見出し画像

苦しいときの「希望」とは

もし、明日から体が動かなくなったらどうだろう。

とても辛い質問。


辛い質問なんだけど脊髄損傷のように事故でこのような現実と直面している人がいるのも事実。ある日を境に突然生活が大きく変わってしまう。
脊髄損傷だけではなく、事故で脳挫傷の後遺症でご自分では動けなくなったかたもいらっしゃる。

以前、50歳代男性の脊損(脊髄損傷)の患者さんに衝撃的なことを言われた。
「あの頃は死ぬことばかり考えていた。だからリハビリは、自殺をするためにやっていた。包丁が握れなかったんだよ。僕たちは、死ぬことすら許されなかったんだよ」とベッドに横たわっている彼が少しだけ悲しそうに笑って言った。
今までできたことの多くが出来なくなってしまう。程度は様々だけど麻痺しているので、排泄だって思うようにはできない。食事だって一人で食べれる方ばかりではない。当たり前にできていた歩いたり、歯を磨いたり、お風呂に入ることもだれかの手を借りなければならない人たちがいる。


きっと涙のダムが枯渇するまでくる日もくる日も人知れず泣かれていたことと思う。それを乗り越えての今なのだと思う。

もし私がこんな事故に見舞われたら、ちゃんと生きていけるのだろうか?と全く自信がない。
私は、驚くほど弱い人間だと思っている。突然、目の前に立ちはだかった運命を受け入れられるものなのだろうか。
人生のシナリオは、生まれる前にある程度、自分で用意してきているらしいのですが、こんなシナリオを描いてしまう彼らは、どれだけ強い人なのだろうと思う。

人は、生きるためには「希望」が必要。
彼らにどんな希望をもってこの先、生きていけばいいよといってあげたらいいのか、まだ答えが見えない。

・・・・・・・・・・・・
遥か昔にがん看護の授業の中で、マーガレット・ニューマンという人が、「希望」について書かれた著書を紹介された。手元にこの本がないので大まかな事しか覚えていないけど・・・。
当たり前のことだけど「寄り添うこと」なのだと。


では、寄り添うとはどういうことなのか、私たちが相手を全人的に理解をしたいと思うこと。

そして、彼らが彼らの言葉で自分のことを語る機会を作ること。

私たちは、全身全霊で耳を傾ける・・・そんなような内容だったような気がする。結局、私たちがケアをしているようで実は私たち自身も一緒に成長させてもらっている。

・・・・・・・・・・・・・

私が、もし同じような境遇になったら何を求めるのかを考えてみた。
やはり、人生のこと、生きること、生きる意味のこと・・・とにかく自分の中の深い深い、安易には触れられない場所の話を一緒にしてくれる人を探すのではないかと思った。

その彼のところに行くと、時々、生きることや人生について、深い話を一緒にすることがある。「禅」の本も読んでいらっしゃった。
彼は「前世ってあると思う?」とか「生まれ変わりはあると思う?」という質問もしてくる。

さっき、どんな希望をもって生きていけばいいのか、まだ答えが見えてこないと書いた。でも、もしかしたら、こうやって彼と話をしていること自体が「希望」に繋がっているのかもしれないと少し思えてきた。

表面的なことではなく、深いところの癒しや本当の意味での拓かれた関係性を求めていらっしゃるのだと感じた。

その会話の中で何か光る糸筋がみえてきたら、生きていきたい!と思えるのかもしれない。それを見つけていくのを一緒にお手伝いさせて頂きたいなと思う。

・・・・・・・・・・

医師ともこんな話をしたいのに全くできないんだよと嘆いていた。

実のところ、この辺りの話を逃げずにじっくり話せる医師には、私も数えるほどしかお会いしたことがない。緩和ケアの先生方は、この手の話ができる(先生が多い)。

・・・・・・・・・

昨夜、NHKスペシャルで再生医療について放送されていた。
(脊損)受傷1か月以内の方に治験で再生医療を施し、経過を追っている番組で、目覚ましい回復が見られている方もありました。これもまた違う形での「希望」。

希望に出逢えますように。
そして、一人で頑張らず、誰かが、その希望を一緒に探し、支えるお手伝いができますように。


ありがとうございます😭あなたがサポートしてくれた喜びを私もまたどなたかにお裾分けをさせて頂きます💕