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北へ 1 プロローグ

 深夜の高速道路で50wの心細いヘッドライトがぼんやりと前方を照らしていた。その視界の下ではスピードメーターとタコメーターの間、板ガムほどの大きさのインジケーターの一番下で赤いランプが瞬いている。
 僕は軽く舌打ちをして、出発前にスピードメーターの軸にグリスアップし忘れた事を後悔していた。

 今僕が乗っているのはヤマハのSR400という、1982年式のバイクだ。
このバイクの装備のひとつで時速80kmを超えると点灯する速度警告灯というものがあるのだが、肝心のスピードメーターがあまり調子が良くなく、メーターケーブル取付部の潤滑が悪いと針が微妙に振れるため、80km/hを目安に走ると警告灯が点いたり消えたりするのだ。90km/h以上で巡行すれば点灯したままになるので良いのだが、すると今度はエンジンの振動が気になるのでちょうど良いところが見つけ難い。
 それでもさほどイライラする事なく、むしろ身を震わせながら健気に走るこの華奢なバイクが愛おしく感じるのは、日頃から自分でメンテナンスしているからだろう。
 メーターも自分でバラしているから、ケーブルの回転を受けギヤが回っていること、それに連動して磁石が回転し、その外側の金属製のお椀が磁力に引っ張られて回る事でオレンジ色の針がプルプルと震えながら速度を指し示すまでが手に取るように分かる。
 エンジンはエンジンで、先日清掃したキャブレターの中にある筒状のバルブをアクセルワイヤーを介して僕の右手が引っ張り上げる。吸い込まれた空気はフロートチャンバーからガソリンを吸い上げてエンジンに送り込む。
 ガソリンを適度に含んだ混合気は吸気バルブが開いた間隙をぬってエンジンに潜り込んでいく。吸気バルブとロッカーアームの隙間もついこの間シックネスゲージを差し込んで調整した。その隙間は0.07から0.12mmの間に調整しなければならない。
 そうやって調整したシリンダーヘッドからはエンジンの回転数に応じて
「カチカチカチ」
というタペット音が響いている。アジャストスクリューのロックナットは緩んでいないよな?僕はエンジンのことを思いながらそっと、しかし力強くスロットルを捻る。
 イグニッションコイルは昨年新調した。プラグも交換したばかりだ。電気は見えないしシリンダーの中までは自分で開けていないのでよく分からないが、きっと綺麗な火花が飛んでガソリンを燃やしている事だろう。相当な圧力で押し下げられたピストンはSRの重いクランクシャフトを回し、その動力をミッションへと送る。クラッチは先月キックペダルが戻らなくなった時にカバーを開けてチェックしてあるから大丈夫だ。
 排気も大事な工程のひとつである。酸素と燃料を爆発させ直径87mmという大きなピストンを押し下げた後、残った一酸化炭素や二酸化炭素、炭化水素などは排気ガスとしてエンジンの外に排出される。排気バルブももちろん調整済みだが、その排気ガスがマフラーから吐き出される際に出る音もバイク乗りにとって重要なものである。いわゆるエキゾーストノートである。
 僕が排気音に求めるものは、空気と燃料が適正な比率で混ざった混合気が正しいタイミングで爆発した時に発生した音である事。燃料が濃いと音は湿っぽくなるし、薄いとキンと高くなる。早めに点火されてしまうとノッキングと言って、これは排気音ではなくエンジンから出る音だがチリチリという雑音が出る。
 要はそのような事がなく調子良くエンジンが回っていれば良いのであって、音量はその調子が分かる範囲で静かな方が良い。だから基本的にマフラーは純正品が好みだ。
 そしてようやく動力はカウンターシャフトからエンジンの外に出てくる。受け取るのはドライブスプロケットという歯車とチェーンで繋がれたリヤのドリブンスプロケットだ。
 スプロケットに伝わった駆動力はホイールハブとの間に挟まれたダンパーゴムで角を丸められ、マイルドな印象を伴いながらリヤタイヤを回転させる。チェーンの伸びやハブダンパーによる緩衝が無かったら、この400c単気筒の作り出すトルクはどれほど暴力的に車体を弾き出すのだろうか。
 こうしてSR400は穏やかに、時に力強く、常に味わい深く僕を目的地まで押し進めてくれるのだ。

 そしてその目的地が魅力的であればあるほど、その悦びは高まる。目的地は決して手強い相手では無い。尊敬と畏敬の念を持って目指すべき場所だ。
 今僕はこのマシンと一体となっている。SRというマシンを服従させているわけでも無いし、その能力に依存しているわけでも無い。
 僕とSRは同じ方向を向いたパートナーとして共に目的地を目指している。

北の大地を。



あとがき

 今年の夏も北海道ツーリングに行く予定です。
その記録をレポートにするか、私小説仕立てでまとめるか、そんな事を考えていたら頭の中で僕はもう出発していました。
 今は真夜中の高速道路をフェリー乗り場に向かって走っているのですが、それが今の僕なのか学生時代の僕なのか、はたまた今の時代を生きる別の「僕」なのか、まだ自分でも分かりません。

 現時点ではこんなツーリングに行きたい、という希望的観測をもとに綴っています。ゆっくりと書き進めるうちに実際のツーリングとシンクロしてリアルなものになっていくと思いますので、のんびりお付き合い頂ければと思います。


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