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「ご縁」という名のもとに


お寺の行事として盆祭りが行われ、その一コマとして初盆法要が設けられていたので少し足をのばしてみた。日が傾いた夕暮れ時のことだ。

初盆を迎える檀家たちが集まり、若干場違いな格好の私が、身の置き場のない思いを抱きつつ席につくと、親しげに挨拶された。

もちろん初対面の方である。

どの方も穏やかな心で私を迎え入れてくれた。

一緒に「南無阿弥陀仏(なもあみだぶ)」と唱えるうちに、寺全体がひとつの生命体になったかのような、なんともいえない大きな力に包まれているように感じた。

実のところ、私はクリスチャンではないが、過去のある一定の時期、教会に通っており、何か心に抱えるものがあるときは聖書を開いている。そんな私であっても、いや、そんな私だからか、この精神的な一体感に引き込まれてしまった。

ひとりひとり脈々と続く系譜の一端が、確かに今ここに存在し、「ご縁」という名のもとに、引き合わされている。

そんなことを考えると、何ものにもかえがたい尊い気持ちになった。

ちょっとした講和も聞くことができた。

古い寺は目に見える所の造りもしっかりしているが、人の見えない部分、具体的には、建物の基礎がとてもしっかりしているのだとか。

その例をとって、人の生活も、目に見えないところ、人の目にさらされないところ、具体的には、ちょっとした引き出しの中、押し入れの奥が、きちんとしてくれば、本物に近づいていけるというのだ。

ここでいう「本物」とは、祖先を敬い、地に足の着いたしっかりとした生き様をしている人のことで、私の感覚でいう「全うな人」ということのようだった。

引き出しの中がきちんと整理整頓されていれば、生活の中で無駄が減っていくだろう。具体的には、同じようなものを買ってしまわないとか、物を探すのに時間がかからないとか、そういうことでお金や時間の有効活用ができるということに繋がっていくと考えればよい。

そうやって、生活が整っていけば、打ち込むべきものに誠実に向き合う姿勢が整い、結果として「本物」に近づくということなのだ。

「なるほど!」とここ数か月の自分を反省することしきりであった。

「ご縁」という名のもとに、この話を聴くことができたのも、次のご縁へのお導き。

またひとつ前に進んでいけそうだ。