何者か形容すること|PROJECT ITOH 三作品の感想

Project Itoh

屍者の帝国
<harmony/>
虐殺器官

伊藤計劃三部作、全て映画館でみてきました。
SFという世界には馴染みが薄い自分ですがアニメPSYCHO-PASSが好きでそこから興味を持ち、映画を観て小説を読ませていただきました。
SFという世界には詳しくない人の感想ですのでゆるく見ていただければと思います。
主に映画の感想です。(ネタバレ注意)

屍者の帝国

まず、小説とは大きく異なる登場人物の関係性でしたが映画の約2時間のストーリーの中ではわかりやすく整頓されていたなと思います。
屍者の帝国だけ映画→小説の順で見たんですけど、伊藤計劃さんの残されたわずかな冒頭から円城塔さんが描く「屍者の帝国」と映画のスタッフが描く「屍者の帝国」は同じものになるのではなくそれぞれが思う伊藤計劃が残した屍者の帝国を描くような観点になっていてとっても良かったと思います。
まさしく物語は生き続ける。
これは本当にすごいことだなと感じて、最初の文からいろんな物語を派生させる力が伊藤計劃という作家の持つ力なのか…!と感嘆しました。

屍者の帝国はWITさん制作とあって流石I.G.出身の製作陣だけあるなと思いました。SF描くのうまいですね。世界観が濃厚で最初のPVや冒頭だけでその世界の奥行きの深さを感じることができました。ワンシーンワンシーンの画面の作りこみが半端じゃないですね。
あと今回屍者の帝国見て主役の細谷さんの演技力の高さに脱帽しました。すごいよかった…!すごい…!
主題歌もよかったですね。EGOISTの仄暗い感じとcherryちゃんの甘い歌声がすごく響いてました。余談ですがEGOISTのライブに行ったときに喉の調子がいいです!って本人が言っていたんですがそのときに聴いた生のDoorのよさは思わず涙が出てくるくらい良かったです。

さて、屍者の帝国なんですが私はこの「君の名前は?君に僕が見えているか?」の問いかけすっごく好きなんです。
これワトソンが何度も何度も問いかけているのですごく印象的ですね。この映画の醍醐味は下水のシーンでのこの問いかけだと思っているので、ここのワトソンの叫びがすごく必死に「生きている」者としての問いかけらしくて好きなんです。
魂の重さは21g。肉体が滅ばない世界の中で(屍者は労働力として使われる)、われわれが自分として動かしている肉体はわれわれが死んだ後自分としての「個」を示すことができないのだろうか?というのがワトソンとフライデーが探していたことじゃないかと。「個」を魂と言い換えるとしっくり来るかなと思います。
魂があるなら…で始まるフライデーとワトソンの会話の中に魂の在処は肉体の中なのか疑似霊素のなかなのか難しい話をしていますね…。魂というものが肉体に宿るというなら21gは魂を動かす要素ということが彼らの解釈じゃないかなと思ってみてました。

魂があるとわかったらペン先で額を小突くという約束…。この約束ってすごいなって思うのがこのペン先で額を小突くっていう動作がフライデーの癖になっているんです。つまり肉体に魂が宿る=肉体の記憶(癖)が21gが抜けた後21gを入れることで(疑似霊素)また魂が動き出すんじゃないかという意味になっているんだなと感じました。

この2人の物語の中で2人印象的な人が出てきますね。
それがバーナビーとハダリー。バーナビーもハダリーもワトソンとは違う魂の考えを持っています。それがこの2人の求めている魂の在処への物語を際立たせているのが素晴らしいなと感じました。
映画版ではカットされてしまいましたが小説のなかの一節に、ワトソン「あんたは生命とはなんだと思う?」バーナビー「……性交渉によって感染する致死性の病」の会話があるんですがこの会話凄まじく刺さる会話してるなと思っています。ワトソンは「個」としての魂を追い求めて、死んでも尚「魂」は存在する。という考え方をしています。けれどバーナビーは死ぬこと自体が一律に訪れるものとして見ているからこそ、死んだら魂はなくなってしまう考えなんですね。イギリス人なのでキリスト教的な思想なのかなって感じたんですがどうでしょうか。(違ったらすみません)
死んで肉体ではなく魂が審判にかけられ、楽園に行けるてきな…。大事なのは死後魂はどこへ行くかであって魂にとっては肉体は地上での容れ物に過ぎないという感じをうけました。ある意味あの屍者で溢れかえった世界の中では酷く現実的に見えるのが妙だなと思いました。

そしてもう一人がハダリー。
ハダリーは映画の方にものすごい素敵な台詞がありましたね「…だからわたしは、失敗作なんだわ」です!この台詞大好きすぎてこの台詞見たさに2度目の劇場行きを決意したりしました(笑)
ハダリーは機械人形です。感情豊かのように微笑み、勇み闘っていく美女ですが涙を流せないととても悲しい顔をします。こんなに葛藤していて機械人形なのか!?と吃驚するぐらい彼女からは「生」を強く感じました。彼女自身の葛藤というのが「感情」を抱くことが人間なんだということなんですが、それがノイズになってしまうっていうのはものすごく皮肉が利いていていいなと思いました。
ハダリーは「感情」そのものを「魂」と位置づけるキャラクターでしたね。つまり肉体に魂が宿るのではなく「魂」そのものが存在していてそれが「感情」を表している。バーナビーと近しい考えなんですが彼女には死がないぶん、死して楽園へ行く的な宗教的思想がないのがバーナビーとの明確な差だなと思いました。死んだら無として消える。魂は消失する。そのことをわかっているハダリーだからこそ、機械人形にはないはずのノイズに縋りたかったんじゃないかなの思いました。

この2人がワトソンとフライデーの傍にいたっていうことがものすごい対比だったなと思いました。

屍者の帝国は最後の判断はいろんな解釈があるとは思いますが、嫌いじゃないです。
この話は屍者の物語だと冒頭のタイトルが出るとこでナレーションが入るのですが、まさしくそれだなと感じました。

屍者の帝国はTVのPVとWeb限定のPVがすごく好きなんですが理由としてはTV版がワトソン視点、Web版がフライデー視点になっているなって思ったからです。TVとWebの映像の編集を見返すとワトソンから見たフライデーに重点が置かれている編集になっている気がするからなんですけど(Webは逆)、特に主題歌であるDoorの使いどころがまさしくだなって感じがしました。
TV版は「私はここにいるわ あなたの想いに夢を見て永遠に眠る」でWeb版が「あなたはここにいるわ 崩れ落ちる現実 夢をみて永遠に眠る」なんです。最初見たときは逆かなと思っていたんですが本編を見た後に納得しました…!Web版はフライデーだったなって。

この歌詞思いっきりラストへの伏線でしたね。
フライデーの理論を追い求めて求めた先に手記を意識の中に抱いて眠っていくワトソンがそれでも私はここにいるというのを表しているんだなっていうのと、真実を知っていく中で手記を抱いて意識の彼方に行ってしまったワトソンに対してのフライデーのワトソンはここにいる(いた)という肯定の歌詞なんだなと気づいて涙が出ました…。
劇場でも下水のシーンで泣き、最後の主題歌でも泣いてたんですがこれ言葉に表すのが難しい感情なんでうまく伝えられないのですが、自分という魂の根幹を強く揺さぶられるような感覚を味わいました…。

<harmony/>

正直に言います。難しい話でした!

映画はCGと2Dキャラの差を消そうとすることで人間にあまり「生」を感じさせないようにしてたのかなって思いました。特にトァン以外はあまり生きているということを感じなかった…。なんとなく均一化されたロボットみたいな感覚を覚えました。ただミァハだけは生々しい少女でしたね。
ミァハ役の上田麗奈さんのあの生々しい感じ…。そこに強く拒絶させるような沢城さんの演技がラストで崩れていくのに鳥肌が立ちました。

<harmony/>のキャッチフレーズである「わたしの心が、幸福を拒絶した」がとんでもなく大好きなんです。
この物語は、やさしすぎて無菌状態(健康に対して気を使いすぎている)の世界の中で、やさしさに守られながら生きていくことが幸せなのに、幸せすぎるが故に息苦しくて生きづらくなった少女たちが自殺しようとするっていう過去から始まって行き過ぎた「優しすぎる」世界の究極の優しさプログラム「harmony」が発動する話。そのなかで、主人公であるトァンが自分のエゴの中にミァハを閉じこめる話っていう解釈なんですが、このトァンの行動がたまらなく愛おしい行動なんだなと思いました。

いわゆるハーモニープログラムって精神の調和するっていうことだと思うのですが、つまり一緒に笑いましょう、悲しみましょうっていうことで、ニュースを見て画面の向こうで死んだ人に私たちは日常的に涙は流さない。けれど一緒に悲しみましょうっていうのを全人類一緒にしましょう。っという「個」を殺して調和する「全」にひとつになるという恐ろしいプログラムなんです。
私はこれを恐ろしいと感じるのですが、この調和がなされると争いがなくなります。だからいい面もあるんですが、個性を殺すことでもあるので自分自身の輪郭が酷く崩れて行くことだと思うんです。私はそれは恐ろしいと思いました。

ハーモニープログラムが実施される前から、均一化されて行く社会の中に生きられなくなった子供たちが自殺していると聞いて、やはり青年期に差し掛かる前の自分とは何かをもとめる思春期の少年少女の中には耐えられなくなる子がいるんだなと思いました。個を消すこと=あきらめること=思春期の終わり(大人になる)と考えるとで自分が消える、消される前に死んでしまうことによって自分という人間が自分の意志をもった人間として生きていたということの唯一の抵抗手段として死があったんだと思います。
いわゆる「時よ止まれ、お前は美しい」のゲーテまんまですね。

個人的にミァハの望んだハーモニーの世界は叶えてあげるけど、あなたはその世界には行けないっていうトァンの復讐するところが好きだなと思いました。意識のない「個」という存在に隔たられることのない世界を望むミァハに、トァンの中で強烈な「個」として残っているミァハのままで居て欲しかったからハーモニープログラムの発動する前にミァハをミァハ個人の意識があるうちに殺すというのは、トァン自体が望んでいた自分の生きたかった姿なんじゃないかなと思いました。
生きているという「個」を強烈に感じさせるのはミァハのあの生々しい吐息の使い方、動き、思考はトァンの憧れているトァンの生への実感だと思うんです。
過度に守られ過ぎて自分が生きているのかすら曖昧になり過ぎてしまったからこその、トァンのエゴでのミァハの終わりはとっても強烈でした。

それと「言葉には人を殺すことのできる力が宿っているんだよ」というミァハの言葉。
まさしく虐殺器官じゃないか…!となりました。この言葉がでてくるっていうのがミァハとジョン・ポールって考えるとぞっとしますね…。どちらも「自分の」世界を愛しているから壊したいという考えなふたりなので幽霊のように実体を感じさせないこの2人が言うことにものすごく伊藤計劃さんの考えが出ているんだなと思いました。

<harmony/>の主題歌Ghost of a smileの「僕の分まで笑わなくていい だから僕の分まで泣かなくていい」っていうフレーズはミァハへのトァンの願いなのかなと思います。
このフレーズがとても好きです。内容がものすごく未来的なのにピアノで淡々と歌うのが素敵な主題歌でした。

虐殺器官

まずは一言!劇場公開おめでとうございます。
制作会社が倒産したと聞いたときにはどうなるかと思いましたが、山本Pが制作会社を立ち上げてまで作ってくれたことに本当に感謝でいっぱいです。
そして「伊藤計劃」の作品を「娯楽作品」として容赦なく昇華させた村瀬監督の手腕がプロの仕事に対する尊敬を感じました。

確かに、クラヴィスの母親のエピソードを削ってしまったのでルツィアに対しての執着の動機が薄くなってしまった感は否めないのですが、それでもジョン・ポールという存在とアレックスの言葉が最初に来る演出でクラヴィズとウィリアムズの考え方の対比というかどんどんジョン・ポールの思考に影響されて行くのがわかりやすくなってました。
ただ欲を言うとエピローグは見たかったです!あの不条理な感じで終わるのが虐殺器官の醍醐味だと思っていたので…。

ですがなにはといもあれ満足できました。
周りが泣いてないのに途中から何故か涙を流し、リローデットが流れたときに号泣したんですが理由はわかりません!ただ見終えた時三部作全てに根底にはしっかり伊藤計劃がいるんだということを感じれて寂しくて嬉しくて悲しかったことを覚えています。

作画も容赦なくグロいとこも描いてましたね。絵作りが恩田さんがいるのかな?って思う所があってエンドロールで恩田さん発見してああ…!ってなりました。
虐殺器官は櫻井さん演じるジョン・ポールの語り方がほんとに掴めない人まんまで催眠術使ってるんじゃないかっていう酩酊感が感じられる演技ですごいなと思いました。個人的にはルツィアのクラヴィスとの会話が淡々としたなかに何かが引っかかるような会話のテンポや進め方だったのがすごく印象に残りました。

虐殺器官の中ですごく印象的な台詞が2つあるんですがひとつはアレックスの「地獄はここにある、そう頭の中にね」です。
これはもう虐殺器官を象徴する言葉でもあるんですけど、この言葉の示す「地獄」はなんだろうっていうのがすごく気になるし人によって解釈が違うんだろうなっと思いました。
地獄はなんだって考えたとき、クラヴィスにとってはルツィアがいないこと、ジョン・ポールにとっては愛する者が理不尽に奪われることなのかなと思いました。それぞれがそれぞれの地獄があってそれに逃れることができない。特に感情に蓋をして自身を兵器としているクラヴィスたちにとっては人の死が日常に入っているからこそ地獄が近いのだと思いました。

ジョン・ポールの平和な世界とそうでない世界の人間の命を天秤に分けて仕分けたっていう虐殺の動機。これってすごいことだと思うんです。愛する人は平和の世界の中で画面越しに見る内紛・虐殺に関心を持たなくていい、どこか違う世界にいて欲しいってために平和な世界じゃない所で虐殺を起こし続ける…。憎しみの関心を外ではなく内に向けるというのが怖いなと思いました。
そのための虐殺の文法をクラヴィスは知るべきだとルツィアの願いを叶えるために、平和の世界の中に使うっていうラストがとても強烈でした。

ジョン・ポールはさみしいひとですね。
不倫をしていたとはいえ愛する家族を理不尽に奪われてしまった。これ以上自分から何も奪わせたくないから虐殺の文法を使う…。この人は罪滅ぼしなのか、自分がいた、自分は怒っているっというのを全世界に発信しているのか。掴みどころはないですが、どうしてクラヴィスに話をしたのかはなんとなく彼ら二人が同じ地獄を共有していたからなんじゃないかと思います。クラヴィスの仕事での殺しでは感じない罪悪感を母の死を決めたことで感じていることと、ジョン・ポールの不倫しているときに妻子がテロで死んでしまったというのには何となくですが共通のものがあると思っています。だからこそジョン・ポールは虐殺の文法をクラヴィスに託し、ジョン・ポールはルツィアの願った「知るべきこと」を体感させようとしたんじゃないかな。

もうひとつの印象的な台詞はクラヴィスの「今日聞きたいのは、お前は何者だということだ」です。
これ答えに「俺は何者でもない」ってかえってくるのすごいですよね…!この言葉が本当に印象的で自分という者の肯定には何が必要なのかって言うのが<harmony/>も屍者の帝国も根底に流れていると思うので虐殺器官でこの言葉が出た時、ああ、これが伊藤計劃だと感じました。
虐殺器官までみると、伊藤計劃の思考に、言葉に、文法に「お前は何者だ」って問いかけられるような気分になります。

主題歌のリローデット。これも素敵でしたね。
虐殺器官の内容的にもっとロックな感じなのを想像してたんですが、映画見て最後に流れるの聞いてとっても納得しました。前奏のあの感じとってもレクイエムっぽいです。なんとなくそんな感じがしました。個人的にリローデットはジョン・ポールの歌です。

公開が2015年でなく2017年になったっていうのは現状の国際情勢もふまえてみるとなにか運命的なものを感じますね。
あと、虐殺器官の公式サイトに円城さんからのコメントがあるんですけど「もしも〜」のやつです。
この言葉はおそらく伊藤計劃さんの言葉をまざまざと屍者の帝国を描くときにぶつけられた円城さんしか言えない言葉だなと思いました。

最後に、

屍者の帝国は円城塔さんと伊藤計劃さんの物語でもあるなって言うの多くの皆さんが感じたと思うんですけど、虐殺器官が伊藤計劃の死についての物語だとしたら、<harmony/>は生についての物語だと思うんです。つまり伊藤計劃さんは生前の2作で死生観を強くえがくことで自分という者を表現して、自分を「残そう」としたんじゃないか。
そして円城塔さんが引き継いで書いた屍者の物語は円城さんからみた「伊藤計劃」だったのかなと…。
そう考えると伊藤計劃という作家は物語を通して「お前が何者だ」ということをずっと追い求めてたんじゃないかなと思います。

「思考は言葉に規定されたりしない」虐殺器官
「言葉があるなら心がある。そこには魂がある」屍者の帝国
この2つの言葉が伊藤計劃の世界に放った言葉で、屍者の帝国で円城塔が伊藤計劃に返した言葉だと考えると言葉というものの力に私たちはどれだけ翻弄されているのか、力をどれだけ手にしているのか、そしてその言葉で自分自身をどう形容しているのか、すごく考えなければいけない気持ちになります。

「言葉」につよい力をもった伊藤計劃という作家に、円城塔という作家に出会えてよかった。
この物語に出会えてよかった。小説から映画へと物語を紡いでいく人たちに出会えてよかった。

「遺された物語」が「他者によって語り継がれる」瞬間に出会えてよかった。