そして、読み方は、その時々によって様々です。 本来なら、フリガナをつけて、こちらの意図が通じるようにするべきなのでしょう。けれども、私は、一人称を「私」と記すことで、その時々で好きなように呼んでもらうことを是とし、敢えてフリガナをつけていません。 ちなみに、私は、相手によっ

「やらないこと」も個性のうち

人の評価の方法は多々あれど、案外、似たようなところを基準にしている。 それは、「何をする人か?」「何を持っている人か?」「何を得意とする人か?」といった行動や態度に現れることを評価しているという点だ。 私は、それについてあまり考えたことがなかった。 なぜなら、人を評価するなどというのは、自分にはまだ無理だという考えを持っていたからだ。 ところが、いろいろと厄介な人間関係に巻き込まれることが増え、少しは人の評価という視点を取り入れて、つきあう人を選ばないといけないなぁと

無縁仏となる日まで

子どもの頃からお墓参りが好きだった。 好きだったというよりは、子どもの頃のレジャーという立ち位置だったから楽しめたのだと思う。 家族そろって出かけることといえば、お墓参りくらい。私はそういう家庭で育ったのだ。 そんな環境で育ったからか、「死」はとても身近な存在だった。 生まれてきたら必ず死ぬ。 誰かから教えらえたわけではないが、「死」というものを自然と受け入れていた。 人によっては、死ぬことを忌み嫌う風習の中にいたりするのだろう。そういう人たちは、死ぬことや死んで

後悔がないように生きる方法

頭の中に後悔という言葉が常駐していた時期があった。 私が30歳くらいの頃だっただろうか。 「やった後悔」と「やらなかった後悔」という友人の言葉がきっかけだったと思う。 言葉を発した当人によると、「やった後悔」と「やらなかった後悔」では、前者のほうがベターなのだという。だから何でも思い切って飛び込んでチャレンジするのがよいのだとか。 だが、友人の言葉に対して素直に頷けない自分がいた。 本当にそうだろうかと、疑問を感じずにいられなかったのだ。 「やった後悔」とは?好き

自分に自信がない人の魅力

自分に自信がない人の魅力に気づいているのは、私だけではないだろう。 内省が深い。 慎重さがある。 正直に自分をみつめる。 そういう傾向があるから、自分に自信を持つことが難しいのだ。 けれども、当人は、「自分に自信がない」といって困った様子。だから、周りから見ていると、なんともモドカシイ気持ちになる。 内省が深い。自分に自信がないという人と話をしていると、たいていは大きな後悔を背負っている。 その後悔の念は、深い内省からくるもの。過去の瞬間、選択の分岐点に立った自

各自の意見は「等価」という意識の大切さ

「自分のことは案外わかっていない」という説がある。 それは一見真実のようにも映るが、筋違いの説だと私は捉えている。 各自の意見は等価であることが対話の大前提他人が自分をどう評価しているかという側面と、自分は自分のことをどう評価しているかという側面があって当然なのだ。 評価というものは、各自の「独断」で決めることが「思想の自由」として認められている。 だから、私は、自分のイメージと「全く違う女性像」を押し付けられることに対して抵抗はするが、自己イメージと「全く違う女性像

白と黒がつくる世界には白も黒もない

どこかで耳にしたことがある。白か黒かで決めず、「灰色の世界」だと思えばよいという話を。 灰色の世界だと思えという意見に頷ける部分もある。そういう考え方を悪くはないと思う。だが、私の世界観とは微妙に違っている。 白か黒か実際は、それほど白か黒かの極端な判断をしていなかったとしても、判断が極端な傾向がある人のことを「白か黒かの極端な意見だね」と表現しているように映る。 例えば、白に25%の黒が入った灰色とか、白と黒が半々の灰色とか、白に75%の黒が入った灰色とか、大雑把な段

人は常に変化している

人は変わらない。 あの人は変わった。 「人が変わる」という状況に関して、変わるとか変わらないとか表現することをよく耳にする。 つまり、そのことを意味のあることだと思う人が多いのだろう。 「変化ゼロ」ではないことは間違いないだろう食べ物の好みに関しても変化していく。 脂っこいものが好きだった若い頃と比べて、さっぱりとした和食が好きになってきたとか。そういう変化を聞いたことのある人は多いのではないだろうか。 だから、変化すること自体がゼロではないと思える。 一方で「

後ろを見るために前に進む

遠くを見渡せる場所が好きだ。 山のテッペンや灯台などの「高いところ」から遠くを見渡すと、全てがうまくいくような晴れやかな気持ちになるからだ。 ◇ 日々の暮らしでは、見通しが悪い中であっても暗中模索で進まなくてはいけないことが多々ある。 暗中模索とはいえ、進むための情報は、ある程度集めることも可能だ。知り得た情報を分析して、現時点での最善と思うものを選択して進む。 だが、不可避な問題が沸き起こり、右往左往することも多い。予想ができなかったことを悔やむとしても、そもそも