ボフミル・フラバル「時の止まった小さな町」

フラバルといえば「あまりにも騒がしい孤独」が有名だし、この本自体は「剃髪式」という本の直接的な続編という形を取っているにも関わらず、フラバル処女の僕はまず本書を手に取っていた。だって、書名からして魅力的じゃないか

戦争がはじまり、祖国が消えた。戦争がおわり、新しいかたちの国ができた。ボヘミア地方の小さな町とビール醸造所でも、また別の新しい時代が始まる。しかしそこには、古い時代への鍵しか持たず、新しい時代には入れない人々も、また...       帯文より

こんな帯文にも関わらず、1(章とは書いていない。)から圧倒的な喜劇の幕があがる。プラハから少し離れた小さな町の一角にある醸造所の一人息子である「僕」が、空想を自在にはためかせ、本当にあったのかと疑うような街の空気のなかを、存分に自由に生きている。

本書は、フラバルの半自伝的小説だという。フラバル少年自身はとにかく突飛で、何を考えているかわからない子供だっただろう。子どものときに僕も彼の現実に飛び出す妄想の力をもっていたかった。というのは、彼をめぐる、お父さん、お母さん、居候のペピン伯父さん、犬、隣の肉屋とその奥さんに至るまで、すべての人が実在しないんじゃないかという喜劇的人生を生きている。一方でどこか「ああ、いるかも」と思わせる象徴的な逸話をそれぞれがもっている。つまり私にはこういう出会いがなかったんじゃなくて、豊穣な世界として受け止められなかったんじゃないかと思うわけだ。

私もおもしろすぎる人たちとの「出会い」はある意味、大人にしてようやく与えられたが、かたやフラバル少年は空想と実在を自由に往来し、豊かに生きていた。実にうらやましい。
たとえば彼のおでこに関する描写は非常に多角的で純真な(幼い)表現で笑わせてくれる。ああ、こんな風におちゃらけたかった。始終とにかくまっすぐなのだ。
白眉はペピンおじさんである。町を象徴するかのような喜劇的おじさん。チャップリンのようなおじさん。そのペピンおじさんが、フラバル少年の父であり、かつペピンおじさんの弟であるフランツィンと愛車シュコダ430の修理をする。その間の会話はまるで成立していない。でも腹を抱えて笑える。とにかく、6と7は面白い。存外兄弟姉妹の会話っていうのはそんなものかもしれない。

しかし温和で喜劇の街はナチスドイツの占領から、ソ連軍の侵攻という事態を経て冷え切ってしまう。そこで気づくのは、フラバルの見た小さな街が喜劇たり得たのは、悲惨な現実生活という舞台裏があってからこそなんだと。

新しい時代になり、関係の連鎖は古い時代から完全に断ち切られ、「時の止まった小さな町」と語られるようになる。しかしどうだろう、豊かな関係に思えたあの出来事も、結局は古い権力関係にあぐらをかいた夢物語だったんだろうか。
新しい時代への鍵をもたない人たちは、まるで日本における旧産炭地のあとに生きる人たちのようでもある。古い時代の鍵をもったまま、新しい時代を本当の意味でいきいきと生きるのは本当に難しいのかもしれない。僕が出会う人たちは、新しい時代に合わせてくれているだけなのだろうか。それともまた、次の時代にいきる萌芽なのか。「話し出すとトラブルになっちゃうからさ」といって、口を閉ざす人が思い出された。
これもまた再読しよう。

記 平成31年3月15日
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