静かに広がる痛み。 カズオ・イシグロ「私を離さないで」


優秀でいて、介護という仕事に誇りをもつ介護人キャシーの語りから、これから語られる登場人物が既にこの世に居ないことを知る。介護の物語において、亡くなった人たちのことをまず語り始めるというのは、おや、という感じだ。こういった語り口をはじめ、全ページにわたって「何か伏線があるのでは?」と思わされた。

さて、物語における介護とは、私たちの知るような、生活を豊かにするケアというより、臓器提供者の痛みを和らげたり紛らしたりする程度の意味しかもたないようだ。臓器提供者の繰り返すさまざまな意味で酷い痛みを伴にし、介護人は疲弊し、この日常から逃れることを、むしろ提供者になることで達成する。こうして、主体的な臓器提供用のクローン人間が積極的な提供者になるシステムが完遂される。

私たちはシステムの中で自由を確保しようとする振る舞いが、どのようなもので、いかような結末になるかをキャシーの口から聞くことになる。また、システムを維持するためにどのように主体性が発揮されるのかを見る。以下はそれが、登場人物たちのどんな行動様式から見受けられるのか考えてみたものだが、未読の人は読まないほうがよいきがする。

さて、本作でわたしは、ルースという人に一番惹かれた。ルースはあまりにも見栄っ張りだ。ルースの彼であるトミーの言葉を借りると「信じたがり」である。その挙動の理由はどこから来ているのだろう。

見栄を張るとは、体験し得ない、あるいは知らないことを知っているように振る舞うことだ。その振る舞いによって得られる利得は、だれかの敬いの対象になることだったり、自分への期待を守りたいが故の行動だったりするが、それは通常、あまりに短期的な効果である。

ルースの場合は幼少期からおそらく20代半ばまでこの気質を維持し、キャシーとトミーはこの気質を、振り回されつつ暗黙的に見守ることに合意している。当初、わたしはキャシーとトミーが全人格的に人物を評価し愛することのできる高邁な人物かと考えていた。が、読み進めていくうちに事態の意味がそれとは異なる世界ではないか、と思った。

キャシーの社会では、臓器提供システムの演者たるキャシーたちが限られた人間関係の中で(当初はあまり意識せず)精いっぱいの人生を謳歌しようとするし、運命に「抗う」というのは諦念をさらに超えた次元で言葉の存在すら見出せない。

もし、悪い方に運命の見通しがあるとしたら、分かりきった将来展望を日常会話のテーマとして頻繁に選ぶのは野暮であまりに無遠慮に過ぎるか頭がおかしいと思われるだろう。
すると逆説的に選ばれるテーマは想像的な話題や、ここにいない人の話題、あるいは人間の機微である。

<このことは、生活保護の方とお話ししていても感じることだ。これについてはいつか触れよう。>

閑話休題

実際、巧妙に、明白な将来の話は登場人物の中では避けられており、想像が入り混じったり、衒学的な話を好んでいる。そしてみんなセックスがだいたい好きである。そんな刹那な世界の、繊細な話法にあっては、ちょっとしたうわさ話や期待を持たせるような話は密室的な人間関係に娯楽をもたらしている。誰もがそれぞれの秘密を知りたがっている。

あまりに絶望的で運命の決定したシステムに生きるルイスが見栄を張ることは、人間関係に起伏をもたらし、時には分断を招いたりしつつも、多様な反応を分かりやすくつくりだし、 豊かさをもたらす。

またやっている、そう思いながらまた見栄が張られ、その振る舞いを見守ることは、キャシーたち自身の日々のケアなんじゃないかと、そんな風に思う。とすると、キャシーが語り部であるものの、実のところルースの言動とそれをめぐる人間模様がキャシーたちの世界を動かしているような気がした。

優秀な介護人としてプライドを持ったキャシーはどうだろうか。はっきり言ってこの世界の介護は緩和ケアでもない。次々と臓器提供者が使命を終える(=死ぬこと)のは本来悲しく、虚しい。この世界で「優秀な介護人」はどう判断されうるものなのかついぞ全くわからない。

だけれど、そう言いたくなる気持ちはよく分かる気がした。唯一他者と繋がり合っていると感じ、自分らしさや、自分の由来を確かめることのできる共通基盤がヘールシャム(キャシーの育った校舎)だった。しかし、その共通基盤は虚しくも提供の終了やヘールシャムの閉校によって次々と失われる。一方で自分も介護人を降りれば、次は提供者になることは分かっている。

たとえ仕事が意義の見出せない(例えば、ただ穴を掘って埋め返すような仕事)ものに近くても、自分自身が自分自身であることの確からしさの根拠に、介護人という役割を求めるのだろう。その位置付けが不明瞭で不確かな職業であっても。

見栄を張ることも、存在証明を仕事に頼り過ぎることも、僕らの世界では大人になりきってないと思うし、かなりダサい。ダサいと感ぜられるのは、成人への過渡期の現象でもあるからだとわたしは考える。でもそれはキャシーやルースの世界においては自己の存在にかかわる痛切な振る舞いであり、さらに言えばその当たり前の成人の過渡期を利用して、提供システムは使命遂行へとドライブする。積極的に、提供者になろう、と。それがこの本の恐さだと感じた。

もう一つの主役であるヘールシャムの先生たちの役割も紹介しよう。先生たちは、生徒たちの自主性や創造性の発揮を応援している。しかしそれはまるで、経済動物の動物愛護的な発想である。また、同時に生徒たちを憐れみ、恐れをもっている。先生たちは自らのダブルバインドと、反人権的で極めてパターナルな作用には気づこうとしない。

とても静謐で綺麗な絵でも鑑賞したかのような趣きだが、通奏低音には現実社会のわれわれの怯えや、憐れみの感情に対する疑義が呈されている。と、そう思った。

never let me go を読書前に聞いていたらまた違う感想を持ったかもしれません。

https://www.youtube.com/watch?v=1saMqanouIA


#カズオイシグロ #わたしを離さないで #外国語文学 #書評 #読書

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chovichan

読書日記や、立ち止まって撮った写真、考えたことのいくつかを、ありがたがって留めておく場所です。静岡に4年、北海道に7年いました。
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