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小説を読むのが苦手になったのはいつからだろう?

「本を読むのが好き」というわけではない私。

文章を読むのが苦手なのだろう。

そんな私が、いっとき、小説を読むことにはまっていた時期がある。

本を読むのが好きなわけではないから、読むのは早くない。

けれども、好きになると夢中になって、読み終えるとすぐに最初から読み直すほど好きになった物語もある。

そんな時期があったにも関わらず、今では小説を毛嫌いをしてしまうほど苦手になってしまった。

小説を読むのが苦手になったのはいつからだろう?

そう自問しても、答えは見つかりそうにない。

ただひとつ思い当たるふしがあるとすれば、説明が多すぎる小説が増えたと感じるからだろうか。

読者の想像力をかきたてるより、書き手の作り上げる世界観を的確に伝えようとすることを優先させる。読者に感じて欲しい「答え」は明確に書かないけど、「答え」がしっかり出せるように完璧な伏線をひく計算高い文章。

私は、そのような小説が苦手で仕方ない。

伝えるべきことをきちんと伝える情報商材としての文章ならいざ知らず。答えを明確にさせるのは誰のためだろう。

「価値を感じる人だけに価値を感じ取ってくれたらよいのです」という開き直った「流行りの小説」は、脳が受けつけないので、全くといってよいほど読めない。

「真実は小説より奇なり」とは、英国の詩人バイロンの言葉。虚構ではない真実のほうが不思議なことが起こりえるものだという意味の言葉とされている。

「真実は藪の中」だから不思議さを醸し出す。全ての人が「自分は誤解していない」と主張したとしても、全ての理解が虚構であり真実。物語に登場する人の数だけ真実があるのだ。

読み手を惹きつけて離さない小説には「藪の中」のような曖昧さが随所に隠され、想像力に無限の翼を与えてくれる。

自由に想像力を膨らませることができない小説なんて、いまさら読む価値があるのだろうか?