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読書日記と、見たこと、考えたこと、惑星が交差した時の永遠を書き留めておくことにした。い…

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読書日記と、見たこと、考えたこと、惑星が交差した時の永遠を書き留めておくことにした。いつも忘れてしまうから。

マガジン

  • のらのら日記(月形町)

    北海道月形町で過ごした7年間についての、たわいもない雑記と思い出深い写真

最近の記事

「おてがみ」1

自分のことを説明するために語ってきたストーリーが、だんだんと変わってゆくことを受け止められる人間になってきた。 世界平和を願って、自分のできることを、なるべくでかいことをやってやろうと意気込んでいたのに、あれよあれよとそのサイズは小さくなり、コロナ禍のせいにして、今は生命維持活動とその輪郭に浮かぶ雲をつかむような自分の未来への期待だけが残っている。 大きな願いがあったことは上書きされて思い出さずに済めばいいけど、たまにツラいのは人生のさまざまな局面で唐突にリフレインしたり

    • レクイエム

      2021年4月16日、父が亡くなった。66歳。別れはもっと遅く訪れるものと思っていた。父も私も向き合うのはずいぶん前にやめていたと思っていたが、昨日退会手続きをした父のTwitterアカウントには、使い方が分からなかったのかネットの虚空に向かってわたしに向けたと思われる情報が一通シェアされていた。リンクはもう切れていた。 思えば20歳のときも23歳くらいに大学院進学を決めた時も、まるで明後日の方向から父の助言が届けられていたことを思い出した。とにかく政治信条は反対、冗談はわ

      • 愛を確信すること グザヴィエ・ドラン「わたしはロランス」

        前書き 最近は、書き続けることをやめたことで、世界の理解がのっぺりとしていく恐怖を感じていた。景色が美しくあるのに、「美しい」という概念を忘れたような気持ち。 「美しい」や「愛している」という言葉は単に看板か使いやすい鋳型でしかなくて、本来そこに込める意味は、意図は、無限の内容をもつ。ぼくは近頃、何にしても看板だけを持っている気がする。自分の情動を吟味するだけの時間も関係もしっかりと持ち合わせてない。何よりも人と相対するということが苦手で、具体的に自分に起きる事柄の解釈は

        • 須賀敦子「ヴェネツィアの宿」

          ヴェネツィアの宿 人との出会いは、気づいた時には始まっている。これからもずっと続くように思われた間柄は、相手の死や旅立ち(離職や旅行、結婚など)で唐突に終わったりする。 もちろん僕はそんな風に終わることを予期していなくて、性根に染みついている不精のために映画のエンドロールみたいに美しく「終」や「fin.」に終えられないでいる。 じぶんの中で区切りをつけるための儀式を先延ばしにして週末を繰り返す。相手がこの世から居なくなったり、どうとも思っていないことは分かっ

        「おてがみ」1

        マガジン

        • のらのら日記(月形町)
          8本

        記事

          G.ガルシア・マルケス「コレラの時代の愛」 木村榮一訳

          愛は不定形便しかないことを本書で知ることになった。本の冒頭から半分くらいまでは、突拍子もない暮らしの知恵とか うれしさのあまり舞い上がったフロレンティーノ・アリーサは、午後の間中バラの花を食べながら手紙を一語、一語、何度も読み返した。読めば読むほど食べるバラの量が増えていき、真夜中ごろにかると何度も読み返し、あまりにも沢山のバラを食べたので、母親は子牛にするように彼の頭を抱えてヒマシ油を飲ませてやらねばならなかった。_p106 比喩の美しさに惹きつけられた。 明

          G.ガルシア・マルケス「コレラの時代の愛」 木村榮一訳

          この人の前では本当に只の若年者でしかないと思わせてくれた村人が亡くなった。村人は自宅以外ではシャイのあまりに酷い下ネタをよく言った。山菜採りにいけば、猿と呼ばれた。脳の病気で呂律が回らなくなったと言ったが、周りは前からだと言った。愛されていた。衒いの一片もない素敵なおじさんだった

          この人の前では本当に只の若年者でしかないと思わせてくれた村人が亡くなった。村人は自宅以外ではシャイのあまりに酷い下ネタをよく言った。山菜採りにいけば、猿と呼ばれた。脳の病気で呂律が回らなくなったと言ったが、周りは前からだと言った。愛されていた。衒いの一片もない素敵なおじさんだった

          アラン・シリトー「長距離走者の孤独」

           図書館で集英社ギャラリー「世界の文学5 イギリスⅣ」より  自分がスミスだったら。僕は今日、また自分への誠実さというものを大切にすることを怠った。素直に話してしまったんだ、何が嫌いで何が好きかを。かろうじて言えたことといえば、あんたの期待には乗れないよということだけだった。それが、遅かれ早かれ、何にたどり着くのかは、感化院ではないから決まってない。  ああやって話す場が設えられたという文脈をもっと考えてみよう。そしてわれわれにとっての太鼓腹の出目金野郎と、われわれの内に

          アラン・シリトー「長距離走者の孤独」

          ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』

          歯車のような生活。 どうしようもない毎日。 「じぶん」というものが、少しも見出せない日々。 そんななかで、読み始めた。 著ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』岸本佐知子訳 網戸に綻びを一つでもみつけたら、鬼の首をとったように報告してやろうと思っていた。でも本を読んだ後は、そうやって綻びを見つけるじぶん、鬼の首を取ったかのように報告したい自分が愛おしくなる。綻びのことはまあ、ほころび方次第では記憶に留めて人に話そう。短編としての「掃除婦のための手引書」の読後感はそんな

          ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』

          自分を使わない仕事の過ごし方

          わたしは、ある印刷会社で、印刷物を配送する仕事をしている。 報告書やら会報やら、年賀状やら。年末はたくさん印刷物が刷られるので、たくさん運ぶ。遠くへも行く。一日、6〜7時間車に乗っていて身体はカチコチになり、お尻や腰が痛い。そういう仕事。 お尻が痛くなるというのは自己暗示みたいなところがあるかもしれない。一昨年、父が受けた手術のために、術後しばらくは自力で寝返りをうてなくなった。お尻が痛い、腰が痛いという。ああ動けないとお尻も痛くなるんだ、と今さら感銘をうけた。父は「モ

          自分を使わない仕事の過ごし方

          「千年の祈り」きっと、わたしたちが出会うまで。

          ふと、この本を読みながら思ったこと。「本読み」はその静的な外見に反して、とてもせっかちな動機づけによって駆動される行為なのかもしれない。人間を知りたい、社会を知りたい、じぶんの魂を彫像したい。それらを、じぶんの人生がたどるよりも早く。しかし結局、その本が物語ることについて知ったような気になる直前に、ロマンがかけられていると、見えていたものが霧散する。本読みはよけいに止められない。本書はそういう体験をもたらしてくれる。 著イーユン・リー「千年の祈り」,篠森ゆりこ訳 本作は1

          「千年の祈り」きっと、わたしたちが出会うまで。

          ぼくは くまのままで いたかったのに

          「でも、ぼくには わかってる。わかってるんだ。ぼくは くまなんだ」 「それがどうして ほかのれんちゅうには わからないんだろう?」 工場で 作業服をわたされたとき、 くまはもう さからわなかった。 ひげをそれと いわれると、おとなしく ひげをそった。 文イェルク・シュタイナー、絵イェルク・ミュラー、訳大島かおり 『ぼくは くまのままで いたかったのに』 すでに絶版となってしまった絵本。この本は、剣淵町「絵本の館」で見つけた。一読してすぐに惹かれ、amazonで中古本を

          ぼくは くまのままで いたかったのに

          1960年代のわたしたち。アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」

          概要1960年前半から1960年後半のナイジェリア、主にはビアフラ戦争終末までを背景とした3人のナイジェリアに住む人々の物語。ビアフラとは、東部に集中するイボ民族がナイジェリアの他民族による排斥に抵抗して立ち上げた国家のこと。「半分のぼった太陽」はそのビアフラ共和国の国旗のことだ。 当時の中産階級や民族の村の暮らしぶり、家族(恋愛)観、友情、人生の襞に分け入って、わけいって、アディーチェは物語として、人間の尊厳と愛の襞を描いている。言葉として分け与えられた読者として、わたしは

          1960年代のわたしたち。アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」

          ハリーポッターが死体役。映画「スイス・アーミー・マン」

          主役はあのハリーポッターを演じたダニエルラドクリフと、リトル・ミス・サンシャインで印象的なお兄ちゃんを演じ、ルビースパークスでは思春期をずっとひきずったままのかつての天才小説家役を好演したポール・ダノ。 とくにポール・ダノは家族や男らしさにずっと取り組んでいる俳優だと思う。僕は彼の出演作がもれなく好きだ。そんな彼の最新作を調べてるうちにぶっとんだ本作を発見。住んでいる場所が田舎ゆえに、amazon prime videoをつかって鑑賞してみた。 死体なのに、言葉を発すること

          ハリーポッターが死体役。映画「スイス・アーミー・マン」

          太ったポルトガルのおじさんの話。アントニオ・タブッキ「供述によるとペレイラは...」須賀敦子訳

          最近、須賀敦子の著作や訳書を少しずつ読み始めている。 初めて読んだのは「コルシア書店の仲間たち」だった。貧しくも生きることや、自分自身に忠実であること、人が人らしく暮らす営みの時間の豊かさ、寛容さにしびれたものだった。とは言うものの少し時間を置いてきた。再度、須賀敦子に注目することになったのは、つい先日、大竹昭子さんが日経新聞(6/23)に寄稿した「須賀敦子30代の偉業」を目にしたことからだった。そこでつい先日川端康成の「黒子の手紙」を手に取ったのだが、これがすこぶる面白か

          太ったポルトガルのおじさんの話。アントニオ・タブッキ「供述によるとペレイラは...」須賀敦子訳

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          月形へ帰る道①

          月形へ帰る道①

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          ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』

          ラヒリの文章は、読み進めればすすめるほど不安が去来し、読むことに恐れを抱くのだが、平日の深夜に本を閉じるときにはため息をついて、早く読み進めたいと願っている。  全部で9つの短編からなる本作は、インドの移民1世や2世、インドの人々の(そして多くは男女の)物語である。この作品は、主人公たちが移民として移り住んだ先々の土地で目の当たりにする経験や、貧困層の人たち、異文化との出会いの経験を題材にしているものの、インドの人たちからすればおよそ安寧に見えるであろう生活をおくる「わたし

          ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』