文学の無力について (または文学が含む凄まじい可能性の考察)

 文学は無力である。その文学が、無力ではなく、力を得る為には、必ず、文学より他の何かの力に頼らなければならない。この機敏を理解する為には、作家は、必ず、言葉そのもの、について、またさらに、考え直さなければならない。
 言葉には、必ず、話者と聞き手がある。次に、言葉には必ず、その言葉が発せられる瞬間的必然性がある。時々、読み手が、その読書に対して、何か必然性を抱く理由が、それである。「なんかすっごいいいタイミングで出会ったなあ」という、あの感覚である。あの感覚は、つまりは、言葉の力がここぞとばかりに炎を上げた瞬間の記憶であり、実はあれは、文学の力ではなかったのだった。
 それなら、文学とは何か。一言で断言すれば、文学とは、いや、一言では言えず、それは、恋文に似た遺言のようだ。しかも、全ての他人に対する、それのようだ。そして、社会智を牛耳ったような恋文あるいは遺言は、その文章が届く心持ちにあるヒトにのみだけ、少しだけ、伝わるしかないのだった。
 この機敏を深く考えずに、読み手のご機嫌をとるような、あるいは、読み手の興味をひかせるような、文学は、普通の会話に例えれば、それは、ナンパ野郎のようだ。ナンパという文化については、断言すれば、誰でもよいのであって、ナンパの後の人間関係と、ナンパ以前の感覚とを混同するのは、火事以前と火事以後を無理矢理ひとつにする如く、論理的飛躍であり、人の気持ちを何だと思っとるんやっ、という鉄の批判が持ち出される。つまりは、ナンパのような文学は、不純である。
 純粋な文学は、決して、他人に媚びない。だから、優しい言葉である。優しい言葉が無力である限りは、文学も無力であり、それは、太陽が夜に照ることが出来ないように、どだい、無理な話なのだった。
 考えてみると、まず、無力や、無理、という感覚について、汝らと共通認識を持ちたいと思うのが人間である私の心なのだが(そも、何を基準にして論理を紡いでいるかにより、無力という言葉の意味が変化する。ついでに書けば、新しい文学、というものはある。新しい文学など無理である、という人も多くいたが、それは、貴方には無理なのである。それはその人の決定であるから、真偽はともかく、無理なのである。新しさとは可能性の内容か、可能性の手段であるとすれば、ヴィトゲンシュタインも言っていた通り、可能性とは現実であるから、新しい文学、あるいは、可能性の文学とは、紙コップや塵取りのように、至って現実的である。ただ現象しない、もしくは現象し難いのである。新しさの微塵もない文学は文学ですらなく、それは日記もしくは交換日記である。私の言う文学の無力は、一億年を1日とする無力であり、逆に言えば、1日を一億年とするとてつもない力のことである。)、夜も深く、明日は年明け大掃除第三日目でもあるし、私は物語作家なのだし、このあたりで、この威嚇的随筆は、おしまい。

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