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私があなたの「イイネ」に価値を置く理由

承認欲求というものが私にはあまりない。

それだからかもしれないが、「イイネ」の価値をそれほどまでに実感できずにいる。

「自己愛の傷つき」といって承認欲求が満たされないことを延々と語る文面にも出くわしたことはあるが、共感のかけらすら覚えることができなかった。

それホントに必要なこと?

誰かに認められなくても別にいいんじゃねっ?

人生短いよ?

私の感想をひと言でいうならこのようなものだった。

とはいえ、私は「イイネ」の基準からその「人となり」といったものが伺えると信じている。

「イイネ」をもらうことに興味がないとはいえ、自分流「イイネ」の意味を持たせて発信しているからだ。

私には「イイネ」を押すときにいくつかの基準がある。

「それはよいことでしたね」「私もそう思います」といったシンプルなものもあるが、「スッと腑に落ちました」というものも案外多い。

「スッと腑に落ちました」というのは、賛成はしかねる意見に対して、あぁなるほどねと思わせてくれたことへの感謝としてアクションしている。

そんな風に自分なりの「イイネ」の基準を設けているから、他者の「イイネ」の基準に価値を見出してしまうのかもしれない。

感性でパッと閃いたら「イイネ」する人もいるだろう。周りからこういうことに「イイネ」をする人なんだと思われたいを基準に選んでいる人もいそうだ。なかには「イイネ」をもらったからお返しに「イイネ」をしなくてはという礼儀として行動を起こす人もいるかもしれない。インフルエンサーや著名人に阿(おもね)る行動として「イイネ」をする人もいそうだ。

もちろん、「イイネ」を一切しないというスタンスの人がいることも承知している。

それはそれで、その人の「人となり」。

直でお会いしたことがある人であれば立場を理解できるし「イイネ」をしない行動にも奥行きを感じることができる。ソーシャルメディア+リアル繋がりとなれば、そのような付き合いがあってもよいと私は思う。

どのようなことに興味があるのか。どのようなことに関心を持っているのか。それを垣間見ることができるリアクションとしての「イイネ」ではあるが、「イイネ」をもらえないことにも意味がある。

「イイネ」をもらうことではなく「イイネ」の判別をしている行動にこそ価値があるのだと私は思う。

「イイネ」をしてもしなくても、その行動はあなた自身をさらけ出している。