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神戸に生きた、あるユダヤ人博士の話。

縁あって、かれこれ15年以上調べ続けている人物がいます。名前はS博士。1883年(明治16年)ドイツ生まれ、1974年(昭和49年)に91歳で神戸で亡くなり、今は六甲山の自然に囲まれた外国人墓地に奥様と一緒に眠っています。

きっかけは私の父の叔父(父の母の弟)でした。この人は、戦後 大阪で小さな薬品会社を立ち上げ、そして昭和30年、生薬を原材料とした滋養強壮剤の製造販売を始めます。
その滋養強壮剤の瓶は小さい頃から自宅の食卓の上にずっとあり、両親はもちろん私達子供も受験生の時などに飲んでいました。
それは日常生活の中に当たり前にある物の一つでしたが、その薬に関して父が折にふれて言っていたことがあります。

「この薬の作り方は、神戸のユダヤ人博士が教えてくれたんじゃ。その博士はすごい人で、博士号を何個も持っとったんじゃ。」

そんな父の言葉をいつも(そうなんだ、スゴい博士だったんだ)と聞いていましたが、なぜ父方の親戚とその立派な博士との縁が繋がったのかは、よく分かりません。そこのところがずっと気になっていたこともあり、自分が神戸で暮らすようになったのをきっかけに、少しづつ資料を集めS博士の足跡を調べ始めました。

時は今から90年ほど前の1932年(昭和7年)のことです。この年にドイツではナチス党が第一党となり、その翌年の1933年(昭和8年)にはヒットラーが首相に任命されました。ヒットラーによる独裁政治の始まりです。
これと同時に、ご存知のようにドイツでユダヤ人排斥の嵐が吹き荒れ始めるのですが、まず最初に行われたのがユダヤ系の人々をドイツの公職から追放することでした。(いわゆるユダヤ人狩りやアウシュビッツ等の収容所送りは、ずっと後のことです。)

この時S博士は50歳、ベルリン大学の教授、ドイツ内務省厚生局の顧問、国営の医薬研究所での特効薬の製造など、ドイツ国内で重要な役職を担っていましたが、全て剥奪され行き場を失います。
当時 排斥された多くのユダヤ系エリートとその家族は、アインシュタインのように自由の国アメリカ渡ったり、ヨーロッパの他の安全な国への移住を選びました。
が、そんな中でS博士は、極東の小国日本に一家で移住することを選びます。これが彼の運命の大きな別れ道でした。

50歳で国を追われ見知らぬ国へ。この時のS博士やその家族の心境を思うと、いつも心がしんとします。
当時の博士と今の自分は、ほぼ同年代です。
家・仕事・人間関係など社会の中での自分達の居場所を突然失い、祖国から遠く離れた見ず知らずのアジアの異国に移住する。そして、そこでまたゼロからやり直す。その気持ちを想像してみようとしますが、博士一家が失ったものがあまりに大きく、なかなか上手くできません。ただ言えることは、自分だったら絶望しかないということだけです。

一方日本政府は、科学先進国ドイツの最新の知識と技術を持つS博士を、大阪の国営化学工場の技術者として招き入れます。日々悪化する世界情勢の中で、S博士は日本にとってとても有益な人でした。日本もまた中国との戦争に突入していた時代、ヨーロッパ最高レベルの頭脳は喉から手が出るほど欲しかったことでしょう。
こうして博士とその家族は、自らの知識と経験を生かして日本での居場所を確保しました。

新しく見つけた住まいは神戸山の手の洋館。
ここにはドイツ人のコミュニティがあり、ドイツ人学校・ドイツ語の通じる国際病院・ドイツ食材店やドイツパンのお店もありました。週末にはユダヤ系もそうでない人も同じドイツ人として集い共に過ごす、社交の場もありました。
一方ヨーロッパの戦況は日々激しさを増し、ヒットラー率いるドイツ軍は快進撃を続けます。それに伴い、ユダヤ系の人々を取り巻く状況は厳しさを増す一方。この時 博士はきっと、遠いアジアの異国に来たことは良い選択だったと思ったことでしょう。

けれど、日本がドイツと同盟を結び、さらに太平洋戦争に突入すると、神戸のドイツ人コミュニティにも不穏な影がさし始めます。みんなで集まって飲んだり食べたりダンスをしたりしていた社交の場は摂取され、日本におけるナチスの拠点の一つになりました。
ドイツ政府からは、同盟国である日本も厳しくユダヤ人を排斥をするよう矢のような催促が続き、日本政府主導の反ユダヤのプロパガンダも行われ始めました。神戸のドイツ人コミュニティにもナチス党員が増え、もう親睦を深めるどころではありません。

さらに戦況が悪化すると、日本政府は欧米にルーツを持つ人々をスパイ容疑などで隔離し始め(関東は軽井沢、関西は六甲山など)、燃料や食料の供給を絶たれた彼らは、凍死や餓死の恐怖に怯えて暮らさざるを得なくなります。
そして敗戦の年の三月、未曾有の大空襲で神戸も一面焼け野原と化しました。

この厳しい時期を、博士一家がどう乗り切ったのかは定かではありません。日本人でさえろくに食べるもののない時代に、移民である博士一家がどうやって生き延びたのか、そして繰り返される空襲からどう逃げたのか。詳しいことは分かりません。
が、この時 博士は既に60歳を超えています。相当に厳しい生活を強いられていたことは間違いありません。
母国で築きあげてきたものを全て失い、避難した先で築き直したものもまた失う。さらに当時の60歳と言えば充分高齢です。その年齢で、そして戦時下で、生きる気力を保ち続けるのは至難の技であるに違いありません。もう疲れた、ここで死んでもいい、そう思うのが当然でしょう。

けれど、戦争が終わるとすぐに博士は動き始めました。戦後の日本で圧倒的に不足していてかつ大きな需要のある医薬品を、自分の手で作り始めたのです。
『今(終戦直後)の日本には何もない。けれど生薬だけは良いものがある。』という博士の言葉があります。
きっと戦争中の厳しい時期も、博士は野山を歩き回り、自身の知識をフル稼働させて薬の原料となる植物を探していたのでしょうし、日本が戦争の泥沼から抜けられなくなっていた時も、神戸の街が空襲で燃え上がっていた時も、博士の頭の中には既に戦争が終わった時のビジョンがあったのかもしれません。

こうして自力で薬を作ること数年、博士は大阪で医薬品の販売をしていた父の叔父と出会い、二人はタッグを組んで新しい滋養強壮剤の製造と販売に乗り出します。その薬は今も薬局で売られています。

もう一つ、父が繰り返すS博士の言葉があります。
「『ここに入っているものは、絶対誰にも奪えない。』博士はこう言いながら自分の頭を指差すんじゃ。」

「ここ(頭)に入っているもの」
それは、知識であり、技術であり、経験です。その言葉が示すように、博士は化学・薬学・医学など10個近い学位を持っていましたし、医薬品を作るための高い技術も持っていました。
そして、この「出来得る限りの知識や技術を身につけよ」という教えこそが、まさに、長いヨーロッパの歴史の中で、繰り返しあらゆるものを奪われ続けながらも生き抜いてきたユダヤの人々の教え そのものでもあります。
それが、知識であろうと、技術であろうと、芸術の才能であろうと、いったん自分が身につけたものは、生涯 誰にも奪われない宝となる。そしてその宝は、たとえ今いる場所を追われても、次の場所で必ず自分を助けてくれる、必ず生きる糧となる。
この先祖から連綿と受け継がれてきたユダヤの教えを血肉とし、私に体現して見せてくれたのがS博士でした。

博士の足跡を求めて彼が眠る外国人墓地を訪れた時、博士の記録には「無国籍」と記されていました。ヒットラーの政策で国籍を剥奪されていたのです。博士は祖国さえも失っていました。自分の内にあるものだけを頼りに、異国の地で難民として40年間生きぬいていたのです。
午後の明るい日差しの中、華やかな装飾に飾られた周りの墓碑とは対照的に、博士の墓碑はとてもシンプルなものでした。刻まれているのは名前と生まれた日と亡くなった日、そして一本の棒に蛇が巻きついた「アスクレピオスの杖」だけです。ヨーロッパで医療を表すこのしるしが、(たとえ何が起ころうとも、私は一人の医療人として自らの人生を全うした)という博士の遺言のようにも思えました。

「自分の内に 誰にも奪われない宝をつめ」
この先祖の教えが博士の頭の中にいつもあったように、私達の内にも 先祖から連綿と伝わる教えが生きているはずです。おそらくそれはほとんど習慣化されていて、普段気にすることもないかもしれません。けれど、いざという時には必ずその教えが発動し、私達の危機を救ってくれる。そんな気がしています。

名前さえももう分からないけれど、いにしえからの祖先の流れの中で脈々と受け継がれてきた大切なものが必ずある。そして、それは今を生きる自分の中にも確かに息づいている。もしそうだとしたら、その豊かな遺産を生かし尽くさなければ。我が身の内に持っているものを、生かし尽くして生きなければ。
それが流れの最前線にいる私達の使命なのかもしれません。

私の手元には、S博士の写真が一枚だけあります。こちらを向いている微笑んでいるその目には、80歳を超えてなお強く輝く光が宿っています。
持てるものの全てを生かし切って生きたい。
何があっても誰にも侵されない、自分自身の人生を生き抜きたい。
博士の写真を見るたびに、その思いにかられます。

『オセル』
「故郷・先祖・受け継いできたもの」などの意味を持つ、原点回帰を暗示するルーンです。

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