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太ったポルトガルのおじさんの話。アントニオ・タブッキ「供述によるとペレイラは...」須賀敦子訳

最近、須賀敦子の著作や訳書を少しずつ読み始めている。


初めて読んだのは「コルシア書店の仲間たち」だった。貧しくも生きることや、自分自身に忠実であること、人が人らしく暮らす営みの時間の豊かさ、寛容さにしびれたものだった。とは言うものの少し時間を置いてきた。再度、須賀敦子に注目することになったのは、つい先日、大竹昭子さんが日経新聞(6/23)に寄稿した「須賀敦子30代の偉業」を目にしたことからだった。そこでつい先日川端康成の「黒子の手紙」を手に取ったのだが、これがすこぶる面白かった。そうして須賀敦子の選書眼に頼って読書をしてみようと思ったのが事の次第である。インド系のジュンパ・ラヒリを直近で読んだこともあって、『インド夜想曲』を読んでみたかったが、自宅そばの岩出市図書館に置いていなかったのもあって「供述によるとペレイラは...」を手に取ってみた。

主人公はペレイラ。本書はそのペレイラの供述書風の体裁をとっている。ひたいは禿げ上がり、太り過ぎていて、心臓病と高血圧があり、医者からは食事と運動の改善を命じられている。しんそこカソリックだと自分のことを信じているが日曜のミサは理由もなく少々サボり気味。たましいの存在も信じているが世の終わりに肉体が復活するという教義だけは信じられなかった。

うん、にんげんにたましいがあるのは確実だ。だが肉体はどうだろう。彼の魂の周囲にひしめき合っている肉体はどうなるのだろう。ああ、これはだめだ、ペレイラは思った。人間は世の終わりに復活したりはしない。え、どうしてかって?ペレイラには説明できなかった。彼の日常について回っているこの脂肪のかたまり、汗、階段を上がる時の息切れ、あんなものがどうして、よみがえらなければならないのだ。

うん、わたしはこの文章で、ペレイラに魅入られた。外国語文学にいざなってくれた大切な友人が、「ペレイラは要は我々であり、タブッキには、そんな我々にたいする信頼が感じられる」と話していた。文脈は異なっていたが、こうした独白からも読み取れるように感じた。

小説を読むよろこびは、極端な物語のなかに潜む真実の瞬間を見つけるよろこびであることが多いのだが、ペレイラは全くもってわれわれ市井の人らしいことを披露してくれた。それにカフェで頼む1日10杯近い砂糖入りレモネード、香草入りでバターたっぷりのオムレツ、カフェでの語り、湿度の高い夏が、このペレイラを魅力的な人物に仕立てている。

そしてわたしにとってより大きいことは、なにか根拠でもって説明することは素直にできないことを認め、疑問を呈する。肉体について疑うその様は、最終ページに向かって彼が積み上げていくことと一貫していたように思う。

さてペレイラは、40年勤めた有名日刊紙の社会面で記者をしていたが、いまは創刊して数年の『リシュボア』新聞でたった一人の文芸面担当記者・責任者を務めている。理由は本書でも明かされていない。彼の住む街とその時代(舞台は1938年のポルトガル。ポルトガルではサラザールによる全体主義社会が完成し、隣国スペインではフランコによる共和派に対する弾圧が起きていた)は死と隣り合わせだった。私生活においては、数年前になくした妻の写真にいつの頃からか話しかけるようになっていた。

じぶんがどんな風にいき方をしているかなんて、ぼくにはわからないよ。ペレイラは写真に話しかけた。問題はぼくが死についてばかり始終考えてしまうことだ。ぼくにとって、世界ぜんたいが死に絶えたみたいな、さもなければ、いまにも死にそうな、そんな気がするんだ。

彼の一人称の世界でも「死」が隣り合っている。ちなみに、写真の妻の前と友人を前にした彼の語りは、ひらがなが多くなる一方で、上司を前にした彼の発話は漢字が多い。コントラストが鮮やかだ。そういう須賀敦子の巧みな文章構成もおもしろい。

ペレイラはじぶんの仕事上の必要性から、記者の見習い候補の若い男と出会うが、その男とガールフレンドはレジスタンスだった。若者の政治的な熱情や、英雄的な行動に対する羨望を、ときに事なかれ的に、ときに「文化が専門ですから」といなしつつ、完全に若者たちを拒否できない。さらに、頭では極端に切り捨てまで想像しておきながら身銭を切って助けてしまうことがしばしばだった。その「正確な動機」をペレイラは冒頭部でわからない、と供述する。

「わたし」は、本当はいつだって所在ない。

ペレイラと、そして読者の私もそうだし、人間一般がそうであると言えるはずのことの一つに、自分自身のことはいちばん知らないのに、知っているつもりでいることだ。弄ぶことだってある。そうするから、そうする、としか説明できないことが実は往々にしてある。積み重ねた、「そうするつもりがなかったのに、そうしてしまった」振る舞いの数々が、実は物語の主旋律である。それは静かにペレイラの良心として積み上げられていく振る舞いだけれど、社会の良心として価値づけられるまでの道程は、孤独なのだ。後戻りしたくなるようなノスタルジーに後ろ髪引かれる思いもあろう。

(友人)がそとに出て街に消えてしまうと、彼は取り残された気持ちになり、じぶんがしんそこ孤独に思えた。それから、ほんとうに孤独なときにこそ、じぶんのなかのたましいの集団に命令する主導的エゴとあい対するときがきているのだと気付いた。そう考えてはみたのだがすっかり安心したわけではなかった。それどころか、なにが、と言われるとよくわからないのだが、なにかが恋しくなった。それはこれまで生きてきた人生への郷愁であり、たぶん、これからの人生への深い思いなのだったと、そうペレイラは供述している。

「自分の意志」ならざるところからあたらしい「自分」が立ち現れていく。それを孤独なときにこそ向き合う必要があると、ペレイラは自らに郷愁があることを抱えながら教えてくれた。寂しいと告白することは一種の勇気である。

決して誰かにほだされず、ひとは孤独になって初めて、こんなふうに非自発的な意志がどこに向かうのか、今までのじぶんを大切にお見送りして初めて、向き合えるんだろうか。非自発的意志が、たまに一人歩きしてしまう私の人生で、良心的なたましいを見いだすことは、できるのかしら。

孤独になることがこわいこわい現代で、初めて非自発的な意志の先に向き合うことができるんだとしたら、それは大事業だ。孤独を少し、読み替えさせてもらえないだろうか。

翻って、彼の40年培ってきた社会面記者としての職業的良心からすれば、社会情勢や若者の熱情に触れて、じぶんの所属する社会のメンバーの条件がこんなんでいいんだろうか?と考えるのは容易いことのようにも思えたが、我が国の官房長官の記者会見やメディアの惨憺たる状況を顧みればそうではないということに気づく。やはり、自ら離れる、孤独になることが必要なのだ。その際、寂しいとじぶんに告白してもいいことはペレイラが教えてくれた。

過去にとらわれるように生きてきた彼が、孤独の中でじぶんと向き合う。銃口を口に向けられてなお、さいごに手に入れる精神、たましいは、じぶんらしく、しかし誇示的なこともなく、社会の中でよりよく生きようすることにつながっている、というのがおもしろい。ふつう、銃口を向けられたら余計に利己的に、保守的にもなりうるからだ。そこが、タブッキの市井の人の良心を信じる小説だと感じる所以かもしれない。

なお、あたらしいたましいを見出した彼が、写真の中の妻とどう向き合うのか、そんなことを楽しみに読んでみてもいい。遊びに溢れた小説であり、本当にすてきなおじさんの話だ。

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